会いたいあなたがいない
2021年5月5日 考え事 ちょっとしんどい。行くことがほぼ決まってカレンダーを見て、なんか意外に日が残っていないのが辛い。あと20日しかない。もう20日しかない。次はすぐにはもどってこれない。
でも多分本当はそれじゃない。「最期に誰と会いたいか」を思ったとき、誰の顔も思い浮かばないことが一番悲しいんだと思う(あ、飲んでます)。
誰の、というと違うんだけど、思い浮かぶ人々はほとんど関係の浅い人。こういってはなんだけど「こんな人」が思い浮かぶ俺の人間関係はどうなっているんだろう、ということ。それではだめなんだけど、事実そうなんだよね。世間的にみればまったく恵まれた人間関係のはずなのにね。
つまらんなあ…。つまらん。
でも多分本当はそれじゃない。「最期に誰と会いたいか」を思ったとき、誰の顔も思い浮かばないことが一番悲しいんだと思う(あ、飲んでます)。
誰の、というと違うんだけど、思い浮かぶ人々はほとんど関係の浅い人。こういってはなんだけど「こんな人」が思い浮かぶ俺の人間関係はどうなっているんだろう、ということ。それではだめなんだけど、事実そうなんだよね。世間的にみればまったく恵まれた人間関係のはずなのにね。
つまらんなあ…。つまらん。
たどり着いた答え /成都
2017年3月9日 考え事 あんまりいい話でもないけどひさしぶりに「思い至った!」という件がありまして。僕が中国を好き(という表現もあまり正確じゃない気がするんだけど、わかりやすさ優先で)な理由についてです。
僕はここのところ、その理由を「中国人が本能に忠実なところが好き」と表現していました。いい意味でも悪い意味でも素直で、感情が行動と直結しているところ。うれしいなり悲しいなり怒りなりが簡単に表に出てくるというのが、日本と正反対なところが興味深いし、日本のその(ある意味ロボットみたいな)感情のなさがあんまり好きではない、みたいな話をしていたこともありました。
それとは別に進行していた話で、同僚(女)と酒を飲んでいる時になんか愛とセックスみたいな話になり、セックスのない愛なんかあるのかとか、お前は欲望をどうやってコントロールしてるんだとか(なんで俺はこんなことを女に言われるんだ?)、そんな話をされていたんですわ。で、僕はやりたきゃやるし、それは愛とはあんまり関係ないと思うけどねえ俺動物じゃないからコントロールもくそも…って言った時には自分で気づかなかったんだけど。
そ、この話って裏表・・・っていうのか?つながってるんですな。そもそも後者の話は、僕はずっと昔から神に対する反逆とか(大げさな表現だけど)いっていたんですよ。食欲であれ性欲であれ、そういったものを否定はしないけど、それに振り回されるべきではない、こちらがコントロールすべきであると。
でも、そういう事を言っている反面、「感情を素直に出す人たち」に憧れたりしている(憧れていうとちょっと違うけどなー)。これっておかしいよね。まだ自分で認めるところまで行ってないけど、要するにそれが一本の線だとすると、もっと素直に獣になれよって話なのかな…ううむ。
話変わって、成都に行ってきました。四川省にあって、まあなんでしょう一般的には麻婆豆腐発祥の地でしょうか。仕事だったんだけどまあちょろかったので帰りに無印良品の世界旗艦店に…ってなんで中国の奥地にあるんですかね世界旗艦店。世界。中国語だと宇宙旗艦店みたいに書いてある記事すらある…でも行ってみたら、入っている商業施設自体は非常にセンスがよくて唸らされるものがあったもののMUJI自体は別に新しい要素は一切なく、しかも中国的な概念にやられた我々にはあの店は狭すぎて…なんのための視察だったのかわかりません。別に主目的じゃなかったからいいけど。
昨日の夜は北京で会った友人と再会。3か月ぶりくらいなのになんかすごい久しぶりな感じ。彼の祖母がガンで入院しているとのことで、彼は仕事を長期で休んで付き添っているのでした。そんな状況なんで会うかどうか迷ったんだけど、まあこういう時には声かけないと何も進まないよねとも思って、連絡して会うことに。で色々話をするんだけど、やっぱこいつ面白いのなー。中国と日本の若者とか消費者についての考察みたいのを出し合って楽しい晩でした(一応仕事の打ち合わせだったんで仕事の話もしたけど)。
しかし彼、すごく頭がいいし同じピッチで話ができる(そしてうまいはうまいが、やっぱり英語が僕と同じレベルで残念)から面白い。でも心が弱いんだよなー。微信の投稿見てて心配だったし、僕のことを本当に友人だと思ってくれているっぽいのはとてもうれしいんだけど、そういう弱みを相手に見せないほうがいいぜ?って思うのよね。僕は別にそれに漬け込む気はないけれど。「ゆっくりとした死と向き合うのは初めてで、難しい」とか言ってた。そうだよね。僕にはそうした経験はまだ、ないけれど。
僕はここのところ、その理由を「中国人が本能に忠実なところが好き」と表現していました。いい意味でも悪い意味でも素直で、感情が行動と直結しているところ。うれしいなり悲しいなり怒りなりが簡単に表に出てくるというのが、日本と正反対なところが興味深いし、日本のその(ある意味ロボットみたいな)感情のなさがあんまり好きではない、みたいな話をしていたこともありました。
それとは別に進行していた話で、同僚(女)と酒を飲んでいる時になんか愛とセックスみたいな話になり、セックスのない愛なんかあるのかとか、お前は欲望をどうやってコントロールしてるんだとか(なんで俺はこんなことを女に言われるんだ?)、そんな話をされていたんですわ。で、僕はやりたきゃやるし、それは愛とはあんまり関係ないと思うけどねえ俺動物じゃないからコントロールもくそも…って言った時には自分で気づかなかったんだけど。
そ、この話って裏表・・・っていうのか?つながってるんですな。そもそも後者の話は、僕はずっと昔から神に対する反逆とか(大げさな表現だけど)いっていたんですよ。食欲であれ性欲であれ、そういったものを否定はしないけど、それに振り回されるべきではない、こちらがコントロールすべきであると。
でも、そういう事を言っている反面、「感情を素直に出す人たち」に憧れたりしている(憧れていうとちょっと違うけどなー)。これっておかしいよね。まだ自分で認めるところまで行ってないけど、要するにそれが一本の線だとすると、もっと素直に獣になれよって話なのかな…ううむ。
話変わって、成都に行ってきました。四川省にあって、まあなんでしょう一般的には麻婆豆腐発祥の地でしょうか。仕事だったんだけどまあちょろかったので帰りに無印良品の世界旗艦店に…ってなんで中国の奥地にあるんですかね世界旗艦店。世界。中国語だと宇宙旗艦店みたいに書いてある記事すらある…でも行ってみたら、入っている商業施設自体は非常にセンスがよくて唸らされるものがあったもののMUJI自体は別に新しい要素は一切なく、しかも中国的な概念にやられた我々にはあの店は狭すぎて…なんのための視察だったのかわかりません。別に主目的じゃなかったからいいけど。
昨日の夜は北京で会った友人と再会。3か月ぶりくらいなのになんかすごい久しぶりな感じ。彼の祖母がガンで入院しているとのことで、彼は仕事を長期で休んで付き添っているのでした。そんな状況なんで会うかどうか迷ったんだけど、まあこういう時には声かけないと何も進まないよねとも思って、連絡して会うことに。で色々話をするんだけど、やっぱこいつ面白いのなー。中国と日本の若者とか消費者についての考察みたいのを出し合って楽しい晩でした(一応仕事の打ち合わせだったんで仕事の話もしたけど)。
しかし彼、すごく頭がいいし同じピッチで話ができる(そしてうまいはうまいが、やっぱり英語が僕と同じレベルで残念)から面白い。でも心が弱いんだよなー。微信の投稿見てて心配だったし、僕のことを本当に友人だと思ってくれているっぽいのはとてもうれしいんだけど、そういう弱みを相手に見せないほうがいいぜ?って思うのよね。僕は別にそれに漬け込む気はないけれど。「ゆっくりとした死と向き合うのは初めてで、難しい」とか言ってた。そうだよね。僕にはそうした経験はまだ、ないけれど。
頂点、転落の恐怖と備えについて
2017年2月12日 考え事 ニューヨークでいつもの管理人さんとご飯を食べながら(今回は忙しかったようで泊めてもらえず…マンハッタンで普通の宿取ったの初めてだわ)色々話していて出てきたこと。
こういうのってなんていうのか、自分の中でもやもやしてる時にちゃんとした相手に話そうとすることで骨格というか、話がちゃんと固まるんで、やっぱりそういうことができる相手と話せることは重要だなと思うのです。とかいって細かいことは覚えてないんだけど、まあいいんですよ一回消化されればどうにかなるので。
で、今日偶然ちょっと前の代理店時代を思い出すようなことがあったんです。それはまだ3年くらい前の話。毎日のように日付変わるのはまあ代理店の性だからしょうがないし仕事自体はつまらなくなかったんだけど、上司がわりとサイコパスで個室でゲキ詰めるタイプだったんでその合わせ技で気が狂いそうだったですよね毎日。午前1時とかから詰められまくって2時とか3時に上司は悠々と帰っていき俺は朝まで仕事とか、いやもう今思い出しただけでも寒気っていうか吐き気っていうかですよね。
翻って今、駐在様なわけですよ。あの地獄(や、本当にあるんですよ地獄って)をよく生き延びたって思うしこれはある種のそのご褒美だとも思う。今だって労働時間は長いこともあるけど偉そうにふんぞり返ってられるし自由だし、いや天国ですよ。あの頃を思うと殊更にね。
こうなったことを僕はすごくラッキーだと思っている。どこかで読んだように、ラッキーなことが起こるかどうかは自分ではコントロールできないけど、そういう事が起きた時にものにできるかどうかは努力なんだ、という話があって、僕もそれを心がけて、なんとかラッキーをものにしたと思ってる。でもやっぱりこれは運がよかった。そして今の会社に入れたことでいえば、推薦していただいた方に本当に感謝してる。
だけどそれは裏を返せば、またいつかよくわからない理由で今の立場が簡単に消えうるということをも示している。そして、僕は今の状態はちょっと恵まれすぎなんじゃないかと思ってる。今までと連続性がなさ過ぎて、本当に想像ができない。
こう書くと根性ない人みたいだけど、やっぱりこう、今あの立場に戻れと言われたら相当しんどい。その恐怖があるからこそどうにか自分を伸ばさなきゃって思うんだけど、じゃあ何をしたらいいんだろうね。
そんなことはすぐに思い浮かぶわけではないんだけど、やっぱり余裕がある今だからこそ自分が「落ちそう」になった時にその流れを止めるための事を仕込んでおかなければいけない気がする。自分の身を守るために。じゃあ何をすればいいんだろう。わからん。こないだ書いた言語だけでは十分ではない気がする。そして前回僕の身を守ってくれたものは人間関係だった、ということも、なんか違うんじゃないかと思う原因のひとつでもある。あーあー。
こういうのってなんていうのか、自分の中でもやもやしてる時にちゃんとした相手に話そうとすることで骨格というか、話がちゃんと固まるんで、やっぱりそういうことができる相手と話せることは重要だなと思うのです。とかいって細かいことは覚えてないんだけど、まあいいんですよ一回消化されればどうにかなるので。
で、今日偶然ちょっと前の代理店時代を思い出すようなことがあったんです。それはまだ3年くらい前の話。毎日のように日付変わるのはまあ代理店の性だからしょうがないし仕事自体はつまらなくなかったんだけど、上司がわりとサイコパスで個室でゲキ詰めるタイプだったんでその合わせ技で気が狂いそうだったですよね毎日。午前1時とかから詰められまくって2時とか3時に上司は悠々と帰っていき俺は朝まで仕事とか、いやもう今思い出しただけでも寒気っていうか吐き気っていうかですよね。
翻って今、駐在様なわけですよ。あの地獄(や、本当にあるんですよ地獄って)をよく生き延びたって思うしこれはある種のそのご褒美だとも思う。今だって労働時間は長いこともあるけど偉そうにふんぞり返ってられるし自由だし、いや天国ですよ。あの頃を思うと殊更にね。
こうなったことを僕はすごくラッキーだと思っている。どこかで読んだように、ラッキーなことが起こるかどうかは自分ではコントロールできないけど、そういう事が起きた時にものにできるかどうかは努力なんだ、という話があって、僕もそれを心がけて、なんとかラッキーをものにしたと思ってる。でもやっぱりこれは運がよかった。そして今の会社に入れたことでいえば、推薦していただいた方に本当に感謝してる。
だけどそれは裏を返せば、またいつかよくわからない理由で今の立場が簡単に消えうるということをも示している。そして、僕は今の状態はちょっと恵まれすぎなんじゃないかと思ってる。今までと連続性がなさ過ぎて、本当に想像ができない。
こう書くと根性ない人みたいだけど、やっぱりこう、今あの立場に戻れと言われたら相当しんどい。その恐怖があるからこそどうにか自分を伸ばさなきゃって思うんだけど、じゃあ何をしたらいいんだろうね。
そんなことはすぐに思い浮かぶわけではないんだけど、やっぱり余裕がある今だからこそ自分が「落ちそう」になった時にその流れを止めるための事を仕込んでおかなければいけない気がする。自分の身を守るために。じゃあ何をすればいいんだろう。わからん。こないだ書いた言語だけでは十分ではない気がする。そして前回僕の身を守ってくれたものは人間関係だった、ということも、なんか違うんじゃないかと思う原因のひとつでもある。あーあー。
なんか最近そんな小難しいことを考えている…まあしょうがないというか性分というかそういうことして生きてるんだろお前、って話なだけなんですけど。
ちょっと機会があって、戦前の日本の通信社が満州国のプロパガンダに加担していたみたいな話をしたところ、「それは…」みたいなことを言われたんですよね。で、補助線としてもう1つ…あれこれ書いたっけな、こないだ香港でメディアの人と飯食ってた時に「メディアの役割は啓発なのに、それができていないのが問題だ」みたいな話を聞いたってのもある。
ああそう、その話をちょっとそれつつ書くけど、要するにその人の職業的自覚はそういうことみたいなんですよね。僕はその場では「しかし人は完璧な『教師』の言うことなら聞くけど、情報発信が特権ではなくなり、また内部についても色々暴露されるようになりオーラを失った報道機関は無条件の尊敬と傾聴の対象ではないのではないか」と答えました。さらにいうと「教導・啓蒙する」という事をジャーナリストが言ってしまうのはそりゃ傲慢だぜ、ってことでもあって(これは流石に言わないけど)。
で、報道・ジャーナリズムにとっての正義ってなんだろなと。まあよく言うように、教育と洗脳は行為としては大して違いはなく、それが悪かどうかというだけの話です。包丁やナイフは用途によって人も刺せるし野菜も切れる、というのも似ているのかな。
そして違うピースとして、最近読んだふるまいよしこさんの「中国メディア戦争」に書いてあってすごく腹落ちしたのは「中国における報道機関の役割は、党の方針を広く伝える事から始まっている(=通達が書いてある紙である)」 ということ。そもそもの他国におけるジャーナリズムの「事件を発見し、深耕し、伝える」という役割とは違うのです。これはいいわるいの話ではなく。だから政権や党に対する監視機能や批判は機能として「果たせない」のではなく「期待されてすらいない」んですよね。
そう考えるとそりゃ当たり前だと思うのは、人民日報とかって党の宣伝部(かな?部署忘れた)の下部機関なんですよね。そりゃそうですよね、だって「通達文書」なんだから、そういう機関が監督するのは当たり前。決して「好きなことを発表する場所」ではないわけです。
そうとらえるのはちょっと話をスムーズにしすぎな上にあまりいい内容でもないんだけど、やはり「新聞が党通達を目的に出版される国」の中国人が「メディアの役割は啓発」と言うと、なんというか「やっぱ君はどこまで西側っぽいことを考えてもそういう結論なのね」というようなため息も漏れてくるわけね。
話を元の車線に戻すと、たぶん僕が満州国云々いっていやな顔をしたのは自国のそうした体制に批判的な中国人なので、それと同じような仕組みを毛嫌いしている、というのはあったんだと思う…んだけど、(結果的には勿論違ったとはいえ)もし国の政策が正しかった(もしくは正しいと信じている)場合、その「教化」を手伝うことはメディアとして間違っていたのか、とかは思います。結果論という部分もおおいにあるんじゃないかと。
時間制限が設定されたゲームではない以上、本当に体制を批判したり告発することが意味があるとも言い切れない気がします。もちろんそのこと自体には意味があるわけだけど、どのみちどういう手段をとってもマイナスの面はあるわけで、もしかしたらその「叩いたマイナス部分」の大きさは、ほかの手段のほうが大きいかもしれないということです。
ま、別に答えがある話ではないんですけどね。しかし眠い…
ちょっと機会があって、戦前の日本の通信社が満州国のプロパガンダに加担していたみたいな話をしたところ、「それは…」みたいなことを言われたんですよね。で、補助線としてもう1つ…あれこれ書いたっけな、こないだ香港でメディアの人と飯食ってた時に「メディアの役割は啓発なのに、それができていないのが問題だ」みたいな話を聞いたってのもある。
ああそう、その話をちょっとそれつつ書くけど、要するにその人の職業的自覚はそういうことみたいなんですよね。僕はその場では「しかし人は完璧な『教師』の言うことなら聞くけど、情報発信が特権ではなくなり、また内部についても色々暴露されるようになりオーラを失った報道機関は無条件の尊敬と傾聴の対象ではないのではないか」と答えました。さらにいうと「教導・啓蒙する」という事をジャーナリストが言ってしまうのはそりゃ傲慢だぜ、ってことでもあって(これは流石に言わないけど)。
で、報道・ジャーナリズムにとっての正義ってなんだろなと。まあよく言うように、教育と洗脳は行為としては大して違いはなく、それが悪かどうかというだけの話です。包丁やナイフは用途によって人も刺せるし野菜も切れる、というのも似ているのかな。
そして違うピースとして、最近読んだふるまいよしこさんの「中国メディア戦争」に書いてあってすごく腹落ちしたのは「中国における報道機関の役割は、党の方針を広く伝える事から始まっている(=通達が書いてある紙である)」 ということ。そもそもの他国におけるジャーナリズムの「事件を発見し、深耕し、伝える」という役割とは違うのです。これはいいわるいの話ではなく。だから政権や党に対する監視機能や批判は機能として「果たせない」のではなく「期待されてすらいない」んですよね。
そう考えるとそりゃ当たり前だと思うのは、人民日報とかって党の宣伝部(かな?部署忘れた)の下部機関なんですよね。そりゃそうですよね、だって「通達文書」なんだから、そういう機関が監督するのは当たり前。決して「好きなことを発表する場所」ではないわけです。
そうとらえるのはちょっと話をスムーズにしすぎな上にあまりいい内容でもないんだけど、やはり「新聞が党通達を目的に出版される国」の中国人が「メディアの役割は啓発」と言うと、なんというか「やっぱ君はどこまで西側っぽいことを考えてもそういう結論なのね」というようなため息も漏れてくるわけね。
話を元の車線に戻すと、たぶん僕が満州国云々いっていやな顔をしたのは自国のそうした体制に批判的な中国人なので、それと同じような仕組みを毛嫌いしている、というのはあったんだと思う…んだけど、(結果的には勿論違ったとはいえ)もし国の政策が正しかった(もしくは正しいと信じている)場合、その「教化」を手伝うことはメディアとして間違っていたのか、とかは思います。結果論という部分もおおいにあるんじゃないかと。
時間制限が設定されたゲームではない以上、本当に体制を批判したり告発することが意味があるとも言い切れない気がします。もちろんそのこと自体には意味があるわけだけど、どのみちどういう手段をとってもマイナスの面はあるわけで、もしかしたらその「叩いたマイナス部分」の大きさは、ほかの手段のほうが大きいかもしれないということです。
ま、別に答えがある話ではないんですけどね。しかし眠い…
英国がEUを抜けるという話は事前に対して話題にならなかったのに(そりゃ誰もそんなことが本当に起こるなんて、信じてなかっただろうし)、いざ決まったあとにいきなり大騒ぎになっている気がする。あとトランプはもう少し早くコケると思ったのに今のところまだご存命だ。そんな中でおもったこと。
僕の世界に対するスタンス(おおげさ!)は、基本的には「もっと分断されるべきである」ということ。
フラット化する世界とかいうのが一時期流行ったし(そういえば読んでないな)、前も一回「いきなり世界大会」の話は書いたと思う。コミュニケーションの障害がなくなり時間差もなくなり、地区予選の単位が消滅し、何もかもがいきなり世界と勝負しなければいけなくなった、という話ね。
考えてもみてよ、「町で一番プログラミングがうまい」なんて何の価値もないでしょう?それが国ならなんとなくあるような気がするのは、やっぱり言語とか地理的な距離とか、そういったことでほかの国のトップとすぐに比較されないからでしかない。さらに言えばこれが「世界」でとどまっているのは、いまのところ幸運にも?少なくとも観測可能な範囲のほかの惑星に比較対象がいないからにすぎず、そこに誰かが現れた瞬間に、地球一すら大した価値を持たなくなる可能性だってある。
地域No1だって本来なら立派だし誇りを持っていいことのはず。でも即時にほかの地域、国、星の人々と比べられ、トップの1人以外は等しく「敗者」にされてしまう。何人に勝った人であっても、世界一でなければみんな敗者だ。まったく尊敬されない。これは、この世の中から確実に幸せを感じられる人の数を減らしていると思う。
もうひとつ、フラット…というよりワンワールド化といいたいけれど、がもたらす罪は、マイナスの蔓延だ。社会的なコストと言ってもいい。
これは政治的に正しい物言いかが微妙な気がする。しかし例えば「マナーの悪い中国人観光客が」みたいな話は、彼らが飛行機に気軽に乗って日本に来ることができるからこそ発生する話だ。僕は東京にいる中国人観光客のマナーが悪いと思ったことはないけれど(声はでかいし恰好がださいので慣れていない人にとっては目立つし鬱陶しいと思う気持ちはわかる)、まあ例えばの話ね。
こうした「小さな迷惑」を許容・我慢するべきかどうか。べき論でいえばべきなんだろうけど、別にそれでプラスのリターンがないなら、我慢ないで文句を言いたい、という人を黙らせることはできない。「昔は日本人も」と言われたところで別に僕たちはその当事者でもなく、「その時日本人をたたけばよかったのに」と思うだけだ。
昔(といってもいいくらい月日が流れてしまった)リーマンショックの時はやった「サブプライムローン」。ざつーに書けば、あれは色んな個人のローンをまとめて混ぜて再分割すれば計算上リスクが分担されるという理屈で組まれていたように記憶している。しかし結局大騒ぎになったのは、実際は「糞がまざった水はそれが疑われた時点ですべてが飲用に適さなくなる」ということだったはずだ。
それと同じで、しきいをなくすということは、自分の隣に自分が想像もできないような人が来ることを許容するということでもある。人間は基本的に自分と同質の人間が好きなのにも関わらずだ。
もちろんいいこともある。僕だってネットを通じて、普通に暮らしていたら会うこともなかったような違う分野の人とあった経験だってある。そういうのは、しきいがなくなった事のいい側面。
だけど、当然そこには悪いこともある、ということがあまり認識されていない気がする。いや、認識はされているけど、最近起こっているいろんなことの原因にこれがなっている、という風にとらえられていない気がするんだよね。
「イスラム教徒の移民を認めない」ということは、そういう立脚点からは想像できなくもない主張ではある。この場合、「善良なイスラム教徒」の人権とやらは多分どうでもよくて、「あなた個人は悪くないかもしれないけど、へんな自殺攻撃とかする人を生むような宗教の元に生まれてしまった連帯責任なんで」ということだと思う。
それよりこの主張の問題点は、世界の悪はなにもイスラム教徒だけにとどまらないということじゃないかと思う。いろんな人を押し切ってやらなければいけないわりに、それだけじゃ別にたいした予防策になりそうもないことこそが、間違いの根本。効率が悪すぎる。お前ら国内にもっと頭悪い犯罪者いくらもおるやろ、って話。ゲーテッドシティを志向するのは(責任感の欠如という批判はあるにせよ)間違いじゃないけれども、内側に危険があったらあまり意味がないのだ。
そう、でも逆に言えばゲートの内外で明確な差があるなら、ゲートには意味ができてしまう。もし例えば逆に「アフガンから世界中にゲリラが出ていくようなのでアフガンは今後一切出国禁止」というようなことは、人道上の問題はもちろんあるが、もしかしたら有効かもしれないのだ。
別に中国を毎回引き合いに出したいわけじゃないが、中国は都市と農村でかなりはっきり戸籍による差別があるといわれている。地方出身者は基本的に都市では歓迎されず、例えば学校にいけなかったり税金が違ったり、いろいろめんどくさいらしい。最近は政治的な事情でいろいろ緩和の方向に進んでいるらしいけど、まあ基本的にはひとつの国にも関わらず、そうしてある意味での「ゲーテッド」にしている。
それは「みんな平等」というぬるっぽい方針からすると大変違和感があるんだけど、実際に地方出身者が流入すると軽犯罪が増えるとか、まあそこまで言わなくてもくさいとかうるさいとか自動改札が通れないとか(今日遭遇)、そういうことがいろいろ出てくるわけだ。別に自動改札を通れないのはその人自身のせいではない(なんせ知らないんだから)わけだけど、それでも周りはめんどくせえな、と思うことは事実。
もうひとつ、移民でいうとお手伝いさんとか、そういった人たちをどう雇うかも、こうしたフラット化に影響を受けるだろう。いまはある意味で地域による賃金やらの差があるからお手伝いさんに来てもらって掃除してもらって、などということができるけど、これがもし同一の賃金だったら払いきれない…これは日本の状況を見ればわかる。日本でお手伝いさんに家事を任せることが少ないのは、単純に雇用できるのが日本人だけで、日本は比較的地方でも給料に差がない=雇うために比較的高い金額を払う必要がある、から、なんだろう。
中国の都市部ではわりとお手伝いさんを雇えるからだけど、これは要するに「地方出身者が安い金でやってくれる」から成り立つわけだ。シンガポールみたいな国だと、これが周辺の安い国を人材共有源とするようになるわけで、こうした「国のサイズによる使い分け」みたいなのは考えると面白いと思うんだけど…まあそれはいいとして、こうした賃金の差だって、意図的かはともかく、経済状況に差があり、彼らをいわば「閉じ込めている」からこそ成り立つ。シンガポールなんかはお手伝いさんが住み続けることを絶対に認めないし、そのルールは強烈だと聞く。
なんか話がとりとめもなくなってきそうなので今日はこの辺にしておく。ねむいし。ただ要するに「ゲーテッド思想」はなんとなく一般的には利己的で否定するべき、と脊椎反射したくなるけどそういうわけでもないんじゃないかなあ、というのが今日の趣旨というか出発点でした。
ただ英国の場合は新たにゲート…というか自らを覆う壁を作るのが大変そうだし壁の外の人々は「おいおい」って感じで壁の建設には当然協力的ではないだろうから大変だろうなあ、中途半端な壁を作っている最中に逃げる奴はおおいだろうなあ、あと上のほうでも書いたように「いくら閉じても内側にくそがあったら結局同じ」という話はどうするんだろうなあ、という風に思うのですが。どうなんでしょうね。
僕の世界に対するスタンス(おおげさ!)は、基本的には「もっと分断されるべきである」ということ。
フラット化する世界とかいうのが一時期流行ったし(そういえば読んでないな)、前も一回「いきなり世界大会」の話は書いたと思う。コミュニケーションの障害がなくなり時間差もなくなり、地区予選の単位が消滅し、何もかもがいきなり世界と勝負しなければいけなくなった、という話ね。
考えてもみてよ、「町で一番プログラミングがうまい」なんて何の価値もないでしょう?それが国ならなんとなくあるような気がするのは、やっぱり言語とか地理的な距離とか、そういったことでほかの国のトップとすぐに比較されないからでしかない。さらに言えばこれが「世界」でとどまっているのは、いまのところ幸運にも?少なくとも観測可能な範囲のほかの惑星に比較対象がいないからにすぎず、そこに誰かが現れた瞬間に、地球一すら大した価値を持たなくなる可能性だってある。
地域No1だって本来なら立派だし誇りを持っていいことのはず。でも即時にほかの地域、国、星の人々と比べられ、トップの1人以外は等しく「敗者」にされてしまう。何人に勝った人であっても、世界一でなければみんな敗者だ。まったく尊敬されない。これは、この世の中から確実に幸せを感じられる人の数を減らしていると思う。
もうひとつ、フラット…というよりワンワールド化といいたいけれど、がもたらす罪は、マイナスの蔓延だ。社会的なコストと言ってもいい。
これは政治的に正しい物言いかが微妙な気がする。しかし例えば「マナーの悪い中国人観光客が」みたいな話は、彼らが飛行機に気軽に乗って日本に来ることができるからこそ発生する話だ。僕は東京にいる中国人観光客のマナーが悪いと思ったことはないけれど(声はでかいし恰好がださいので慣れていない人にとっては目立つし鬱陶しいと思う気持ちはわかる)、まあ例えばの話ね。
こうした「小さな迷惑」を許容・我慢するべきかどうか。べき論でいえばべきなんだろうけど、別にそれでプラスのリターンがないなら、我慢ないで文句を言いたい、という人を黙らせることはできない。「昔は日本人も」と言われたところで別に僕たちはその当事者でもなく、「その時日本人をたたけばよかったのに」と思うだけだ。
昔(といってもいいくらい月日が流れてしまった)リーマンショックの時はやった「サブプライムローン」。ざつーに書けば、あれは色んな個人のローンをまとめて混ぜて再分割すれば計算上リスクが分担されるという理屈で組まれていたように記憶している。しかし結局大騒ぎになったのは、実際は「糞がまざった水はそれが疑われた時点ですべてが飲用に適さなくなる」ということだったはずだ。
それと同じで、しきいをなくすということは、自分の隣に自分が想像もできないような人が来ることを許容するということでもある。人間は基本的に自分と同質の人間が好きなのにも関わらずだ。
もちろんいいこともある。僕だってネットを通じて、普通に暮らしていたら会うこともなかったような違う分野の人とあった経験だってある。そういうのは、しきいがなくなった事のいい側面。
だけど、当然そこには悪いこともある、ということがあまり認識されていない気がする。いや、認識はされているけど、最近起こっているいろんなことの原因にこれがなっている、という風にとらえられていない気がするんだよね。
「イスラム教徒の移民を認めない」ということは、そういう立脚点からは想像できなくもない主張ではある。この場合、「善良なイスラム教徒」の人権とやらは多分どうでもよくて、「あなた個人は悪くないかもしれないけど、へんな自殺攻撃とかする人を生むような宗教の元に生まれてしまった連帯責任なんで」ということだと思う。
それよりこの主張の問題点は、世界の悪はなにもイスラム教徒だけにとどまらないということじゃないかと思う。いろんな人を押し切ってやらなければいけないわりに、それだけじゃ別にたいした予防策になりそうもないことこそが、間違いの根本。効率が悪すぎる。お前ら国内にもっと頭悪い犯罪者いくらもおるやろ、って話。ゲーテッドシティを志向するのは(責任感の欠如という批判はあるにせよ)間違いじゃないけれども、内側に危険があったらあまり意味がないのだ。
そう、でも逆に言えばゲートの内外で明確な差があるなら、ゲートには意味ができてしまう。もし例えば逆に「アフガンから世界中にゲリラが出ていくようなのでアフガンは今後一切出国禁止」というようなことは、人道上の問題はもちろんあるが、もしかしたら有効かもしれないのだ。
別に中国を毎回引き合いに出したいわけじゃないが、中国は都市と農村でかなりはっきり戸籍による差別があるといわれている。地方出身者は基本的に都市では歓迎されず、例えば学校にいけなかったり税金が違ったり、いろいろめんどくさいらしい。最近は政治的な事情でいろいろ緩和の方向に進んでいるらしいけど、まあ基本的にはひとつの国にも関わらず、そうしてある意味での「ゲーテッド」にしている。
それは「みんな平等」というぬるっぽい方針からすると大変違和感があるんだけど、実際に地方出身者が流入すると軽犯罪が増えるとか、まあそこまで言わなくてもくさいとかうるさいとか自動改札が通れないとか(今日遭遇)、そういうことがいろいろ出てくるわけだ。別に自動改札を通れないのはその人自身のせいではない(なんせ知らないんだから)わけだけど、それでも周りはめんどくせえな、と思うことは事実。
もうひとつ、移民でいうとお手伝いさんとか、そういった人たちをどう雇うかも、こうしたフラット化に影響を受けるだろう。いまはある意味で地域による賃金やらの差があるからお手伝いさんに来てもらって掃除してもらって、などということができるけど、これがもし同一の賃金だったら払いきれない…これは日本の状況を見ればわかる。日本でお手伝いさんに家事を任せることが少ないのは、単純に雇用できるのが日本人だけで、日本は比較的地方でも給料に差がない=雇うために比較的高い金額を払う必要がある、から、なんだろう。
中国の都市部ではわりとお手伝いさんを雇えるからだけど、これは要するに「地方出身者が安い金でやってくれる」から成り立つわけだ。シンガポールみたいな国だと、これが周辺の安い国を人材共有源とするようになるわけで、こうした「国のサイズによる使い分け」みたいなのは考えると面白いと思うんだけど…まあそれはいいとして、こうした賃金の差だって、意図的かはともかく、経済状況に差があり、彼らをいわば「閉じ込めている」からこそ成り立つ。シンガポールなんかはお手伝いさんが住み続けることを絶対に認めないし、そのルールは強烈だと聞く。
なんか話がとりとめもなくなってきそうなので今日はこの辺にしておく。ねむいし。ただ要するに「ゲーテッド思想」はなんとなく一般的には利己的で否定するべき、と脊椎反射したくなるけどそういうわけでもないんじゃないかなあ、というのが今日の趣旨というか出発点でした。
ただ英国の場合は新たにゲート…というか自らを覆う壁を作るのが大変そうだし壁の外の人々は「おいおい」って感じで壁の建設には当然協力的ではないだろうから大変だろうなあ、中途半端な壁を作っている最中に逃げる奴はおおいだろうなあ、あと上のほうでも書いたように「いくら閉じても内側にくそがあったら結局同じ」という話はどうするんだろうなあ、という風に思うのですが。どうなんでしょうね。
僕たちは、対立なんかしていない(続)
2015年8月2日 考え事 で、昨日書いた後、知り合いがFBに同じ話題の事を書いていてちょろっとコメント欄でやりとりがされていたのを見て思った事。
彼らは双方、かっこよく言えば相手に絶望しているんだというのが、多分一番いまの僕の感覚にあっているのかも。普通の論戦ならば基本的には相手を説得して意見を変えさせることが目的なんだと思うけど、この騒ぎ、相手方に向かうベクトルには「たおす」「やっつける」ことしかないように見える(別に昔はあったのになあ、というわけではない…というか知らんし)。まあ相手が狂って血に飢えた独裁者ならそうなるのかもしれないけど。
そして、そういった事をわあわあ訴える先も、相手ではない。「お前死ね」ではなく(いや死んで欲しいのかもしれないけど)、「バカな(orまだ目覚めていない)無関心層の人たち、こんな事が起こってるんですよ」というスタンスが双方から垣間見える気がする。なんていうか、すごく「外」だけを意識している(割には特に左派はこなれてないきもい感じがぬぐえないんだけど)、しかもなんか上から目線な気がして。被害者意識っすかね。
まあそんなかんじ。
あ、本筋の法案云々に関しては後方支援に限る云々って、正規戦前提のようなことをちょろちょろ聞くんだけどいま怖いのはテロだよね?そりゃ武器弾薬食糧運んでた現場は攻撃されるのは申し訳ないけど当然として、国としてターゲットにされた場合普通に一般市民危険なんですけど、「殺し合いならお前らだけでやってくれよ」ってはっきり言ってくれませんか迷惑だから、とは思ってます。逆にそのリスクが少ないなら(どうせ遠いからあんまそう自爆者とか送ってこないでしょって証明できるなら)しょうがない範囲なのかもなーと思ったり。
逆に「戦争にいきたくない!こどもをころさないで!」みたいなトンチキはもういいから黙ってろよって思う。話をややこしくされるの面倒だからお願いだからおまえがしんで。 この「反戦」運動の中核が昔の学生運動の燃えカスみたいなのだからなのかもしれないけど、彼らにとっての「戦争」は第二次世界大戦かいいとこ朝鮮・ベトナムのまんまなのかな。いまの戦争って先進国側では白兵戦ほとんどないし(ていうかアメリカ見てたって自国民がちょっと死んだだけで大騒ぎになるんだから、命をそんな気軽に使い捨てられません。況や今の日本)、ちゃんと訓練しないと使い物にならないですよね。
兵隊が死ぬことじゃなくて、一般市民が殺されることこそがこうした国際連座制みたいなのに加わる事のリスクだと思うんですけどね。そこ無視してるのか見えてないのかなんなんですかね。
ま、なんにしたってちゃんと勉強してないし、そこらへんのニュース見ても吐き気ばっかりが先行してまともに読む気にもなれないので雑な感想です。
不機嫌なのは久しぶりに言ったLawrysがたいしてうまくもない肉に雑すぎるサービスでまずいワインという、行ったメンツがメンツだったら「おい」っていう話になりかねないひどさだったからというのもあります。あの店5000円以上の価値はない。赤坂にあった時行ってコスパ悪いなあと思った記憶はあるんだけど、それをさらに超えていた。ひどいよ。金返せって思うの結構久しぶりだよ。偉そうにキャッシャーの横に絵飾るのはいいけど誰のだかわからないとかお笑い草だよ(作風からして、それを狙ったコピーとかでなければおそらくAlan West)。
まあそんなかんじ。
彼らは双方、かっこよく言えば相手に絶望しているんだというのが、多分一番いまの僕の感覚にあっているのかも。普通の論戦ならば基本的には相手を説得して意見を変えさせることが目的なんだと思うけど、この騒ぎ、相手方に向かうベクトルには「たおす」「やっつける」ことしかないように見える(別に昔はあったのになあ、というわけではない…というか知らんし)。まあ相手が狂って血に飢えた独裁者ならそうなるのかもしれないけど。
そして、そういった事をわあわあ訴える先も、相手ではない。「お前死ね」ではなく(いや死んで欲しいのかもしれないけど)、「バカな(orまだ目覚めていない)無関心層の人たち、こんな事が起こってるんですよ」というスタンスが双方から垣間見える気がする。なんていうか、すごく「外」だけを意識している(割には特に左派はこなれてないきもい感じがぬぐえないんだけど)、しかもなんか上から目線な気がして。被害者意識っすかね。
まあそんなかんじ。
あ、本筋の法案云々に関しては後方支援に限る云々って、正規戦前提のようなことをちょろちょろ聞くんだけどいま怖いのはテロだよね?そりゃ武器弾薬食糧運んでた現場は攻撃されるのは申し訳ないけど当然として、国としてターゲットにされた場合普通に一般市民危険なんですけど、「殺し合いならお前らだけでやってくれよ」ってはっきり言ってくれませんか迷惑だから、とは思ってます。逆にそのリスクが少ないなら(どうせ遠いからあんまそう自爆者とか送ってこないでしょって証明できるなら)しょうがない範囲なのかもなーと思ったり。
逆に「戦争にいきたくない!こどもをころさないで!」みたいなトンチキはもういいから黙ってろよって思う。話をややこしくされるの面倒だからお願いだからおまえがしんで。 この「反戦」運動の中核が昔の学生運動の燃えカスみたいなのだからなのかもしれないけど、彼らにとっての「戦争」は第二次世界大戦かいいとこ朝鮮・ベトナムのまんまなのかな。いまの戦争って先進国側では白兵戦ほとんどないし(ていうかアメリカ見てたって自国民がちょっと死んだだけで大騒ぎになるんだから、命をそんな気軽に使い捨てられません。況や今の日本)、ちゃんと訓練しないと使い物にならないですよね。
兵隊が死ぬことじゃなくて、一般市民が殺されることこそがこうした国際連座制みたいなのに加わる事のリスクだと思うんですけどね。そこ無視してるのか見えてないのかなんなんですかね。
ま、なんにしたってちゃんと勉強してないし、そこらへんのニュース見ても吐き気ばっかりが先行してまともに読む気にもなれないので雑な感想です。
不機嫌なのは久しぶりに言ったLawrysがたいしてうまくもない肉に雑すぎるサービスでまずいワインという、行ったメンツがメンツだったら「おい」っていう話になりかねないひどさだったからというのもあります。あの店5000円以上の価値はない。赤坂にあった時行ってコスパ悪いなあと思った記憶はあるんだけど、それをさらに超えていた。ひどいよ。金返せって思うの結構久しぶりだよ。偉そうにキャッシャーの横に絵飾るのはいいけど誰のだかわからないとかお笑い草だよ(作風からして、それを狙ったコピーとかでなければおそらくAlan West)。
まあそんなかんじ。
我々の動物化について
2015年8月1日 考え事 何人かの友人とやりとりしていて考えたことがあったのでメモ。まだまとまってない(最近結構多いね)。
■ デモ?社会運動?のような何か。
最近、明らかに目立ってきている。筆頭はきっと、SEALDsという団体?だろうと思う。こうした人たちがメディアに乗り、特に関心を持たない僕のところまで発言が流れてくる(彼らの、であったり、彼を否定する人の、であったり)のは、なんか気持ち悪いというのが正直な気持ち。
一応否定しておきたいのは、彼ら自身やこうした運動が気持ち悪いというのではないということ。繰り返しになるけど僕はこういうことに一切興味がないけど、こうした人たちの発言に光が当たるということは、ある程度以上の支持者がいる、もしくは(或いはそれに加えて)運動自体の正当性・必要性がある程度他者から認められているという事なんだと思う。いまはまだ木端っぽいけど、こういう事に敏感な政治家がこれに触れ始めているのがなんとも不愉快。
ちなみに彼らの末路ですが、何回かやって全然法律を変えたりすることに対する影響力発揮できない辺りでイライラし始めて内部で路線闘争が始まるのを見て大多数が「うへえ」と思って放棄、残った血の気の多い人たちが「武力革命!」とか言い出してテロやろうとして、でも今実質ちゃんとテロなんか教えてくれるところなんてないからすっごい稚拙であっという間に公安に捕まって、思う存分「これだからこういう団体は危険」というプロパガンダの為のおもちゃにされるんだと予想。
■ 左右の人たち
なんかこう気持ち悪いのは、特定秘密保護法案あたりから右も左も極端にワンフレーズに頼るようになってきたというか、お互いへの期待値といえばいいのかな…が極端に下がっている気がします。「戦争法案」とか言ってる人って、じゃあその法案を進めている人は人を殺したくてうずうずしてるキチガイだって思ってるんですかね、っていう話。首相をヒトラーになぞらえてるプラカードとか見るとそうなんだろうなあと思っちゃうけど。逆に進めている人側の説明の雑さは「お前らに説明してもどうせわかんないから」感がスケスケです。
やりたい方もそれなりの理由があり、やりたくない方も同様なはずだけど、それぞれがお互いを動物と思って説明を放棄している雰囲気がとてもする。
ただ、話して理解したり納得したりするためには、ある程度共通の知識と言う基盤が必要なんだろうと思うんだけど、それがないよなあというのがね…なんといえばいいのか。
あと、お互いに「動物にわからせるためなら」ということなのかなんなのか、異常な単純化や時にはそれ以上に「嘘でもインパクトありゃいい」みたいになってる気がするのも嫌なんだよね(とかいって具体的な例がぱっと出てこないけど)。
「社会が危険な方向に」と言うと「安倍政権による悪」を想定する人が多いんだけど、僕はむしろそれを通して見える論争の相手に対する期待値の低さみたいなものこそが危険の兆候だと感じている、ということです。
これとつながるというか、もしかしたら裏返しのことなのかもしれないけど、僕は「完璧な人・集団による独裁」が意思決定にもっともよいやりかただと思っていて、そもそも多数決を基盤とする意思決定が正しいとあんまり思っていません。
ひとつには、政府のやる事というのは「少数を泣かせてでも大多数のためになることをやる」とか「理屈でいえば正しいけど短期的には損に見える事を大局的な目線でやり通す」ということだと思っていて、これは必ずしも「民意」とは一致しないような気がしていて。
だから権力に対するチェック機能は強くあるべきと思いながら、逆に個別の事案に対する決定については大局観と意思と専門性を持った集団なり個人に任せる方が正しい結果になるのではと思うんです。これだけ問題が複雑になってきている中で、自分も含めた素人が正しい知識を持って正しく判断を下せると、なんで思うんだろうっていう。
で、さっきクソ媒体であるしらべえを読んでいたんですが、やまもといちろうによる下記のような文章が。
とてもなんというか、腹に落ちたのでした。かといってこれを読んだからどうすればいいのかわかる、というわけでもないんですけど、なんとかなんないんすかね、これ。
■ デモ?社会運動?のような何か。
最近、明らかに目立ってきている。筆頭はきっと、SEALDsという団体?だろうと思う。こうした人たちがメディアに乗り、特に関心を持たない僕のところまで発言が流れてくる(彼らの、であったり、彼を否定する人の、であったり)のは、なんか気持ち悪いというのが正直な気持ち。
一応否定しておきたいのは、彼ら自身やこうした運動が気持ち悪いというのではないということ。繰り返しになるけど僕はこういうことに一切興味がないけど、こうした人たちの発言に光が当たるということは、ある程度以上の支持者がいる、もしくは(或いはそれに加えて)運動自体の正当性・必要性がある程度他者から認められているという事なんだと思う。いまはまだ木端っぽいけど、こういう事に敏感な政治家がこれに触れ始めているのがなんとも不愉快。
ちなみに彼らの末路ですが、何回かやって全然法律を変えたりすることに対する影響力発揮できない辺りでイライラし始めて内部で路線闘争が始まるのを見て大多数が「うへえ」と思って放棄、残った血の気の多い人たちが「武力革命!」とか言い出してテロやろうとして、でも今実質ちゃんとテロなんか教えてくれるところなんてないからすっごい稚拙であっという間に公安に捕まって、思う存分「これだからこういう団体は危険」というプロパガンダの為のおもちゃにされるんだと予想。
■ 左右の人たち
なんかこう気持ち悪いのは、特定秘密保護法案あたりから右も左も極端にワンフレーズに頼るようになってきたというか、お互いへの期待値といえばいいのかな…が極端に下がっている気がします。「戦争法案」とか言ってる人って、じゃあその法案を進めている人は人を殺したくてうずうずしてるキチガイだって思ってるんですかね、っていう話。首相をヒトラーになぞらえてるプラカードとか見るとそうなんだろうなあと思っちゃうけど。逆に進めている人側の説明の雑さは「お前らに説明してもどうせわかんないから」感がスケスケです。
やりたい方もそれなりの理由があり、やりたくない方も同様なはずだけど、それぞれがお互いを動物と思って説明を放棄している雰囲気がとてもする。
ただ、話して理解したり納得したりするためには、ある程度共通の知識と言う基盤が必要なんだろうと思うんだけど、それがないよなあというのがね…なんといえばいいのか。
あと、お互いに「動物にわからせるためなら」ということなのかなんなのか、異常な単純化や時にはそれ以上に「嘘でもインパクトありゃいい」みたいになってる気がするのも嫌なんだよね(とかいって具体的な例がぱっと出てこないけど)。
「社会が危険な方向に」と言うと「安倍政権による悪」を想定する人が多いんだけど、僕はむしろそれを通して見える論争の相手に対する期待値の低さみたいなものこそが危険の兆候だと感じている、ということです。
これとつながるというか、もしかしたら裏返しのことなのかもしれないけど、僕は「完璧な人・集団による独裁」が意思決定にもっともよいやりかただと思っていて、そもそも多数決を基盤とする意思決定が正しいとあんまり思っていません。
ひとつには、政府のやる事というのは「少数を泣かせてでも大多数のためになることをやる」とか「理屈でいえば正しいけど短期的には損に見える事を大局的な目線でやり通す」ということだと思っていて、これは必ずしも「民意」とは一致しないような気がしていて。
だから権力に対するチェック機能は強くあるべきと思いながら、逆に個別の事案に対する決定については大局観と意思と専門性を持った集団なり個人に任せる方が正しい結果になるのではと思うんです。これだけ問題が複雑になってきている中で、自分も含めた素人が正しい知識を持って正しく判断を下せると、なんで思うんだろうっていう。
で、さっきクソ媒体であるしらべえを読んでいたんですが、やまもといちろうによる下記のような文章が。
現代社会というのはこの世で解決しなければいけない問題が多岐に渡り過ぎています。人間一人が問題を認識し把握し理解して、解決に力を注ごうとするのと、誰かが問題だと騒ぎ、報じ、それに対する態度を第三者として決めるのとでは、問題にコミットする度合いも覚悟も知識もまったく違うということです。
大事な問題だけれどもややこしくて分からないということは、決して恥でもないし、それを国民に伝え、知らしめることのできるメディアの機能というのはそこまで実は重要なものなのだということは、改めて理解できると思うんですよね。
その分、プロパガンダやちょっとした事件で世論がだーっと動いていくことについて、私たちはより敏感にならなければならないし、物事について慎重に考えて判断していく癖をつけるべきだと考えるわけです。
どうもこれが私たちの情報化社会というものであり、その上に立脚した民主主義の真相なんでしょう。分かってなくても判断を強いられてしまう、この社会の仕組みというものは、果たして私たちにとって本当に過ごしやすいものなのでしょうか。
http://sirabee.com/2015/05/15/30968/
とてもなんというか、腹に落ちたのでした。かといってこれを読んだからどうすればいいのかわかる、というわけでもないんですけど、なんとかなんないんすかね、これ。
走り書きでうまくまとめられるか心配だけど、すごく面白かったので、書き残す。2個くらい下の記事の話にちょっと関連する。
少数派であることは、直接価値が高いことを意味しない。書いてみると当たり前かもしれないけど、これってわりと見逃していた気がする。少なくとも自分は。なんとなく「数が少ない=貴重」みたいな宝石みたいなイメージに捕らわれていたり、「少数意見を尊重しなきゃ」「マイノリティとして虐げられてるからかわいそう」みたいな変な雑念のようなものが入ってしまうと、その意見とか主張が正しいかどうかを図らなきゃいけないのになんか曲がってしまうかもな…と。
念頭にあるのはセクシャルマイノリティのこと。「LGBTすげえ」「あたまいい」「かねもってる(これは事実っぽいけど、別にこれもLGBTであるからでなく、彼らの発生しやすいバックグラウンドが原因ですよね)」って、「単に数が少ないだけの人」だからって彼等を特別視しすぎてませんか?ということ。世の中みんながパン食になって、ご飯食べる人が少なかったとして、じゃあ「こいつらご飯食べるから体力あるのな!」って
…うわー適当な調査結果とともにそういうことがおこりそうでならない…でもまあ、僕が何を書きたかったかjは伝わりますよね。ならねえだろ?好みの違いがなんで能力にひもづくんだよ…って思いましたって話を眠くても書き残したかったのです。
少数派であることは、直接価値が高いことを意味しない。書いてみると当たり前かもしれないけど、これってわりと見逃していた気がする。少なくとも自分は。なんとなく「数が少ない=貴重」みたいな宝石みたいなイメージに捕らわれていたり、「少数意見を尊重しなきゃ」「マイノリティとして虐げられてるからかわいそう」みたいな変な雑念のようなものが入ってしまうと、その意見とか主張が正しいかどうかを図らなきゃいけないのになんか曲がってしまうかもな…と。
念頭にあるのはセクシャルマイノリティのこと。「LGBTすげえ」「あたまいい」「かねもってる(これは事実っぽいけど、別にこれもLGBTであるからでなく、彼らの発生しやすいバックグラウンドが原因ですよね)」って、「単に数が少ないだけの人」だからって彼等を特別視しすぎてませんか?ということ。世の中みんながパン食になって、ご飯食べる人が少なかったとして、じゃあ「こいつらご飯食べるから体力あるのな!」って
…うわー適当な調査結果とともにそういうことがおこりそうでならない…でもまあ、僕が何を書きたかったかjは伝わりますよね。ならねえだろ?好みの違いがなんで能力にひもづくんだよ…って思いましたって話を眠くても書き残したかったのです。
「いのちは、大切だ」
2015年1月22日 考え事https://www.youtube.com/watch?v=5eBVfnlCOUU
前も何回か書いたんですが、日本のCMで僕の一番好きなものが、この作品。今日中国語の授業で広告の話をしていて「あなたの一番好きな広告は?」という話をしていてこれを紹介してみました。動きがない画だし、言葉がシンプルなのに内容が難しいという翻訳に全く適さない内容なんですが、
先生は僕のつたない説明(だけではわからなかったので日本語のコピーを見せたり)を拾ってきれいに訳してくれたんですが、その時に言われてはっとしたこと。
すごく、当たり前なんだけどこれって「ほかの人に対して優しくしよう」ってことなんだよね、根本的には。自殺をしようとしている人に対する呼びかけじゃなく、その周囲の人への呼びかけなんだよね。いや、本当にちゃんと読んで考えれば当たり前の話なんだけど...いやいままでこれを一番好きといい続けていた自分が恥ずかしい。
ちょうど僕中国SNSに阪神から20年になった17日に、「人間はいつ死ぬかわからないんだから、できるだけ自分がお世話になってる人にはナイスでありたいと思う」みたいなことを書いていたあとだけに、ってのもあるんだよね。
このCMからも、10年経つんだね。
―『命は、大切だ。』
―『命を、大切に。』
―『そんなこと、何千何万回言われるより、』
―『あなたが大切だ。』
―『誰かが、そう言ってくれたら、』
―『それだけで、生きていける。』
前も何回か書いたんですが、日本のCMで僕の一番好きなものが、この作品。今日中国語の授業で広告の話をしていて「あなたの一番好きな広告は?」という話をしていてこれを紹介してみました。動きがない画だし、言葉がシンプルなのに内容が難しいという翻訳に全く適さない内容なんですが、
先生は僕のつたない説明(だけではわからなかったので日本語のコピーを見せたり)を拾ってきれいに訳してくれたんですが、その時に言われてはっとしたこと。
すごく、当たり前なんだけどこれって「ほかの人に対して優しくしよう」ってことなんだよね、根本的には。自殺をしようとしている人に対する呼びかけじゃなく、その周囲の人への呼びかけなんだよね。いや、本当にちゃんと読んで考えれば当たり前の話なんだけど...いやいままでこれを一番好きといい続けていた自分が恥ずかしい。
ちょうど僕中国SNSに阪神から20年になった17日に、「人間はいつ死ぬかわからないんだから、できるだけ自分がお世話になってる人にはナイスでありたいと思う」みたいなことを書いていたあとだけに、ってのもあるんだよね。
このCMからも、10年経つんだね。
「最適化」のもつ悪をどう排除するかについて(ドラフト)
2015年1月9日 考え事 以前にも触れたことがある気がするし、これも年頭の何かというにはちょっと重すぎる気はしているけれど、少しずつ輪郭が出てきたのと、何より体がまだ思うように動かないので退屈しのぎも含めて書く。
世界には色々な壁がある。物理的・精神的、また本当に阻むもの、ただ気力を殺ぐだけのもの。どのようなものであれ基本的には壁は悪いもの、ないほうがよいものとされていて、曰く「風通しをよくしましょう」みたいな掛け声もまた、ある。言葉の壁、民族の壁、ベルリンの壁だって立派な悪役だ。
壁なき世界、というとなんかいい感じではある。しかし反対から見ると、壁があるから内側に堆積するものもあるわけで、それが独自性とか文化とか、そういったキャラクタを作っていくのかなと僕は思うのです。
この事に関してはもっとちゃんと考え抜いて文を書いてみたいと思っている。誰かに読ませたいという欲望があるわけではないし、別に場所はここでもよいんだけど、でもこうやっていつものやりかたで流し書きする軽さの内容ではない。でもこうやって思考の過程を垂れ流すことで、なんかあとですこしでもまとめやすい気もする。わからんけど。
「最」というのはその言葉の意味からしてひとつにしか与えられない称号です。No1。そして我々は中途半端に賢く中途半端に愚かなので、「これがNo1ですよ」と証拠と共に差し出されたら、とたんにNo2以下に興味なんてなくなってしまう。当たり前だ。競争が平等に行われたなら、2を選ぶ理由なんかない。そうして、No1はその競技種目に関心がある「全員」の興味を根こそぎ奪っていく。東京都内グルメランキングフレンチ部門第一位に輝くあの名店。
別にランキングがなければ2位以下だって十分コスパのいい料理を提供していたかもしれないけど、彼らの客は確実に奪われる。本来なら「知る」事は利益だし、客に悪気があるわけではない。きわめて合理的な、「No1がいい」という話。
全く逆の世界。たとえばカメラマン。極めて限られたトップ層を除いて、まあ非常に乱暴に言ってしまえば誰かを起用するときは「知り合いから選ばれる」。ランキングなんてないし(賞はあるよ)、そもそもどうやって何を基準にランキングつけていいのかよくわからん。だから知り合いからってのは別に縁故とかそういうわけじゃなく、仕事を見たことがある、この人はこの要求に合ってると思うから起用する。たとえばクルマ・・・はまあ特殊だから実際は違うだろうけどクルマの写真が撮りたい、じゃあ前撮ってもらったあの人に、かといってもあしかしたらほかにもっとうまい人いるかもしれないけど、そういう議論にはなりにくい。
なんで?
それは書いたように「ランキング」がないから。候補になりそうな全員の作品を平等に集めるプラットフォームがない。不透明。非効率。だから全ての選択肢を検討してから選ぶことができない。それって普通に考えると、選ぶほうからするととても嫌だけど、おそらくカメラマン業界全体からしたらそうなってるから雇用というか仕事の機会が適度に散らばって競争にもなりきらず、保てている部分もあると思う。
そう、最適化は激烈な競争を生む。だって椅子が一個しかない椅子取りゲームに参加させられるんだから。そしてそれは一見(というかどこから見ても)間違いではない。むしろ情報の遮断のおかげで生存していると「なんだお前は環境に甘えて」と言われる雰囲気さえあるんじゃないかと思う。
でも勝ち抜いてジャンル総取りしてみたらみたで、その人の元には全ての仕事が(理屈の上では)集まってしまう。仕事のクオリティはきっと下がるよね。1位の仕事のクオリティは下がり、2位以下は仕事を失う。そしてしばしば下がった仕事のクオリティは2位のものより低くなったりするんだろうな。
最近為末大さんの文章でアーレントがナチスの裁判についての本で「多数決のみに正義を依拠するのは悪だ」みたいなことを書いていたと書いていて読むつもりが気合が足りずにアーレントをまだ読めていない僕は本とかよまなそうなアスリートに先を越されてグヌヌなんだけどまあそれはいいとして、ああそうそうただ文章の書き方がちょっとアレなもので何の本で正確にどのように書いていたのかさっぱりわからんのがちょっとねえなんだけど(引用のように書いていた部分をコピペでも、接続詞とか抜いた単語レベルの列挙でも引用元ぽいのに行き当たらない...無念)まあそれもいいとして。
そうここで書きたかったのは別に多数決による投票の悪ではないのです。それはそれで別の悪があるしそれについては思うところもあるんだけど、とりあえず別腹。
僕が嫌だなと思うのは、たとえばこういうこと。NYに行くとします。昔は旅行会社の手配したツアーの行くところに皆行っていました。少し経って個人旅行が主流になると、みんな地球の歩き方に載っている場所にいくようになります。さて、インターネットで自由に情報が手に入る今、行動は多様化されましたか?結局みんな「ニューヨーク 観光」みたいに検索して、それで出た「ニューヨークの遊び方(http://nyliberty.exblog.jp/)」あたりで見た穴場回って満足してるだろ...ってそれ俺か。いやでもNY行くってんで情報収集すると必ずひっかかる気がする。検索エンジン経由で開いてみたらこのサイトだった、ということがかなり多いです...。
それもおいといて。ああ、こうして書いてみると「最適化されてるのが悪い」というより「結局受動的に与えられた情報で満足してる愚民が悪い」みたいになってしまうな...。それもまた論点のひとつではあるんだけど、なんだろう・・・書き出してみると
- 情報がそろいすぎてしまい一覧性が高まることは地理的な距離、文化、年齢などによって適度にばらけるのが自然(だと思う)な嗜好を画一化の方向に誘導する...というか同じインプットなら同じ選択になることは自然で、たとえば年齢によって変わるのは情報源や周囲の評価基準、持ってる金とかが違うからのはずなんだけど。
- そして一覧性が高まりすぎることにより選択が容易になり、一人だけの勝者をうむ為の競争を発生させ、それは勝者も敗者も両者に利がない
- 情報通信技術その他の発展でしかも争いがすぐに世界大会になっちゃいがち(日本はまだ言語の壁に守られている部分があるが)...さっきのレストランの例で言えばNOMAが日本に来ますよ!とか。お前来んでええわ食いたかったらこっちから行けばええねん、って思うけどね僕。
うーん。まとまりきらない。別に1位になることが幸せであると書きたいわけじゃないんだけどな...。なんだろう、またレストランの例で言えば「フレンチではあそこがNo1だけどローヌ地方ならあそこ」とか「フォアグラ食べたかったらあそこ」みたいなやりかたはあると思うんですよ。全てが最適になっていく流れからはどうせ逃げられないわけだしその魅力には抗えないんだから、せめて個別ランキングというか評価の対象を細かくしていくというか...少なくともそうやって店側は自分をNo1だとアピールすることはできるし(ネットのおかげでロングテールでも生きられます!といういいかたもされるでしょ)。
そうやって世界大会の争いに全力で投球せずに自分で地方大会定義してそこでNo1面するっていうことね。ああだから別に1位になろうぜ?って話だけではないんだけどな...どうもうまくまとまらない。
や、直感としてこの最適化が世界全体の幸せの総量を減らしている気がするんですよね。そこにただ、うまく言葉と思考がついていかないなーという。ま、も少し考えますが。
ああ、あと情報の平準化によってロングテール、みたいなマイナー分野の活性化みたいなことが言われていたけど、実はその後に来たのは結局ドメジャー路線へのより一極集中で、その影響でマイナーはさらに死んでいく(今までは気づかれなかっただけで細々生きてたけど、今度は死だ)のではないかという漠然とした危機感の話も書きたいけどこれもなんか言葉になりきらない。
まあそんなかんじ。なんか風邪が長引いていて気力も体力もまだわきません。明日は午後から用事を入れたし週末から北京で動きまくるので明日もその用事を除いてずっと安静にしていようとおもいます。。。
世界には色々な壁がある。物理的・精神的、また本当に阻むもの、ただ気力を殺ぐだけのもの。どのようなものであれ基本的には壁は悪いもの、ないほうがよいものとされていて、曰く「風通しをよくしましょう」みたいな掛け声もまた、ある。言葉の壁、民族の壁、ベルリンの壁だって立派な悪役だ。
壁なき世界、というとなんかいい感じではある。しかし反対から見ると、壁があるから内側に堆積するものもあるわけで、それが独自性とか文化とか、そういったキャラクタを作っていくのかなと僕は思うのです。
この事に関してはもっとちゃんと考え抜いて文を書いてみたいと思っている。誰かに読ませたいという欲望があるわけではないし、別に場所はここでもよいんだけど、でもこうやっていつものやりかたで流し書きする軽さの内容ではない。でもこうやって思考の過程を垂れ流すことで、なんかあとですこしでもまとめやすい気もする。わからんけど。
「最」というのはその言葉の意味からしてひとつにしか与えられない称号です。No1。そして我々は中途半端に賢く中途半端に愚かなので、「これがNo1ですよ」と証拠と共に差し出されたら、とたんにNo2以下に興味なんてなくなってしまう。当たり前だ。競争が平等に行われたなら、2を選ぶ理由なんかない。そうして、No1はその競技種目に関心がある「全員」の興味を根こそぎ奪っていく。東京都内グルメランキングフレンチ部門第一位に輝くあの名店。
別にランキングがなければ2位以下だって十分コスパのいい料理を提供していたかもしれないけど、彼らの客は確実に奪われる。本来なら「知る」事は利益だし、客に悪気があるわけではない。きわめて合理的な、「No1がいい」という話。
全く逆の世界。たとえばカメラマン。極めて限られたトップ層を除いて、まあ非常に乱暴に言ってしまえば誰かを起用するときは「知り合いから選ばれる」。ランキングなんてないし(賞はあるよ)、そもそもどうやって何を基準にランキングつけていいのかよくわからん。だから知り合いからってのは別に縁故とかそういうわけじゃなく、仕事を見たことがある、この人はこの要求に合ってると思うから起用する。たとえばクルマ・・・はまあ特殊だから実際は違うだろうけどクルマの写真が撮りたい、じゃあ前撮ってもらったあの人に、かといってもあしかしたらほかにもっとうまい人いるかもしれないけど、そういう議論にはなりにくい。
なんで?
それは書いたように「ランキング」がないから。候補になりそうな全員の作品を平等に集めるプラットフォームがない。不透明。非効率。だから全ての選択肢を検討してから選ぶことができない。それって普通に考えると、選ぶほうからするととても嫌だけど、おそらくカメラマン業界全体からしたらそうなってるから雇用というか仕事の機会が適度に散らばって競争にもなりきらず、保てている部分もあると思う。
そう、最適化は激烈な競争を生む。だって椅子が一個しかない椅子取りゲームに参加させられるんだから。そしてそれは一見(というかどこから見ても)間違いではない。むしろ情報の遮断のおかげで生存していると「なんだお前は環境に甘えて」と言われる雰囲気さえあるんじゃないかと思う。
でも勝ち抜いてジャンル総取りしてみたらみたで、その人の元には全ての仕事が(理屈の上では)集まってしまう。仕事のクオリティはきっと下がるよね。1位の仕事のクオリティは下がり、2位以下は仕事を失う。そしてしばしば下がった仕事のクオリティは2位のものより低くなったりするんだろうな。
最近為末大さんの文章でアーレントがナチスの裁判についての本で「多数決のみに正義を依拠するのは悪だ」みたいなことを書いていたと書いていて読むつもりが気合が足りずにアーレントをまだ読めていない僕は本とかよまなそうなアスリートに先を越されてグヌヌなんだけどまあそれはいいとして、ああそうそうただ文章の書き方がちょっとアレなもので何の本で正確にどのように書いていたのかさっぱりわからんのがちょっとねえなんだけど(引用のように書いていた部分をコピペでも、接続詞とか抜いた単語レベルの列挙でも引用元ぽいのに行き当たらない...無念)まあそれもいいとして。
そうここで書きたかったのは別に多数決による投票の悪ではないのです。それはそれで別の悪があるしそれについては思うところもあるんだけど、とりあえず別腹。
僕が嫌だなと思うのは、たとえばこういうこと。NYに行くとします。昔は旅行会社の手配したツアーの行くところに皆行っていました。少し経って個人旅行が主流になると、みんな地球の歩き方に載っている場所にいくようになります。さて、インターネットで自由に情報が手に入る今、行動は多様化されましたか?結局みんな「ニューヨーク 観光」みたいに検索して、それで出た「ニューヨークの遊び方(http://nyliberty.exblog.jp/)」あたりで見た穴場回って満足してるだろ...ってそれ俺か。いやでもNY行くってんで情報収集すると必ずひっかかる気がする。検索エンジン経由で開いてみたらこのサイトだった、ということがかなり多いです...。
それもおいといて。ああ、こうして書いてみると「最適化されてるのが悪い」というより「結局受動的に与えられた情報で満足してる愚民が悪い」みたいになってしまうな...。それもまた論点のひとつではあるんだけど、なんだろう・・・書き出してみると
- 情報がそろいすぎてしまい一覧性が高まることは地理的な距離、文化、年齢などによって適度にばらけるのが自然(だと思う)な嗜好を画一化の方向に誘導する...というか同じインプットなら同じ選択になることは自然で、たとえば年齢によって変わるのは情報源や周囲の評価基準、持ってる金とかが違うからのはずなんだけど。
- そして一覧性が高まりすぎることにより選択が容易になり、一人だけの勝者をうむ為の競争を発生させ、それは勝者も敗者も両者に利がない
- 情報通信技術その他の発展でしかも争いがすぐに世界大会になっちゃいがち(日本はまだ言語の壁に守られている部分があるが)...さっきのレストランの例で言えばNOMAが日本に来ますよ!とか。お前来んでええわ食いたかったらこっちから行けばええねん、って思うけどね僕。
うーん。まとまりきらない。別に1位になることが幸せであると書きたいわけじゃないんだけどな...。なんだろう、またレストランの例で言えば「フレンチではあそこがNo1だけどローヌ地方ならあそこ」とか「フォアグラ食べたかったらあそこ」みたいなやりかたはあると思うんですよ。全てが最適になっていく流れからはどうせ逃げられないわけだしその魅力には抗えないんだから、せめて個別ランキングというか評価の対象を細かくしていくというか...少なくともそうやって店側は自分をNo1だとアピールすることはできるし(ネットのおかげでロングテールでも生きられます!といういいかたもされるでしょ)。
そうやって世界大会の争いに全力で投球せずに自分で地方大会定義してそこでNo1面するっていうことね。ああだから別に1位になろうぜ?って話だけではないんだけどな...どうもうまくまとまらない。
や、直感としてこの最適化が世界全体の幸せの総量を減らしている気がするんですよね。そこにただ、うまく言葉と思考がついていかないなーという。ま、も少し考えますが。
ああ、あと情報の平準化によってロングテール、みたいなマイナー分野の活性化みたいなことが言われていたけど、実はその後に来たのは結局ドメジャー路線へのより一極集中で、その影響でマイナーはさらに死んでいく(今までは気づかれなかっただけで細々生きてたけど、今度は死だ)のではないかという漠然とした危機感の話も書きたいけどこれもなんか言葉になりきらない。
まあそんなかんじ。なんか風邪が長引いていて気力も体力もまだわきません。明日は午後から用事を入れたし週末から北京で動きまくるので明日もその用事を除いてずっと安静にしていようとおもいます。。。
単純さ / 歪んだ僕らの歪な類似
2015年1月7日 考え事 あけましておめでとうございます。しょっぱなから旅先で食中毒になるという幸先のよさで2015年でした。この辺に関しては旅日記を書きます。ええ、時間はありますので、いいわけはできません。ちゃんと書きます。というかホント書き残さないと自分で覚えてられないんだもん、悲しいくらい。
さて、今日というか今年の最初のお話はまた偽名ちゃん。もうお前それやめろよ感については否めないというかなんというか、なんですが、旅先で珍しく彼女に年賀メールを書いていたのです。あ、彼女だけでなく、去年おせわになった人たちに。ある人にはクリスマスに送り、ある人には新年に送り、ある人には旧正月に。
別に習慣に合わせてとかいうしゃれた話ではなくまとめて送ると一回の分量が多くて大変だからというだけなんですけど。
で、彼女宛にはいろいろあったことだし、一回ちゃんとお礼をいったほうがいいかなと思って、きちんと書きました。自分でも書いてみてひどくこっぱずかしいと思ったし遺書的だなあとも思ったんだけど、でも自分がいまこうして幸せでいられることの一部分を彼女には支えてもらっていることは事実で、こうして余裕がある時くらいはせめてちゃんとありがとうって言っておくのもいいかなと。本当はメールじゃなく対面でいうべきなんだけどね。わかってるけどね。でもちょっとはずかしいね。
それはともかく。書いていて僕が彼女を殊の外好きな理由が何なのか、わかった気がしたのです。これまでは「俺も女の趣味が変わったなあ」という理解だったのですが、違いますね。いやこの要素もあるかもしらんが。で、そのあたりの事を当人に伝えるものでもないので、でも自分の今の気持ちを刻んでおきたくてここに書こうかなと思ったのです。のちのち「2015年初頭はなにをしていたのかのう」と思った時にこの記事が頭にくることの是非については...ま、しゃあないよね本当にこのこと考えてるんだから。
話がちょっとそれるけど、「この要素」について考えてみたら自分的にわりと面白かったのでそれも書いちゃいます。いままでの僕といえば哲学者であるお狗さまを筆頭に僕が惚れるのはわりと複雑(難しいことを考えることが好き/人生に影があって屈折してる)人が多かったように思います。ただ、今の仕掛である不動産屋さんもそうなんですが(ちなみに今日振られる予定)、ここ数年緩やかに(恋愛だけでなく)上記と反対の意味での「単純な人」を気に入る傾向があります。単純という言葉はときに(というか大半)悪い意味に使われることが多い言葉だと思うんですが、ここでは単に反対語です。
別に異性の好みだけに限らず、僕は最近「複雑なことは弱い」という考え方に変化してきていると感じます。別にオッカムの剃刀などという洒落たことを言うつもりなどなく、程度の差はあれ所詮は借り物である「理屈」「論理」を使って説明をすること自体が弱いことなのではないかと思えるのです。「自分はこう思う/感じるからこうであるのだ」というのは、客観的にいかに間違っていようとそれが通る限りにおいてはシンプルにして最強なのではないでしょうか。
まあそんなことを理屈っぽく語るあたりが僕だなあというか「お前が複雑な人間やんけ」という事で我ながら可笑しいんですが、ないものねだりを他人にガタガタ言われる所以はありませんよね。うらやましいって思うのの何が悪い(ということですよ)!複雑→単純というのは物事の洗練の流れではあると思うので僕が単に何かに足をとられたのではなく、ある種のゴールに近づいているということだといいなと思ったりはします。いやホント正直ベースでね。
ただ「単純な人」には単なるお花畑の含有率も高いし、相手に嫌われる可能性も結構あるし(あ、あとアーティスト気取りの単なるアホってのもいるな。単純な分根本がつまらないと本当に退屈だよね、それ以外に芸がないわけだし)、上に書いたように結局力がないとその自分のシンプルなロジックを押し通していけないというのは難しい所だなあと思うのです。だって自分の力以外何も自分の言ってることを裏書してくれないわけですからね。それって意外にしんどいことじゃないかなと思うし、だからこそそれで生き延びられるのは本当に強い(評価されている)人間なんだよな、ということでもあります。
まあ偽名ちゃんが真実強いかどうかはさておいて。単純さについてはそんなお話。自分も強くありたい、「説明を要しない人間」になりたいなというのはもしかしたら今年だけではなく中期的な目標になりえるのかも、とさえ思います。「道化さんだから」ですべてが片付くというのは僕がこの日記の冒頭に掲げている「強さとは我儘を押し通す力」に少し通じるものがあると思いません?願わくば「道化さんだから(ため息)」にはならんといいと思うのですが。
そして彼女を僕が(そして彼女が僕を)気に入っている理由。これを本当は書きたくて今日は書き始めたのになぜか前説長くてもう寝なきゃいけないのにまだ年賀状あと3通くらい書かなきゃいけないのに。
それは、「僕らは共に結構罪深い嘘吐きだ」ということなんです、多分。彼女の病的な偽名癖についてはもう何度も書いているから書かないし僕はそこまでひどくはないと思うんだけど、僕と付き合いの深い☆さんに言わせれば僕は「劇場型人間」。「常に人の目にどう映るかを気にして選択している(ただし「人からの評価に怯えているのかというとそういうわけでもないから闇が深いよアンタ」)」ということ。
彼女以外にそういうことをはっきり言われたことはないけど。ただ僕は自分でも「行動は『ネタになるかどうか』で選択する」というようなことはよく言っているし実践しているのでまあそういうことなんですよね。
こんな所で自分で把握してる限りとはいえ自分の行動原理をつらつら書いていいものかどうか(ある種裸画像うpよりリスキーといえなくもない気もしてきた。裸なんて消費されるだけだしなあ)なんて思いつつ続きを書くと。
ネタになるか、というのはきれいな言葉に置き換えれば「ストーリーがあるか」ということ。起承転結があるかどうか、ともいえる(もっと簡単に言えば「オチがあるか!」)。しかし現実の世界ではきれいな起承転結なんてないこともある(もちろん、あることもある)。だから僕には語らないことはたくさんある。
それ自体は別に特別ではなくてほぼ全ての人がそういう取捨選択をするだろうけど、僕のそれにはとても意識的な「話を面白くするための選択」が入っている。相手を見て、相手が面白がりそう/興味がありそうなことを言う。もしくは自分に興味を持ってもらえそうなことを言う。
あーこうやって書いてるとなんか媚びてるみたいにも取れるな、それも別に否定はしないけど。別に僕自分のことを基礎の部分で大して面白い人間だと思ってないので(いやホントですよ)、お話くらい全力で面白くしたいし、相手に気に入ってもらうために色々調味料かけることにためらいはないです(なんせMSG大国中国にいますしね!)。
つまり、僕は自覚的に「加工された経験」を出力しています。自覚的ではあるけれど、もうずっと長いことこうしてやってきているのでごく自然に、特に考えることもなく、そうしています。
それは広義の嘘であるかもしれないと思うのです。悪意はないし、誰にも損害を与えない(むしろ逆だと信じている)ことではあるけれど、事実として。
彼女が意識的・意図的な嘘吐きかどうか、その辺りはわかりません。僕が知りうる限りの僕のバックグラウンドから推測するに「普通は気づくことのないメリットを知ってしまったことに味を占めた」という…なんというか生存の知恵というかいやな環境下での最適化なんだとは思うけれど、さすがほぼ全てのほかの事を話せる相手であっても、このことだけは口には出せません。ま、いつか話をする機会が来るのかも知れませんが。
なんにせよ、僕がもはや半自動で「流通用」に自分のストーリーを作りこんでいる事と彼女の悪はなんとなく同工異曲というか、そういうものなのかなと思ったということです。
や、単純に面白いんですよ我が事ながら。「ほほう(膝ぽん)!」みたいな。確かにそうだよなーこれで説明つくよなーみたいな。今度☆さんに会ったら自己申告してみよ。てか、彼女が嘘吐きであることを知らずに惚れてたのは要するに「この味は!……ウソをついている味だぜ(©ブチャラティ)」ってこと?俺すげえなあ。
さて、今日というか今年の最初のお話はまた偽名ちゃん。もうお前それやめろよ感については否めないというかなんというか、なんですが、旅先で珍しく彼女に年賀メールを書いていたのです。あ、彼女だけでなく、去年おせわになった人たちに。ある人にはクリスマスに送り、ある人には新年に送り、ある人には旧正月に。
別に習慣に合わせてとかいうしゃれた話ではなくまとめて送ると一回の分量が多くて大変だからというだけなんですけど。
で、彼女宛にはいろいろあったことだし、一回ちゃんとお礼をいったほうがいいかなと思って、きちんと書きました。自分でも書いてみてひどくこっぱずかしいと思ったし遺書的だなあとも思ったんだけど、でも自分がいまこうして幸せでいられることの一部分を彼女には支えてもらっていることは事実で、こうして余裕がある時くらいはせめてちゃんとありがとうって言っておくのもいいかなと。本当はメールじゃなく対面でいうべきなんだけどね。わかってるけどね。でもちょっとはずかしいね。
それはともかく。書いていて僕が彼女を殊の外好きな理由が何なのか、わかった気がしたのです。これまでは「俺も女の趣味が変わったなあ」という理解だったのですが、違いますね。いやこの要素もあるかもしらんが。で、そのあたりの事を当人に伝えるものでもないので、でも自分の今の気持ちを刻んでおきたくてここに書こうかなと思ったのです。のちのち「2015年初頭はなにをしていたのかのう」と思った時にこの記事が頭にくることの是非については...ま、しゃあないよね本当にこのこと考えてるんだから。
話がちょっとそれるけど、「この要素」について考えてみたら自分的にわりと面白かったのでそれも書いちゃいます。いままでの僕といえば哲学者であるお狗さまを筆頭に僕が惚れるのはわりと複雑(難しいことを考えることが好き/人生に影があって屈折してる)人が多かったように思います。ただ、今の仕掛である不動産屋さんもそうなんですが(ちなみに今日振られる予定)、ここ数年緩やかに(恋愛だけでなく)上記と反対の意味での「単純な人」を気に入る傾向があります。単純という言葉はときに(というか大半)悪い意味に使われることが多い言葉だと思うんですが、ここでは単に反対語です。
別に異性の好みだけに限らず、僕は最近「複雑なことは弱い」という考え方に変化してきていると感じます。別にオッカムの剃刀などという洒落たことを言うつもりなどなく、程度の差はあれ所詮は借り物である「理屈」「論理」を使って説明をすること自体が弱いことなのではないかと思えるのです。「自分はこう思う/感じるからこうであるのだ」というのは、客観的にいかに間違っていようとそれが通る限りにおいてはシンプルにして最強なのではないでしょうか。
まあそんなことを理屈っぽく語るあたりが僕だなあというか「お前が複雑な人間やんけ」という事で我ながら可笑しいんですが、ないものねだりを他人にガタガタ言われる所以はありませんよね。うらやましいって思うのの何が悪い(ということですよ)!複雑→単純というのは物事の洗練の流れではあると思うので僕が単に何かに足をとられたのではなく、ある種のゴールに近づいているということだといいなと思ったりはします。いやホント正直ベースでね。
ただ「単純な人」には単なるお花畑の含有率も高いし、相手に嫌われる可能性も結構あるし(あ、あとアーティスト気取りの単なるアホってのもいるな。単純な分根本がつまらないと本当に退屈だよね、それ以外に芸がないわけだし)、上に書いたように結局力がないとその自分のシンプルなロジックを押し通していけないというのは難しい所だなあと思うのです。だって自分の力以外何も自分の言ってることを裏書してくれないわけですからね。それって意外にしんどいことじゃないかなと思うし、だからこそそれで生き延びられるのは本当に強い(評価されている)人間なんだよな、ということでもあります。
まあ偽名ちゃんが真実強いかどうかはさておいて。単純さについてはそんなお話。自分も強くありたい、「説明を要しない人間」になりたいなというのはもしかしたら今年だけではなく中期的な目標になりえるのかも、とさえ思います。「道化さんだから」ですべてが片付くというのは僕がこの日記の冒頭に掲げている「強さとは我儘を押し通す力」に少し通じるものがあると思いません?願わくば「道化さんだから(ため息)」にはならんといいと思うのですが。
そして彼女を僕が(そして彼女が僕を)気に入っている理由。これを本当は書きたくて今日は書き始めたのになぜか前説長くてもう寝なきゃいけないのにまだ年賀状あと3通くらい書かなきゃいけないのに。
それは、「僕らは共に結構罪深い嘘吐きだ」ということなんです、多分。彼女の病的な偽名癖についてはもう何度も書いているから書かないし僕はそこまでひどくはないと思うんだけど、僕と付き合いの深い☆さんに言わせれば僕は「劇場型人間」。「常に人の目にどう映るかを気にして選択している(ただし「人からの評価に怯えているのかというとそういうわけでもないから闇が深いよアンタ」)」ということ。
彼女以外にそういうことをはっきり言われたことはないけど。ただ僕は自分でも「行動は『ネタになるかどうか』で選択する」というようなことはよく言っているし実践しているのでまあそういうことなんですよね。
こんな所で自分で把握してる限りとはいえ自分の行動原理をつらつら書いていいものかどうか(ある種裸画像うpよりリスキーといえなくもない気もしてきた。裸なんて消費されるだけだしなあ)なんて思いつつ続きを書くと。
ネタになるか、というのはきれいな言葉に置き換えれば「ストーリーがあるか」ということ。起承転結があるかどうか、ともいえる(もっと簡単に言えば「オチがあるか!」)。しかし現実の世界ではきれいな起承転結なんてないこともある(もちろん、あることもある)。だから僕には語らないことはたくさんある。
それ自体は別に特別ではなくてほぼ全ての人がそういう取捨選択をするだろうけど、僕のそれにはとても意識的な「話を面白くするための選択」が入っている。相手を見て、相手が面白がりそう/興味がありそうなことを言う。もしくは自分に興味を持ってもらえそうなことを言う。
あーこうやって書いてるとなんか媚びてるみたいにも取れるな、それも別に否定はしないけど。別に僕自分のことを基礎の部分で大して面白い人間だと思ってないので(いやホントですよ)、お話くらい全力で面白くしたいし、相手に気に入ってもらうために色々調味料かけることにためらいはないです(なんせMSG大国中国にいますしね!)。
つまり、僕は自覚的に「加工された経験」を出力しています。自覚的ではあるけれど、もうずっと長いことこうしてやってきているのでごく自然に、特に考えることもなく、そうしています。
それは広義の嘘であるかもしれないと思うのです。悪意はないし、誰にも損害を与えない(むしろ逆だと信じている)ことではあるけれど、事実として。
彼女が意識的・意図的な嘘吐きかどうか、その辺りはわかりません。僕が知りうる限りの僕のバックグラウンドから推測するに「普通は気づくことのないメリットを知ってしまったことに味を占めた」という…なんというか生存の知恵というかいやな環境下での最適化なんだとは思うけれど、さすがほぼ全てのほかの事を話せる相手であっても、このことだけは口には出せません。ま、いつか話をする機会が来るのかも知れませんが。
なんにせよ、僕がもはや半自動で「流通用」に自分のストーリーを作りこんでいる事と彼女の悪はなんとなく同工異曲というか、そういうものなのかなと思ったということです。
や、単純に面白いんですよ我が事ながら。「ほほう(膝ぽん)!」みたいな。確かにそうだよなーこれで説明つくよなーみたいな。今度☆さんに会ったら自己申告してみよ。てか、彼女が嘘吐きであることを知らずに惚れてたのは要するに「この味は!……ウソをついている味だぜ(©ブチャラティ)」ってこと?俺すげえなあ。
朱鷺を看る者によせる哀歌 / 転向
2014年6月1日 考え事
なんすかね、このブンガク的なタイトルは。
金曜は最近続いていたお引き合わせシリーズのいまんとこ最終回、「反社飲み」。超コアかつディープな趣味(?)をもつ人たちの情報交換の仲立ちをする黒い紳士役でした。いやあ、個室予約しといてよかった。
まあ話の内容は割りと専門的だったしいいとして、そこで感じたのはこの業界も終わりつつある、ということ。
えーとどこまでが書いていい範囲か迷うんだけど、総会屋って昔いたじゃないですか。最近聞かないと思いません?逮捕とかすらされていない。小池隆一やら小川薫辺りが最後だったんでしょう(知らんでしょうな)。聞いた話では昔の大手企業には必ずそういった「特殊株主」対応のセクションがあったりしたらしいのですが、いまとなっては総務と言ったら暇そうなおばちゃんがお茶汲んでるイメージになっちゃってる。
僕だってそんな時代を直接知ってるわけではありませんが、そんな話があったわけです。今回会ったのはその対策班ではないんですが、それに近い部隊の人。しかし出てくる情報は微妙というか…わりと昔話に終始した感じ(少しだけ最新の手法も話題に出たけど)。昔のワルがいまどうしているか、とかそういった話。彼らが相手にしていたワルがいなくなれば、彼ら自身も役割を失うということなのかもしれませんね、とちょっとした感慨でした。僕が連れてった人は現役バリバリな人だったんですが、老人(ではないんだけどね)の昔話につきあわせちゃったかな、とちょっと申し訳なく思いました。老人は喜んでたように見えたけどね。
ちなみに元ネタは
朱鷺によせる哀歌/吉松隆
な。
転向。昨日はげろまずな焼肉をケタロウさんと食べていました(この人と飯を食うとやたらまずくて安いところにいく羽目になる)。久しぶりに登場、ケタロウさんは実はアメリカに行っていました…ってそのことは書いたな(http://42583.diarynote.jp/201301150000519309/ )。そう、社長なのに語学留学していたのですが、なんか知らんけど帰ってきたのです。
で、アメリカでも色々もまれた結果、彼はプロダクト寄りのことをやりたい気持ちがさらに強くなったようです。
面白かったしうれしかったのは、最初に飲んだ時の事を彼がいまだに覚えていてくれたこと。彼はその当時は僕の考え方をとてもすばらしいと感じ、今はそれを乗り越えた、そんなことを話せたことです。
僕がずっと(これは今でも)コミュニケーション業界を目指した理由は(すごくはしょって書くと)「現代に生まれるプロダクトに本質的な差はない以上、全てはイメージによる。だからイメージを作る仕事が一番良い。プロダクトはどんな意味にせよ幸福感を与えるべきである」というものでした。
例えばビールの味の違いなんて、目隠ししたらおそらくほとんどの人がわからないでしょう。でも「俺はスーパードライが」とか言う人は、要するにそのブランドを買って、飲んでいるということ。「辛口が好きな俺」みたいなね。で、そういう人たちを喜ばせるためにそのブランドを大きく見せ、「このブランドを信じてフォローする俺」を正当化してあげることがこの仕事の要諦だと思っていました(というか思っています、というか)。
僕は、資本主義が行き着く先はそうだと思ったし、「持つことで幸せを感じる」ブランド(広義の「ブランド」ね)を作ることは人の幸せを生むことだと信じている。それは悪く言えば「嘘」なんだけど、嘘はばれなきゃ嘘じゃないし、現実は不変で自分の視点のみなのであれば、自分が心地よい視点に固着することは別に否定されるべきじゃないと思うんですよ。自分が幸せと感じる世界に浸って何がわるいのか。
でも、彼は言いました。「昔は確かにそうだった。技術を持たないわれわれは自らの手でプロダクトを良くする術を持たず、加えてそもそも設備投資を要する製造業的なアプローチでは、いいプロダクトを個人が生み出すことは現実的に難しかった。しかし今我々にはウェブがあり、プログラミングがある。それによって確実に『Something Good』のための何かを生むことが力がある」と。
ある種のウェブ・テクノロジー万歳論であることは否定しようもないでしょう。楽観的過ぎると。しかし確かにそれは(実現しさえすれば)すばらしい事ではあります。僕は嘘で世界を作ることを否定すべきでない、と書いたけど、実際に「いいもの」が生まれる世の中であったほうがナンボもマシであることは当然。
なんか誌的になっちゃった気もするな。
とにかく、彼はそうした考えに則って広告業界と決別し、プロダクト側に行って世界を変えたい、ということのようでした。広告があんなに、僕の何百倍も好きだった彼は、テクノロジーから広告にアプローチすることからさらに一段上がってプロダクトを作る事、にシフトしたということです。
なんかさらっと書いたけどさ、「世界を変える」っていいよね。ていうかそもそも俺そういうことしたかったんだよね。物質的に世界を変えることは叶わなくても、人々の主観的世界を変えたかったんだよ。最近アホみたいな仕事に追われていたけど、それがこの業界に入った根本だということを思い直したというか…だからといってそれに近づくために何をすればいいのかはよくわからないけどねえ。どうしたらいいのかな。
そして、自分の周りの「仕事ができる人」はこういうことまったく考えてないだろうな、ということがなんか空しい…
ってその辺はしょうがないというか、僕はちょっと視点が高すぎるんです。こんな視点僕くらいの年で持ってても意味がない…わけじゃないけど、僕がよくないのは低い視点を持っていないことなんですよね。皮肉じゃなくて、高い視点だけではなく両方を持って、複眼的に捉えられたらすごく強いんだと思う。でも僕は細かい、低い(決して「低い視点」を下に見てるわけじゃない、という部分は強調したい)視点をもてていない。だから低い視点しか持ってない人とは本当に噛み合わない。彼らには僕が持っている視点は伝わらないから、彼らにとっては僕は「本当に何も持っていない人」なのかもなあ、と思ったりもするのです。
なんか話がまとまらんなー。別にまとまりを期待するものではないけどさ。今日も仕事でした。明日からも仕事です。エンドレス。
金曜は最近続いていたお引き合わせシリーズのいまんとこ最終回、「反社飲み」。超コアかつディープな趣味(?)をもつ人たちの情報交換の仲立ちをする黒い紳士役でした。いやあ、個室予約しといてよかった。
まあ話の内容は割りと専門的だったしいいとして、そこで感じたのはこの業界も終わりつつある、ということ。
えーとどこまでが書いていい範囲か迷うんだけど、総会屋って昔いたじゃないですか。最近聞かないと思いません?逮捕とかすらされていない。小池隆一やら小川薫辺りが最後だったんでしょう(知らんでしょうな)。聞いた話では昔の大手企業には必ずそういった「特殊株主」対応のセクションがあったりしたらしいのですが、いまとなっては総務と言ったら暇そうなおばちゃんがお茶汲んでるイメージになっちゃってる。
僕だってそんな時代を直接知ってるわけではありませんが、そんな話があったわけです。今回会ったのはその対策班ではないんですが、それに近い部隊の人。しかし出てくる情報は微妙というか…わりと昔話に終始した感じ(少しだけ最新の手法も話題に出たけど)。昔のワルがいまどうしているか、とかそういった話。彼らが相手にしていたワルがいなくなれば、彼ら自身も役割を失うということなのかもしれませんね、とちょっとした感慨でした。僕が連れてった人は現役バリバリな人だったんですが、老人(ではないんだけどね)の昔話につきあわせちゃったかな、とちょっと申し訳なく思いました。老人は喜んでたように見えたけどね。
ちなみに元ネタは
朱鷺によせる哀歌/吉松隆
な。
転向。昨日はげろまずな焼肉をケタロウさんと食べていました(この人と飯を食うとやたらまずくて安いところにいく羽目になる)。久しぶりに登場、ケタロウさんは実はアメリカに行っていました…ってそのことは書いたな(http://42583.diarynote.jp/201301150000519309/ )。そう、社長なのに語学留学していたのですが、なんか知らんけど帰ってきたのです。
で、アメリカでも色々もまれた結果、彼はプロダクト寄りのことをやりたい気持ちがさらに強くなったようです。
面白かったしうれしかったのは、最初に飲んだ時の事を彼がいまだに覚えていてくれたこと。彼はその当時は僕の考え方をとてもすばらしいと感じ、今はそれを乗り越えた、そんなことを話せたことです。
僕がずっと(これは今でも)コミュニケーション業界を目指した理由は(すごくはしょって書くと)「現代に生まれるプロダクトに本質的な差はない以上、全てはイメージによる。だからイメージを作る仕事が一番良い。プロダクトはどんな意味にせよ幸福感を与えるべきである」というものでした。
例えばビールの味の違いなんて、目隠ししたらおそらくほとんどの人がわからないでしょう。でも「俺はスーパードライが」とか言う人は、要するにそのブランドを買って、飲んでいるということ。「辛口が好きな俺」みたいなね。で、そういう人たちを喜ばせるためにそのブランドを大きく見せ、「このブランドを信じてフォローする俺」を正当化してあげることがこの仕事の要諦だと思っていました(というか思っています、というか)。
僕は、資本主義が行き着く先はそうだと思ったし、「持つことで幸せを感じる」ブランド(広義の「ブランド」ね)を作ることは人の幸せを生むことだと信じている。それは悪く言えば「嘘」なんだけど、嘘はばれなきゃ嘘じゃないし、現実は不変で自分の視点のみなのであれば、自分が心地よい視点に固着することは別に否定されるべきじゃないと思うんですよ。自分が幸せと感じる世界に浸って何がわるいのか。
でも、彼は言いました。「昔は確かにそうだった。技術を持たないわれわれは自らの手でプロダクトを良くする術を持たず、加えてそもそも設備投資を要する製造業的なアプローチでは、いいプロダクトを個人が生み出すことは現実的に難しかった。しかし今我々にはウェブがあり、プログラミングがある。それによって確実に『Something Good』のための何かを生むことが力がある」と。
ある種のウェブ・テクノロジー万歳論であることは否定しようもないでしょう。楽観的過ぎると。しかし確かにそれは(実現しさえすれば)すばらしい事ではあります。僕は嘘で世界を作ることを否定すべきでない、と書いたけど、実際に「いいもの」が生まれる世の中であったほうがナンボもマシであることは当然。
なんか誌的になっちゃった気もするな。
とにかく、彼はそうした考えに則って広告業界と決別し、プロダクト側に行って世界を変えたい、ということのようでした。広告があんなに、僕の何百倍も好きだった彼は、テクノロジーから広告にアプローチすることからさらに一段上がってプロダクトを作る事、にシフトしたということです。
なんかさらっと書いたけどさ、「世界を変える」っていいよね。ていうかそもそも俺そういうことしたかったんだよね。物質的に世界を変えることは叶わなくても、人々の主観的世界を変えたかったんだよ。最近アホみたいな仕事に追われていたけど、それがこの業界に入った根本だということを思い直したというか…だからといってそれに近づくために何をすればいいのかはよくわからないけどねえ。どうしたらいいのかな。
そして、自分の周りの「仕事ができる人」はこういうことまったく考えてないだろうな、ということがなんか空しい…
ってその辺はしょうがないというか、僕はちょっと視点が高すぎるんです。こんな視点僕くらいの年で持ってても意味がない…わけじゃないけど、僕がよくないのは低い視点を持っていないことなんですよね。皮肉じゃなくて、高い視点だけではなく両方を持って、複眼的に捉えられたらすごく強いんだと思う。でも僕は細かい、低い(決して「低い視点」を下に見てるわけじゃない、という部分は強調したい)視点をもてていない。だから低い視点しか持ってない人とは本当に噛み合わない。彼らには僕が持っている視点は伝わらないから、彼らにとっては僕は「本当に何も持っていない人」なのかもなあ、と思ったりもするのです。
なんか話がまとまらんなー。別にまとまりを期待するものではないけどさ。今日も仕事でした。明日からも仕事です。エンドレス。
くそのやくにも立たないし終電なのに明日始業1時間前から会議だけど、すごく書きたかったので。
今日、「道化さんPR案件なんでやって」といっていきなり仕事をふられた。まあ僕は以前PR会社で働いていたので「へい」といって説明を聞いてみると…「これWeb PRの案件なんですけどー」っていうから何かと思ったらPRじゃなかった。こんなんPRじゃない。
…って話の展開があれ過ぎるから一応ちゃんと書くと、一般に…じゃないな、少なくとも(一部を除くまっとうな)PR会社がやるPRというのは記者に働きかけたり、「この編集長はこういうネタだと取り上げてくれやすい」とか、「いまメディアはこういう事に関心持ってるからこういうアングルでリリース出せば取り上げてもらえる」みたいな事をコンサルすることなんです。
ただそういう「センリャク」ばっかじゃ結果がでないから、親しい人を狙うとかまあ色々多少グレーな手段は出てきたりする(別に親しい記者にアプローチすること自体はグレーじゃないけど)。
だけど今回の「PR」は…ああだめだ、具体的になにやるかは書けないや。でもまあ要するに金で全てを解決するってやりかた。時流を読む目も、記者とのリレーションも何も必要ない。そんな案件を受ける「PRガイシャ」もむかつくし、そこを使って案件回す俺自身もむかつくし、金で解決、って割には意外と金が掛からないのもむかつきに輪をかけている気がする笑。
別に僕は自分がPRを愛しているとは思ってないし、その業界に戻りたいとも思わない。自分をPR出身でございなんていいたくもないし、そんなものに誇りを持ってるわけでもない。でもそういう事に直面した時にすごくむかついたんだよね、なんか「それってずるいだろ」みたいな。なんでやろ。ちょっとふしぎだけど、もんすごいムカついたことだけは、なんとなく残しておきたいです。
ま、明日からその仕事まわすんだけどね俺。あ、日付変わったから今日や。
今日、「道化さんPR案件なんでやって」といっていきなり仕事をふられた。まあ僕は以前PR会社で働いていたので「へい」といって説明を聞いてみると…「これWeb PRの案件なんですけどー」っていうから何かと思ったらPRじゃなかった。こんなんPRじゃない。
…って話の展開があれ過ぎるから一応ちゃんと書くと、一般に…じゃないな、少なくとも(一部を除くまっとうな)PR会社がやるPRというのは記者に働きかけたり、「この編集長はこういうネタだと取り上げてくれやすい」とか、「いまメディアはこういう事に関心持ってるからこういうアングルでリリース出せば取り上げてもらえる」みたいな事をコンサルすることなんです。
ただそういう「センリャク」ばっかじゃ結果がでないから、親しい人を狙うとかまあ色々多少グレーな手段は出てきたりする(別に親しい記者にアプローチすること自体はグレーじゃないけど)。
だけど今回の「PR」は…ああだめだ、具体的になにやるかは書けないや。でもまあ要するに金で全てを解決するってやりかた。時流を読む目も、記者とのリレーションも何も必要ない。そんな案件を受ける「PRガイシャ」もむかつくし、そこを使って案件回す俺自身もむかつくし、金で解決、って割には意外と金が掛からないのもむかつきに輪をかけている気がする笑。
別に僕は自分がPRを愛しているとは思ってないし、その業界に戻りたいとも思わない。自分をPR出身でございなんていいたくもないし、そんなものに誇りを持ってるわけでもない。でもそういう事に直面した時にすごくむかついたんだよね、なんか「それってずるいだろ」みたいな。なんでやろ。ちょっとふしぎだけど、もんすごいムカついたことだけは、なんとなく残しておきたいです。
ま、明日からその仕事まわすんだけどね俺。あ、日付変わったから今日や。
分散コンピューティングの未来?
2013年9月16日 考え事 最近の僕に取り付いている考えの1つが、人間とコンピュータの融合について。融合ってたって電脳化!みたいな個人の中に機械を取り込む、という話じゃなくて、その逆。コンピュータシステムの一部として、人間を取り込むというやつ。
発端は以前ちょこっと書いた「なめらかな社会とその敵(http://42583.diarynote.jp/201308041237104599/ )」。そのIV章「自然知性」で取り上げられているエログリッド・コンピューティングとかAmazon Mechanical Turkとか。エログリッドに関しては
http://studiovoice.jp/?p=30676
内田 樹×中沢新一×森田真生 数学を巡る、いくつもの話。第三回
「人間の計算力をコンピューターに接続すると」
なんかでわりとわかりやすく紹介されている。ちょいちょい調べると、どうやら10年前…2003年くらいには既に知られた概念だったようで、自分の遅れっぷりにがっかりするやらなんやら。
まあそれはいいとして、これを分散コンピューティングの考え方を拡張したものだと捉えるととても面白いなーと思うんです。分散コンピューティングってのは別にむずかしい概念じゃなくて、色んなPCで並列に計算をやらせることで早く結果を得よう、という考え方ね。一時期にちゃんねる発でがん研究なんかのためにかなりの人数が参加してたことがあったのをご記憶の方も多いんじゃないかしら。
http://team2ch.info/
Team 2ch
とおもったらがんのプロジェクトは2007年に終わってた。話逸れるけど、こういう「最近のことだとおもったら実はずっと前でした」ってのがもろに老化の典型だよな…はあ。
それもいいとして、まあ従来はいろんなPCの力を結集して、というのが斬新(どうやってOSもハードもばらばらな環境に一定以上は付加がかからないように仕事を割り振るか、というのもちょっと考えただけで大変さがわかるでしょー)だったわけなんだけどそれはある程度落ち着いて、その次が協力範囲の拡大だったのかなと。
「落ち着いた」って書いたけど、その要因はなんだったんだろうね。PCの性能インフレによって上で書いたようなマネジメントコスト(仕事割振りのコスト)考えると単純にPC買いまくっちゃったほうが安くなるとかそんなことは想像ベースでは思うけど。
とにかく、個々のPC環境の差異(書いたようなOSとかそういうの)は標準化できて、次...じゃなくて次の次の次の次かもしれないけど、人間をその「処理系」の中に取り込むってことができるようになったんですねえ、ってなんか最新技術見てすげえ、って体だけどこれ10年前の発明らしいのがへこむけど。
ただ、上でもう一個挙げた例の"Amazon Mechanical Turk(https://www.mturk.com/mturk/welcome )"ってあんま成功してないっぽいのよね。このネーミングセンス、大好きなのになあ。ちゃんとサービスの真芯を捉えてるし。
http://ja.wikipedia.org/wiki/Amazon_Mechanical_Turk
Wikipedia: Amazon Mechanical Turk
もっと醜悪な例で言えば中国やらインドやらの奥地でタコ部屋に人間集めてひたすらネットゲームでアイテム収集させる、というような話も聞いたことがあり、これも拡大解釈すればこういう「処理系に人間をこみこんだ一例」といえるのでしょう。
ていうかこれって「コンピューティング」じゃないよね、コンピュータ以外のものをとりこんでいる以上。人と機械が融合した処理系、というとなんとなく気絶した人間が線でコンピュータに繋がれててにゅいんにゅいん情報を吸い上げられていく、というような醜いものをイメージしちゃうんだけど別に参加は自由意志...ってまあ要するにそれって「どの人間が参加しても性能変わんないから拘束する必要ない」ってことでもあるよなー、とか。
なんか色々考えてしまうんですね。この思考は仮説もないしたどり着く先も全然見えない(見えないというのはまだ見えないのではなく、、ゴールがある性質なものか相当謎という意味で)のでよくないなーと思ったりもするんだけど、関連の文章とか読み漁ってるとなんか新しい発見あるかな?
いや、現象としてはとても面白いと思うんですよ。よくいわれるようにPCって意外と創成期からインターフェイスとか内部の処理方法とかが変わってない…たとえばマウスはアップルがPerformaだっけ、を発売する時にくっつけたとかなんとからしいんだけど…あ、そうそうキーボードだってタイプライターだしね。まあそろそろハードウェア的な異常な進化とバランス取れてないんじゃね?って話もあるわけで、そういった所とつながってくる気もしなくもないのです。まあスマホやらパッド系のタッチが新しいインターフェイスで、もう据え置きPCなんか墓場行きだよという考え方もあって、「次のPC」という考え方自体がもしかしたらダメなのかもしれないけどね。
僕一応こういうPCとかネットとかの大きな話題については基本的にはフォローしてると自負してたんだけど10年落ちてたってのがよっぽど悔しいんだけどそれはいいとして、なんで10年僕のアンテナにひっかからなかったのだろう、というのもまた謎で。なんか欠陥というか行き詰まりがあるんでしょうね…といったところを知ることも楽しみです。
最後に全然違う話。なんかHSK(中国語検定的なやつ)、今年は9月しか受けられないとか見た気がして諦めてたんだけど12月にもやるようで、とっちゃおうかなーと思ったりし始めました。勉強時間あるかな...でもある意味、最近土日は家でへろっとしてる事が多いのでへろっとしたついでに勉強しちゃえばいいって気もして。
それにしても中国語、全然使いませんね。
発端は以前ちょこっと書いた「なめらかな社会とその敵(http://42583.diarynote.jp/201308041237104599/ )」。そのIV章「自然知性」で取り上げられているエログリッド・コンピューティングとかAmazon Mechanical Turkとか。エログリッドに関しては
http://studiovoice.jp/?p=30676
内田 樹×中沢新一×森田真生 数学を巡る、いくつもの話。第三回
「人間の計算力をコンピューターに接続すると」
なんかでわりとわかりやすく紹介されている。ちょいちょい調べると、どうやら10年前…2003年くらいには既に知られた概念だったようで、自分の遅れっぷりにがっかりするやらなんやら。
まあそれはいいとして、これを分散コンピューティングの考え方を拡張したものだと捉えるととても面白いなーと思うんです。分散コンピューティングってのは別にむずかしい概念じゃなくて、色んなPCで並列に計算をやらせることで早く結果を得よう、という考え方ね。一時期にちゃんねる発でがん研究なんかのためにかなりの人数が参加してたことがあったのをご記憶の方も多いんじゃないかしら。
http://team2ch.info/
Team 2ch
とおもったらがんのプロジェクトは2007年に終わってた。話逸れるけど、こういう「最近のことだとおもったら実はずっと前でした」ってのがもろに老化の典型だよな…はあ。
それもいいとして、まあ従来はいろんなPCの力を結集して、というのが斬新(どうやってOSもハードもばらばらな環境に一定以上は付加がかからないように仕事を割り振るか、というのもちょっと考えただけで大変さがわかるでしょー)だったわけなんだけどそれはある程度落ち着いて、その次が協力範囲の拡大だったのかなと。
「落ち着いた」って書いたけど、その要因はなんだったんだろうね。PCの性能インフレによって上で書いたようなマネジメントコスト(仕事割振りのコスト)考えると単純にPC買いまくっちゃったほうが安くなるとかそんなことは想像ベースでは思うけど。
とにかく、個々のPC環境の差異(書いたようなOSとかそういうの)は標準化できて、次...じゃなくて次の次の次の次かもしれないけど、人間をその「処理系」の中に取り込むってことができるようになったんですねえ、ってなんか最新技術見てすげえ、って体だけどこれ10年前の発明らしいのがへこむけど。
ただ、上でもう一個挙げた例の"Amazon Mechanical Turk(https://www.mturk.com/mturk/welcome )"ってあんま成功してないっぽいのよね。このネーミングセンス、大好きなのになあ。ちゃんとサービスの真芯を捉えてるし。
http://ja.wikipedia.org/wiki/Amazon_Mechanical_Turk
Wikipedia: Amazon Mechanical Turk
もっと醜悪な例で言えば中国やらインドやらの奥地でタコ部屋に人間集めてひたすらネットゲームでアイテム収集させる、というような話も聞いたことがあり、これも拡大解釈すればこういう「処理系に人間をこみこんだ一例」といえるのでしょう。
ていうかこれって「コンピューティング」じゃないよね、コンピュータ以外のものをとりこんでいる以上。人と機械が融合した処理系、というとなんとなく気絶した人間が線でコンピュータに繋がれててにゅいんにゅいん情報を吸い上げられていく、というような醜いものをイメージしちゃうんだけど別に参加は自由意志...ってまあ要するにそれって「どの人間が参加しても性能変わんないから拘束する必要ない」ってことでもあるよなー、とか。
なんか色々考えてしまうんですね。この思考は仮説もないしたどり着く先も全然見えない(見えないというのはまだ見えないのではなく、、ゴールがある性質なものか相当謎という意味で)のでよくないなーと思ったりもするんだけど、関連の文章とか読み漁ってるとなんか新しい発見あるかな?
いや、現象としてはとても面白いと思うんですよ。よくいわれるようにPCって意外と創成期からインターフェイスとか内部の処理方法とかが変わってない…たとえばマウスはアップルがPerformaだっけ、を発売する時にくっつけたとかなんとからしいんだけど…あ、そうそうキーボードだってタイプライターだしね。まあそろそろハードウェア的な異常な進化とバランス取れてないんじゃね?って話もあるわけで、そういった所とつながってくる気もしなくもないのです。まあスマホやらパッド系のタッチが新しいインターフェイスで、もう据え置きPCなんか墓場行きだよという考え方もあって、「次のPC」という考え方自体がもしかしたらダメなのかもしれないけどね。
僕一応こういうPCとかネットとかの大きな話題については基本的にはフォローしてると自負してたんだけど10年落ちてたってのがよっぽど悔しいんだけどそれはいいとして、なんで10年僕のアンテナにひっかからなかったのだろう、というのもまた謎で。なんか欠陥というか行き詰まりがあるんでしょうね…といったところを知ることも楽しみです。
最後に全然違う話。なんかHSK(中国語検定的なやつ)、今年は9月しか受けられないとか見た気がして諦めてたんだけど12月にもやるようで、とっちゃおうかなーと思ったりし始めました。勉強時間あるかな...でもある意味、最近土日は家でへろっとしてる事が多いのでへろっとしたついでに勉強しちゃえばいいって気もして。
それにしても中国語、全然使いませんね。
そうそう、幸せと過度の最適化の否定をつなぐ線について、自分でもう既にそこはおさえていたのであったよ。
最適化というのは、当たり前だけど自明に最適な状態が存在するから起こるわけですよね。100円のものと120円のもの並べてどっちが安い?とかっていう。勿論実際には選択の為の要素・因子の重み付けが今だしたばかりのお金みたいな客観的(っていう表現でいいの?誰でも変わらない、という意味)価値じゃなく、個人個人で尺度が違うものだったりするから少し話はややこしくなるんだけど、でも基本的には「どこかにベスト/ベターな選択肢がある」問いなんです。それを探し出すことが大変だったりすることはあっても。
でも、幸せって人によって違うと思うんです。「手に入ればみんなが幸せになるもの」ってない気がする。「手に入ればみんなが不幸じゃなくなるもの」は健康とか、色々あるけどね。だからあくまで推論というか机上の空論かもしれないけど、最適化においては限られたものが「最適」である以上勝者と敗者が生まれる可能性を常にはらむけど幸福においては皆が幸福になるという可能性も残されているのかなと。
ってなんか結構不思議なことをつらつら書いてますかね、僕。いいんですけどね。
あ、今日は枕を買いました。世の中には枕専門店なんつうものがあるんですね。でも最初カウンセリングとかいって自宅の寝具の状況とか聞かれてる時に思ったんだけど、もしかしたら自分が肩とか首とか痛い原因は枕じゃなくマットレスの下が板(ベッドの構造上の問題…)なせいかも。まあもう枕買う!って決めて行ってたんでとりあえず買ってきましたけどね。
あー明日ついに着任ですわ。俺なにやらされるのかな。ちょっと不安っていうか、楽しみっていうか。まあ最近お昼寝が生活パターンに組み込まれてた気がするんで、とりあえず昼間にデスクで寝ない、というのを目標に頑張ろうと思います。あとさっさと軌道に乗せて引越ししたいっす。あと今まったくこの先どうなるかわからんから飲みに行く予定とか入れてないけど、「帰国の挨拶編」もやらなきゃなあと思ったりして(こうやって理由をつけて飲みに行きまくってるから金がたまらないんだ…)。てか既に8月の週末、パーティ3件にアメリカからの客が1人…。いやうれしいんですけどね。
最適化というのは、当たり前だけど自明に最適な状態が存在するから起こるわけですよね。100円のものと120円のもの並べてどっちが安い?とかっていう。勿論実際には選択の為の要素・因子の重み付けが今だしたばかりのお金みたいな客観的(っていう表現でいいの?誰でも変わらない、という意味)価値じゃなく、個人個人で尺度が違うものだったりするから少し話はややこしくなるんだけど、でも基本的には「どこかにベスト/ベターな選択肢がある」問いなんです。それを探し出すことが大変だったりすることはあっても。
でも、幸せって人によって違うと思うんです。「手に入ればみんなが幸せになるもの」ってない気がする。「手に入ればみんなが不幸じゃなくなるもの」は健康とか、色々あるけどね。だからあくまで推論というか机上の空論かもしれないけど、最適化においては限られたものが「最適」である以上勝者と敗者が生まれる可能性を常にはらむけど幸福においては皆が幸福になるという可能性も残されているのかなと。
ってなんか結構不思議なことをつらつら書いてますかね、僕。いいんですけどね。
あ、今日は枕を買いました。世の中には枕専門店なんつうものがあるんですね。でも最初カウンセリングとかいって自宅の寝具の状況とか聞かれてる時に思ったんだけど、もしかしたら自分が肩とか首とか痛い原因は枕じゃなくマットレスの下が板(ベッドの構造上の問題…)なせいかも。まあもう枕買う!って決めて行ってたんでとりあえず買ってきましたけどね。
あー明日ついに着任ですわ。俺なにやらされるのかな。ちょっと不安っていうか、楽しみっていうか。まあ最近お昼寝が生活パターンに組み込まれてた気がするんで、とりあえず昼間にデスクで寝ない、というのを目標に頑張ろうと思います。あとさっさと軌道に乗せて引越ししたいっす。あと今まったくこの先どうなるかわからんから飲みに行く予定とか入れてないけど、「帰国の挨拶編」もやらなきゃなあと思ったりして(こうやって理由をつけて飲みに行きまくってるから金がたまらないんだ…)。てか既に8月の週末、パーティ3件にアメリカからの客が1人…。いやうれしいんですけどね。
風立ちぬ/ なめらかな社会とその敵/フラット化するなんとかかんとか
2013年8月4日 考え事
昨日は午前で仕事(というか研修)が終わって、しかも天気が良くてわりとルンルン(死語か)だったので、元同僚と元職場付近でなつかしいお昼を食べた後に、映画など見てきました。ちょうど夜の予定の開始が早めだったので丁度はまって、スケジュール的にもとてもきれいな一日でした。
風立ちぬ、宮崎駿さんの最新作です。この人の作品劇場で見るのっていつ振りだろ、もしやはじめて?というくらいにしか興味がない僕ですが、なんで見る羽目になったのかというと、こりゃ予告編の力です。やたら泥臭い色使いと題字、元々思ってたけどやっぱり動いてるの見てもなんでこれを映画にするのかわからないリスキーな上(夏公開でゼロ戦製作者が主人公ってそりゃあんた喧嘩売ってるでしょ…)にポイントがよくわからないテーマ、それなのに予告編を見たらなんか「ああ、みなきゃ」ってなったんですよ。予告編製作者GJですよ商売的に(きっとめったに褒めてもらえないだろうとの偏見に基づいてほめそやしておきます)。
見ても、やっぱりテーマはわかりませんでした。たいした事件は起きないし、人間以外のものがでてくるわけでもない(夢の世界は別として)。地味です。でも見てるうちに泣けちゃったりして、なんなんでしょうねアレ。「何が面白かった?」って聞かれるととても困る…そんな映画です。少なくとも(どこかに書かれていた通り)従来の「子どもも楽しめる」でないことは確かでしょう。大人向けです。毎度の事ながら声優のへたくそさ加減がいいなーと思います。今回特にファンタジーじゃないし、普通の人間なんだからあれっくらいでいいのかもね、とか思っちゃったりして。
終わった後は本当はまた枕を探して放浪するつもりが、意外といい時間だったので移動してお狗様とクイックディナー&お茶。ただいま日本で上から数えてすぐの大学の博士課程にいらっしゃるお狗様は月曜が論文の提出期限だそうで、「でもまあ1時間くらいならいいですよ」とのことでしたので、なぜか立ち食いうどん食べながら色々。
結構な繁盛店だったしそもそも立ち話もあれなので、カフェに移動してちょろーっとだけお話。僕らの場合は世間話的なものは基本ジャブで結局なんかむずかしい話になっちゃうんだけど、まあ例に漏れず時間が限られているにも関わらず難しい話に。まあ今回は(も?)僕がふっかけたんだけれども。
ひとつが画像が出ているこの本、「なめらかな社会とその敵」。僕はこのタイトルが美しいなーっていうのと帯だかに書いてあった要約が面白いと思ってジャケ買的な感じだったんですが、話題の本だそうです。いやどこの世界で話題なんですかね。哲学界?本の内容は、複雑系を思考のベースに、現在の社会の根幹を成すいくつかの制度をバージョンアップできないか?という思考実験…と書くのがいいのかな?
ちゃんと読んだ後メモも取ってないし北京の初期に読んだので既に読了から1か月近く経過、そして複雑系に対するきちんとした理解を持っているか自信がないという条件なりにまとめると、この本で言っているのは「今までは色々な事を知覚・理解するために人間の処理能力の限界から『要約』せざるをえなかったが、技術の革新によって体験やインプットなどを要約せずにそのまま知覚することができるようになった。だからその新しい技術を使って社会をより良い方向に変えてみてはどうか?」という事…でいいかな?
試みや提案自体はとても面白いと思った。なんていうか、刺激として。ただ同時に違和感があったのは、一つはこれが統計における標本と全量調査の区別のような議論になっていないかという事。
統計学の発展は大雑把に言うと、全量調査が不可能な巨大な母数の何かの全体像をなるべくズレなく、コストをおさえた形で把握するためだった(よね?)。だけど最近は色々な技術革新により、全量調査がより安価に、現実的な選択肢になってきた。
では統計的な標本調査は不要か?という問いに対して上半期ちょっと流行った本「統計学は最強の学問である」では「安くなったとはいえ全量調査には依然ある程度のコストはかかるわけで、誤差が無視できる範囲であるちゃんと設計された標本調査であれば結果はほとんど変わらないからそっちでやったほうが合理的」というような答え方だった(気がする…ってこんな書き方ばっかり。本当はちゃんとこれらの本をあたってページめくりながら書くべきだけどまあこういう所での書き飛ばしなんで許してください…)。
つまり、「要約」しないで全体をありのままに捉える事が可能だったとして、それによって本当に何かいいことがあるのか?ということ。いままでできなかった事ができるようになったという事は一見良い事のようだけれど、もしかしたら別に何の意味もないかもしれない。
あとはこれはもしかしたらもっと的外れかもしれないけど、とてもイメージ…ぼんやりな話、「アナログ」と「刻みが細かいデジタル」は似て非なるものな気がする、という事がいいたい。具体的にどこを読んでそう思ったかと問われるときついんだけど…わりと根本的な「なめらか」の説明のあたりで思ったのかな。なめらかってアナログの話だよね。上にもちょっと書いたとおり、技術の革新でデジタルの目が細かくなる(たとえば表示できる色が16色から65536色に増えたらグラデーションはもっとスムーズに見えるでしょ)事はあっても、質的な転換を起こさないとそれはアナログじゃあないんだよ、という…あ、そういやここまで書いて量子コンピュータの話が今脳裏をよぎった。ちょっと後輩くんに聞いてみなきゃ。量子コンピュータってこういうあいまいな状態をそのまま観察できたんじゃなかったっけ。
最後に、もうひとつ違和感があったのはもっと根本的な事なんだけど「技術によって今まで処理能力的に無理だったものが」っていう事を可能性ととらえるそれ自体への疑問。
人間はそこまで勤勉なんだろうか?ってことなのかな。そんな技術があるなら別にぼちぼちでいいから思考や労働に向ける時間を減らしたいよね…とかいって産業革命とか機械化とかで作業効率が格段に上がったからって人間の労働時間が減りましたか?という話ですけど…星新一ですか。
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51859467.html
そういえばDan Kogaiさんも書評書いてました。ところでこの人今何して食ってるんだろうね。物の書き方は嫌いだけど、でも頷かされる部分も結構あって、なんかシャク。
まあそんな事はお狗様には別に話さず話題の本らしいってのを聞いて、複雑系のキモ(だという)、「現象やものを要素に還元せずそのまま理解する」事についてとか色々話していました。
んでその流れでちょいと出たことから考えたのが次の話。この話はサワリだけ彼女にもしてみたんだけど、ちょっと否定的なニュアンスで返ってきました。まあ即席なので参考文献があるわけでもなく、専門家からすれば議論というか出発点として弱いというのはしょうがないのかも。仔細に考えたのは帰り道です。
でその内容は「記憶のフラット化」について。今まで外部環境のフラット化が地域の文化に与える影響、というのはここにも書いたかもしれないし、実際にも口に出してきました。たとえば僕の大好きな食文化からスタートするならどこの国のどこの町にもマックがありスタバがあって、みんなコーラを飲みながら学校に行ってハリウッド映画を見て…というそういう話。
みんなHMやユニクロ、ZARAで服を買うようになって民族衣装なんか着ないし、食べ物だって土地の特産物なんか観光客向けだけ。しかしそれは別に誰かに強制されているのでもなく多くの場合、それが価格なり機能なり利便性なりの意味で最適な選択だからなわけです。そうである以上、外部の人間が「土地の個性を大切に、その為に多少の利便性が奪われるのは我慢しろ」って言う権利はないし、それは下手したら発展途上国に環境保護を強制して反発される(大体「うちの国が工業化しようとするのをそうやって止めて「身分制度」を固定しようとしてる」という感じで反発されるのよね、確か)ような感じでしかないかもしれない。大体文化なんてかごに入れて保護にすることなんてできないんだし。大きくとらえると共有地の悲劇みたいな話です。
あ、話がすこしそれた。で今日の話は、メディアやコミュニケーション手段の発達により、ある特定地域だけのニュースが全世界に報道されたりすることが多くなったという話から始まる。例をあげると、2011年に「10年前の一番大きなニュースはなんでしたか」と問えば多分多くの国の大多数の人がアメリカの9.11をあげるだろうと思う。でも、多分18世紀の人に同じ質問をしたら自分や家族、それか自分の住んでいる町や地方の話題が出てくるんじゃないかと想像できますよね。
という事は直接の経験じゃないにしろ、いまニュースとして耳に入ってくる内容は世界のどこにいてもかつてないほど似通っているということにもなる(これが「フラット」ね)。人間の個性が体験と記憶の堆積物であるのならば、記憶の大きな部分が共通になったらなんか人間の多様性というかそういうものが減る気がするんです。もちろん一方で個人個人自分が行動したり思考した「体験」というものはあるわけで、そういう意味では絶対に「みんなが同一」にはなりえないんですけど。
でもそれでも、人間が手を入れられる方面の外部環境が均一化されていき、そうやって内部環境も均一化の方向に向かったらどうなるんでしょうね。例えばニュースの話にしたって世界のほかのどのニュースよりも大きなニュースだからこそ世界中で報道されるんだし、その意味でそれを記憶するのは多分「最適」なんだと思うんですよ。でも最適化に向かって強烈に収斂したあとの世界が怖いなーと思うんですよね僕。
食の終焉の所でも書いたけど(http://42583.diarynote.jp/201208122347573191/ )、自分の今の課題意識ってここにある気がする。「最適化」のもつあらゆるうさんくささについて。幸せの追求も勿論あるんだけど、なんかその先でこのふたつはリンクしそうな気もする…
風立ちぬ、宮崎駿さんの最新作です。この人の作品劇場で見るのっていつ振りだろ、もしやはじめて?というくらいにしか興味がない僕ですが、なんで見る羽目になったのかというと、こりゃ予告編の力です。やたら泥臭い色使いと題字、元々思ってたけどやっぱり動いてるの見てもなんでこれを映画にするのかわからないリスキーな上(夏公開でゼロ戦製作者が主人公ってそりゃあんた喧嘩売ってるでしょ…)にポイントがよくわからないテーマ、それなのに予告編を見たらなんか「ああ、みなきゃ」ってなったんですよ。予告編製作者GJですよ商売的に(きっとめったに褒めてもらえないだろうとの偏見に基づいてほめそやしておきます)。
見ても、やっぱりテーマはわかりませんでした。たいした事件は起きないし、人間以外のものがでてくるわけでもない(夢の世界は別として)。地味です。でも見てるうちに泣けちゃったりして、なんなんでしょうねアレ。「何が面白かった?」って聞かれるととても困る…そんな映画です。少なくとも(どこかに書かれていた通り)従来の「子どもも楽しめる」でないことは確かでしょう。大人向けです。毎度の事ながら声優のへたくそさ加減がいいなーと思います。今回特にファンタジーじゃないし、普通の人間なんだからあれっくらいでいいのかもね、とか思っちゃったりして。
終わった後は本当はまた枕を探して放浪するつもりが、意外といい時間だったので移動してお狗様とクイックディナー&お茶。ただいま日本で上から数えてすぐの大学の博士課程にいらっしゃるお狗様は月曜が論文の提出期限だそうで、「でもまあ1時間くらいならいいですよ」とのことでしたので、なぜか立ち食いうどん食べながら色々。
結構な繁盛店だったしそもそも立ち話もあれなので、カフェに移動してちょろーっとだけお話。僕らの場合は世間話的なものは基本ジャブで結局なんかむずかしい話になっちゃうんだけど、まあ例に漏れず時間が限られているにも関わらず難しい話に。まあ今回は(も?)僕がふっかけたんだけれども。
ひとつが画像が出ているこの本、「なめらかな社会とその敵」。僕はこのタイトルが美しいなーっていうのと帯だかに書いてあった要約が面白いと思ってジャケ買的な感じだったんですが、話題の本だそうです。いやどこの世界で話題なんですかね。哲学界?本の内容は、複雑系を思考のベースに、現在の社会の根幹を成すいくつかの制度をバージョンアップできないか?という思考実験…と書くのがいいのかな?
ちゃんと読んだ後メモも取ってないし北京の初期に読んだので既に読了から1か月近く経過、そして複雑系に対するきちんとした理解を持っているか自信がないという条件なりにまとめると、この本で言っているのは「今までは色々な事を知覚・理解するために人間の処理能力の限界から『要約』せざるをえなかったが、技術の革新によって体験やインプットなどを要約せずにそのまま知覚することができるようになった。だからその新しい技術を使って社会をより良い方向に変えてみてはどうか?」という事…でいいかな?
試みや提案自体はとても面白いと思った。なんていうか、刺激として。ただ同時に違和感があったのは、一つはこれが統計における標本と全量調査の区別のような議論になっていないかという事。
統計学の発展は大雑把に言うと、全量調査が不可能な巨大な母数の何かの全体像をなるべくズレなく、コストをおさえた形で把握するためだった(よね?)。だけど最近は色々な技術革新により、全量調査がより安価に、現実的な選択肢になってきた。
では統計的な標本調査は不要か?という問いに対して上半期ちょっと流行った本「統計学は最強の学問である」では「安くなったとはいえ全量調査には依然ある程度のコストはかかるわけで、誤差が無視できる範囲であるちゃんと設計された標本調査であれば結果はほとんど変わらないからそっちでやったほうが合理的」というような答え方だった(気がする…ってこんな書き方ばっかり。本当はちゃんとこれらの本をあたってページめくりながら書くべきだけどまあこういう所での書き飛ばしなんで許してください…)。
つまり、「要約」しないで全体をありのままに捉える事が可能だったとして、それによって本当に何かいいことがあるのか?ということ。いままでできなかった事ができるようになったという事は一見良い事のようだけれど、もしかしたら別に何の意味もないかもしれない。
あとはこれはもしかしたらもっと的外れかもしれないけど、とてもイメージ…ぼんやりな話、「アナログ」と「刻みが細かいデジタル」は似て非なるものな気がする、という事がいいたい。具体的にどこを読んでそう思ったかと問われるときついんだけど…わりと根本的な「なめらか」の説明のあたりで思ったのかな。なめらかってアナログの話だよね。上にもちょっと書いたとおり、技術の革新でデジタルの目が細かくなる(たとえば表示できる色が16色から65536色に増えたらグラデーションはもっとスムーズに見えるでしょ)事はあっても、質的な転換を起こさないとそれはアナログじゃあないんだよ、という…あ、そういやここまで書いて量子コンピュータの話が今脳裏をよぎった。ちょっと後輩くんに聞いてみなきゃ。量子コンピュータってこういうあいまいな状態をそのまま観察できたんじゃなかったっけ。
最後に、もうひとつ違和感があったのはもっと根本的な事なんだけど「技術によって今まで処理能力的に無理だったものが」っていう事を可能性ととらえるそれ自体への疑問。
人間はそこまで勤勉なんだろうか?ってことなのかな。そんな技術があるなら別にぼちぼちでいいから思考や労働に向ける時間を減らしたいよね…とかいって産業革命とか機械化とかで作業効率が格段に上がったからって人間の労働時間が減りましたか?という話ですけど…星新一ですか。
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51859467.html
そういえばDan Kogaiさんも書評書いてました。ところでこの人今何して食ってるんだろうね。物の書き方は嫌いだけど、でも頷かされる部分も結構あって、なんかシャク。
まあそんな事はお狗様には別に話さず話題の本らしいってのを聞いて、複雑系のキモ(だという)、「現象やものを要素に還元せずそのまま理解する」事についてとか色々話していました。
んでその流れでちょいと出たことから考えたのが次の話。この話はサワリだけ彼女にもしてみたんだけど、ちょっと否定的なニュアンスで返ってきました。まあ即席なので参考文献があるわけでもなく、専門家からすれば議論というか出発点として弱いというのはしょうがないのかも。仔細に考えたのは帰り道です。
でその内容は「記憶のフラット化」について。今まで外部環境のフラット化が地域の文化に与える影響、というのはここにも書いたかもしれないし、実際にも口に出してきました。たとえば僕の大好きな食文化からスタートするならどこの国のどこの町にもマックがありスタバがあって、みんなコーラを飲みながら学校に行ってハリウッド映画を見て…というそういう話。
みんなHMやユニクロ、ZARAで服を買うようになって民族衣装なんか着ないし、食べ物だって土地の特産物なんか観光客向けだけ。しかしそれは別に誰かに強制されているのでもなく多くの場合、それが価格なり機能なり利便性なりの意味で最適な選択だからなわけです。そうである以上、外部の人間が「土地の個性を大切に、その為に多少の利便性が奪われるのは我慢しろ」って言う権利はないし、それは下手したら発展途上国に環境保護を強制して反発される(大体「うちの国が工業化しようとするのをそうやって止めて「身分制度」を固定しようとしてる」という感じで反発されるのよね、確か)ような感じでしかないかもしれない。大体文化なんてかごに入れて保護にすることなんてできないんだし。大きくとらえると共有地の悲劇みたいな話です。
あ、話がすこしそれた。で今日の話は、メディアやコミュニケーション手段の発達により、ある特定地域だけのニュースが全世界に報道されたりすることが多くなったという話から始まる。例をあげると、2011年に「10年前の一番大きなニュースはなんでしたか」と問えば多分多くの国の大多数の人がアメリカの9.11をあげるだろうと思う。でも、多分18世紀の人に同じ質問をしたら自分や家族、それか自分の住んでいる町や地方の話題が出てくるんじゃないかと想像できますよね。
という事は直接の経験じゃないにしろ、いまニュースとして耳に入ってくる内容は世界のどこにいてもかつてないほど似通っているということにもなる(これが「フラット」ね)。人間の個性が体験と記憶の堆積物であるのならば、記憶の大きな部分が共通になったらなんか人間の多様性というかそういうものが減る気がするんです。もちろん一方で個人個人自分が行動したり思考した「体験」というものはあるわけで、そういう意味では絶対に「みんなが同一」にはなりえないんですけど。
でもそれでも、人間が手を入れられる方面の外部環境が均一化されていき、そうやって内部環境も均一化の方向に向かったらどうなるんでしょうね。例えばニュースの話にしたって世界のほかのどのニュースよりも大きなニュースだからこそ世界中で報道されるんだし、その意味でそれを記憶するのは多分「最適」なんだと思うんですよ。でも最適化に向かって強烈に収斂したあとの世界が怖いなーと思うんですよね僕。
食の終焉の所でも書いたけど(http://42583.diarynote.jp/201208122347573191/ )、自分の今の課題意識ってここにある気がする。「最適化」のもつあらゆるうさんくささについて。幸せの追求も勿論あるんだけど、なんかその先でこのふたつはリンクしそうな気もする…
幸せ再度/アメリカ英語のくせのようなもの
2013年7月6日 考え事 また「幸せ」について考えています。なんでこんなに考えているのか、自分でもちょっとやばいんじゃないかと思ったりもしますが、具体的に何がやばいかはよくわからないので考えるのはやめにしましょう。
そう、また色々考えたり過去の自分のエントリ(という表現はとても気恥ずかしい)を読み直して新しく考え付いたと思った事が既に随分前に語っていたという事をみつけてしょんぼりしたり(いや、それを自覚できるだけで、記録しておく事には意味があると思いますよ、決して負け惜しみだけの意味ではなく)。
今日ちょっとだけ書いておきたいなと思ったのは、これも繰り返しになるけど、もしかしたら「幸福ってのは考える必要がないことだ」とも言えるのかなと。
つまり「幸福とは何だろう」「どうやったら幸福になれるんだろう」と悩む…までいかないまでも考えるというその行為自体が幸福から自身を遠ざけるということなのかもしれない、ということ。
しかし考えなければ至れないではないか!というようにも思うんだけど、そこに対する示唆としては複雑系であり、禅なのかなーとか思ったりするわけです。…をを、なんかまた話が広大になってきましたね?
いや、たいしてわかってもいない禅や複雑系を例に出すのはまずいとしてですね、要するに「要素に還元することが正しい」というのが科学の考えで、複雑系はそれを否定するわけです。すんごいあらっぽく僕の理解を書くと、人間をばらしたどこに「心」や「意識」の材料があるのか?ということ。手指が10本そろっていなくたって心はあるとすると、じゃあ(えぐい話だけど)パーツをひとつひとつもいでいったらどの段階で心はなくなるのでしょう?いややるまでもなく多分先に意識や命がなくなるだけですよね。そういう話。
それと幸福に何が共通するの?というのは、「~だから幸福」という「あなた/わたしを幸福にする要素」というものを追い求めるのが正しいのかどうか、ということです。
禅ではやっぱり要素への還元を否定するようです。言葉で説明せず、直観せよと。「なぜ」と問うなと。幸せってそういうものなのかなーもしかして、とも思ったりするんですが、どうでしょう。
あ、NZ行く時に久しぶりに大拙を読んで、今複雑系についての本を読んだから影響を受けてる、わあこの人あさはか!ということは否定しませんよ!つうか読んでいい本だと思ったものの要素を取り込んで何がわるいんだ!
あと、別にこの答えがどうであるかは、大きな問い(どうやったら幸せになれるか)への答えにはなりません。いやなってるといえばなってるといえなくもないんだけど、某チェーンの経営者が言っていたように、「成功は複製できないと意味がない」のです。要素を抽出することが出来ればその要素をコピればいいという意味で一番簡単(コピーする事がいくら大変でも、手順とゴールがわかっている以上いつかはたどり着ける)なんだけど、それができないならそれこそ複雑系の計算機シュミレーションのように、成功している人の一挙手一投足をコピーするというアプローチになるのかもしれません。
まあどうしたらいいかわからないんだけど、そんなことを考えた、というようなお話でした。ここのところ思索はいつも旅のテーマで、いつもボチボチかな、と思っているのと比べると今回は進んでいるというようなことをその途中で感じられるというのは悪くないのかな、と思います。まあ期間も長いしね。
アメリカ英語の話。なんか最近アメリカ英語を聞く機会がちょいちょいあって、やつらの形容詞ってホントシンプル…まあ要するに恐れずに言えば子供っぽいよな、と思ったりしたのです。大学の副学長が"Big shot"とか…。あ、これはなんだっけな…学生向けの講義に出席していた時に僕も含めなぜか大人が何人か出席していて、授業の最後に学生向けに「今日は大人の人がなぜか何人か混じっていますが、この人たちはいずれも業界の大物です。授業のあとに交流してみてください」と言うような事を言ったんだけど、その中の「大物」をBig shotって言ってたんだけど…やっぱ子供っぽいよね。なんか単語が簡単すぎ。
でもそんなことをいいつつも、自分もこういうの使っちゃうんだよね。一番よく使うのは多分Loveとか(なんかいいものとかいい話を聞いてOh that’s lovelyとかね)かな。あと何使うかな…。まあ特に非ネイティブ同士のコミュニケーションではこういうシンプルだけどその分わかりやすく強烈な単語をちりばめたほうが伝わりやすいのは絶対に確かです。アメリカでこういう言葉が使われている(多分ね…)のも、やっぱ移民の国だから、という事があるんだと思いますよ。
そう、また色々考えたり過去の自分のエントリ(という表現はとても気恥ずかしい)を読み直して新しく考え付いたと思った事が既に随分前に語っていたという事をみつけてしょんぼりしたり(いや、それを自覚できるだけで、記録しておく事には意味があると思いますよ、決して負け惜しみだけの意味ではなく)。
今日ちょっとだけ書いておきたいなと思ったのは、これも繰り返しになるけど、もしかしたら「幸福ってのは考える必要がないことだ」とも言えるのかなと。
つまり「幸福とは何だろう」「どうやったら幸福になれるんだろう」と悩む…までいかないまでも考えるというその行為自体が幸福から自身を遠ざけるということなのかもしれない、ということ。
しかし考えなければ至れないではないか!というようにも思うんだけど、そこに対する示唆としては複雑系であり、禅なのかなーとか思ったりするわけです。…をを、なんかまた話が広大になってきましたね?
いや、たいしてわかってもいない禅や複雑系を例に出すのはまずいとしてですね、要するに「要素に還元することが正しい」というのが科学の考えで、複雑系はそれを否定するわけです。すんごいあらっぽく僕の理解を書くと、人間をばらしたどこに「心」や「意識」の材料があるのか?ということ。手指が10本そろっていなくたって心はあるとすると、じゃあ(えぐい話だけど)パーツをひとつひとつもいでいったらどの段階で心はなくなるのでしょう?いややるまでもなく多分先に意識や命がなくなるだけですよね。そういう話。
それと幸福に何が共通するの?というのは、「~だから幸福」という「あなた/わたしを幸福にする要素」というものを追い求めるのが正しいのかどうか、ということです。
禅ではやっぱり要素への還元を否定するようです。言葉で説明せず、直観せよと。「なぜ」と問うなと。幸せってそういうものなのかなーもしかして、とも思ったりするんですが、どうでしょう。
あ、NZ行く時に久しぶりに大拙を読んで、今複雑系についての本を読んだから影響を受けてる、わあこの人あさはか!ということは否定しませんよ!つうか読んでいい本だと思ったものの要素を取り込んで何がわるいんだ!
あと、別にこの答えがどうであるかは、大きな問い(どうやったら幸せになれるか)への答えにはなりません。いやなってるといえばなってるといえなくもないんだけど、某チェーンの経営者が言っていたように、「成功は複製できないと意味がない」のです。要素を抽出することが出来ればその要素をコピればいいという意味で一番簡単(コピーする事がいくら大変でも、手順とゴールがわかっている以上いつかはたどり着ける)なんだけど、それができないならそれこそ複雑系の計算機シュミレーションのように、成功している人の一挙手一投足をコピーするというアプローチになるのかもしれません。
まあどうしたらいいかわからないんだけど、そんなことを考えた、というようなお話でした。ここのところ思索はいつも旅のテーマで、いつもボチボチかな、と思っているのと比べると今回は進んでいるというようなことをその途中で感じられるというのは悪くないのかな、と思います。まあ期間も長いしね。
アメリカ英語の話。なんか最近アメリカ英語を聞く機会がちょいちょいあって、やつらの形容詞ってホントシンプル…まあ要するに恐れずに言えば子供っぽいよな、と思ったりしたのです。大学の副学長が"Big shot"とか…。あ、これはなんだっけな…学生向けの講義に出席していた時に僕も含めなぜか大人が何人か出席していて、授業の最後に学生向けに「今日は大人の人がなぜか何人か混じっていますが、この人たちはいずれも業界の大物です。授業のあとに交流してみてください」と言うような事を言ったんだけど、その中の「大物」をBig shotって言ってたんだけど…やっぱ子供っぽいよね。なんか単語が簡単すぎ。
でもそんなことをいいつつも、自分もこういうの使っちゃうんだよね。一番よく使うのは多分Loveとか(なんかいいものとかいい話を聞いてOh that’s lovelyとかね)かな。あと何使うかな…。まあ特に非ネイティブ同士のコミュニケーションではこういうシンプルだけどその分わかりやすく強烈な単語をちりばめたほうが伝わりやすいのは絶対に確かです。アメリカでこういう言葉が使われている(多分ね…)のも、やっぱ移民の国だから、という事があるんだと思いますよ。
君は何のために金を稼ぐのか、若しくはえげつなく広がる差について
2013年5月1日 考え事 とタイトルまで打って、そういえばこういう質問って流石の何でも知ってるGoogle先生でも答えてくれないなあ、と思ったんですが、当たり前すぎますかね。いや別に僕の心を読んでくださいという事ではなくて、何のために人は金を稼ぐかという事に対する一般的な回答はなにか、という話よ勿論。流石に先生だって僕の心までは読めませんもの。
まあそれは置いといて、何なんでしょうね。普通に考えてお金そのものには特殊な紙と金属の固まり以上の価値はないわけですから、それを集めるためにたくさん働いたりする人はいません(いたら斬新だな)。一般的に考えて、それを持っていて得られるものを得るためでしょう。
同じものから発生しているという意味で分かちがたいけどあえていくつかに分類するなら、ひとつは名声とか社会的地位といったもの(っぽいもの)。「成功者」「稼いでいる人」って感じでしょうか。まったくうらやましくなりません。
まったくうらやましくならない僕にはもうひとつ、「お金で買える物が欲しい」という事が言えるかな。車が欲しい、家が欲しい、プライベートジェットが欲しい。あーお金で買えるものってこうやってみるとみんな維持費が高そう…というのはいいとしても、あんまうらやましくならないのはなんでかなあ…まああったら欲しいものは結構あるけど(マセラティとか!)、別にそのためになんか差し出したり我慢したりするほどのもんじゃないかなあ、と思ってしまいます。
ま、ただ、ないのは困るんだよね。金。やっぱり衛生要因(前書いた)なんだろうね。
それはいいとしても、そうだもう一個あって、報酬の額を自分の価値だと思う、という考えはあるかも。去年400万だったのが転職したら600万で売れたら、自分の価値は200万上がったやったぜ!みたいな。…って書くとなんか「鎖を自慢する奴隷の話」みたいだね。別にそこまで皮肉をいいたいわけじゃないし、どれかと言われればこれが一番自分の考え方に近いんだけどさ。
結論のある話じゃないけど、「なぜ人を殺してはいけないか」というのと似て、根本的というか時々顔を出すくせに誰もちゃんと答えられない(しかも人殺しの話とちがって自分個人の考えでいいのにさ)けど。
ちなみに僕はある分だけ使う(うっかりあると思ってる分まで使う)、なければ使わないという感じなのでそういう意味では欲が全然ないのかもしれません!
…とここまで書いて思った。もうひとつあるわ。「金がないことによる不便が怖い」ってのはあるかも。持ってても幸せにはなれないにしても、なくなるまでの期間は確実に延びるわけだからいつ体壊したりクビになったりしても大丈夫なように今の内に稼いでおこう!とかね。
なんかマクラのつもりが長くなってしまいました。
そしてエネルギーの大半をうっかり使ってしまった気がする。まあいいや。かける限り。
今日は幼馴染の元カノというフクザツなお友達であるところのギミーさんにお知り合いを紹介してもらってランチでした。就職先としてどうかな?と思った秘密のヴェールに包まれた企業の社員さんがギミーさんの実は同期(でもあんまり詳しく知らないよ)とのことで。
やーもつべきものは友ですね。わざわざセッティングしてもらえるなんて、ホント感謝してもしきれません。さっきのGoogle先生じゃないけど、ほとんどの事がボタン一個でわかるようになったからこそ、それじゃ絶対わからんことを知ることには果てしない価値が生まれるわけです。
会った人は、某放送局(しかもアナウンサーだったぽい)からコンサル行って今の会社、という相当変わった経歴。今の会社ってのがその秘密会社で、まあある種のコンテンツ屋さんです。土管業。
話してる限りでは若干鬱陶しい共感力とバイタリティのある人、というくらいなんだけど、やーいいリハビリになったというかなんというかね。深い洞察があるというか、ランチの短い間話しただけでも刺激になった、というとなんかやすっぽいかな。自分が口にすることもなんかこう新しいというか…色々引き出してもらっちゃった感じ。
いやね、ヤなんですよこういうの。僕自分の事わりと頭いい人だと思ってるし(嫌な野郎だね)、その鼻が叩き折られることもそんなにはない。わりと褒めてもらっちゃったりする(だから調子に乗る)。あと、その裏返しか他人を認めるのが結構イヤです。足引っ張ろうとする…ってほど実行動には移さないけど、なんか欠点見つけて脳内で喜んだりはします。
でも、たまにいるんですよねこういう人。そんな僕より頭のいい、いけ好かない。なんかこう話してるとコンプレックスちくちく刺激される感じ…でも自分の発想も一緒に刺激されてるから悪い気分ではないんだけど…いや正確にはいい気分と悪い気分がない交ぜになってる感じですね。むかつきます。
で、そんな中で主に記憶に残ったのが2つ。
1)ビジネスと文化保存を分けろ
最近のクールジャパン旋風って「ぺっ」って感じだよね、という文脈の中でクールジャパンをdisる理由として彼が言ったのが「大概の人がビジネスとして儲ける事と伝統文化を保存していこうという事を混同している」ということ。
確かに。勿論隣接する部分では明確に分かれない部分もあるのは当然としても、それが現状としてかなり大規模に混ざり合っているというのも本当だな、と思いました。これは結構簡単な言葉の割りに納得感があったのでもしかしたら彼個人の意見というより彼の会社や彼が生きるコミュニティのコンセンサス/定説になっているのかもしれないとも思ったけど、どうだろ。
なんでこれが自分に刺さったかというとやっぱり個人的な体験というか…要するにクラシックってどっちよ?と考えたときは勿論後者(伝統文化)なわけだけど、自分の目指すところも「これでがっちり儲けようぜ?」ではなく、あくまで後者の延長なんだなという事を思ってしまったというところが大きいのです。
言葉を変えれば「ビジネスとしてやる」という言葉の適応範囲の広さ、ともいえるかもしれません(そんな話もした)。僕たちの業界、これは僕も含めて、商売っ気がある人も無い人も、結局「ビジネスなんだから」とか「儲けなきゃ」って言ってる時って、見てるラインは結局採算分岐でしかないんですよ。要するに言っちゃえば「赤にはしちゃだめだよね」ってだけなんです。
だけど今日会った彼のような視点の人からすれば赤にするか黒にするかなんてのは議論ですらなく、どれだけ黒にするかが「ビジネスとしてやる」という事なんですね。儲けなきゃ、と彼らが言った時は例えば投資に対して1000%以上はいかないと、みたいな。
あ、勿論原資がでかいからリターンもでかく約束できないとリスクとってやる意味が無い、という意味も、勿論あるだろうけどね。
だから「ビジネスとして成り立たないと文化として生存できない」という我々のよくやるテーゼは彼にとっては多分理解不能なんですよ。多分それを彼に向かって言ったら「文化としてサヴァイヴする手段としてビジネス化、マネタイズを考えるのはありだろうけど、それが唯一の解じゃないしそもそも無理でしょうねマネタイズ」って言われて終了な気がするわけです。そうすると「自立して生き延びるのは無理だからパトロン探そうぜ」みたいな話にもつながりやすくなるよね。
2)音楽とローカライズ
これは自分の発言なんだけど、J-popってアジアでいけるんですかね?みたいな話で色々話していたときに、ふっと思ったんですよ。いや自分でこないだ「コンテンツ輸出の中でも割と勝ち目がありそう」とか書いてるので非常に恥ずかしいんだけど…。ちなみに映画との対比なんだけど、映画とかアニメはリメイクによって、かなりの部分に手を入れてローカライズが可能ですよね。設定を変えて。細かいところではどっかの国ではキャプテン翼の日本代表のユニフォームの日の丸がアウトだから全部サッカーボール柄に書き換えたとかという話を聞いた事があるけど、そういうやつ。
でも、音楽はそういうローカライズができない…というか歌詞を除いてはローカル要素がない、ユニバーサルなものという事になっているから、いじっても別の曲(カバー)になるだけなんですわな。もちろん曲に占める歌詞の割合は大きいので現地語で歌わせる、というのは大きなアプローチとしてあると思います。Xだって紅を英語で歌っただろ?…とか言う前にKARAとか韓流って言えよって話だと思いますが、まあそういうやつ。ただ歌詞しかいじりようがなければやはりローカライズで期待されるほど大きな変化はおきなさそう…。
舞台芸能とかも、ローカライズ可能ですよね。音楽だけがそれを必要とせずに理解できる、ともいえるし、必要だったとしてもできない、ともいえる。
そういう意味で、じゃあ日本人の歌手を海外で売ろう、となった時に、昔みたいに「アメリカツアーやればハクがついて国内でまたウレウレ!」という時代でもない以上、現地できっちり収益を上げなきゃいけない。その為に何をするか、というビジョンがないところでは働いても意味ないかも…と思ったのでした。いやあ、気付きです。ありがとう。んで日本の場合国内マーケットがしぼんでるとはいえまだ全然でかいから、いきなりそっちを捨てて海外専用アーティストなんてのを作る意味がないのよね。どう考えても存在が不自然だし売るの難しいし。かといって国内で売れちゃうと色々面倒だし本人達だっていちから英語覚えて…なんてやらんだろうし。むうううう。
この辺、その事務所と(もし書類を通って会えることになったら)話してみたいところです。というか今思いつく限りではやりかたはひとつしかないですよね。海外専用日本人アーティストを(成功したらそれをバックに逆輸入をかけるというところまで想定して)いちから育てます、という。
まーそんなことを考えつつ、感じたのが「差」でした。年をとって就業年齢になるというのはいわば誰でもできるわけで、「働いてお金をもらえる身分になる」事自体はなんの偉いことでもないわけですよね。日々ダラダラ暮らしている人でも、まあそれなりの生きていけるくらいの給料は貰えちゃったりする(それがわが業界よ)。でもあれだけゴリゴリやってりゃもっともらえる。シンプルな話です。
そしてその差は、あまりにその距離がありすぎると接点がなさ過ぎるせいか、見えないんですよ。なんとなく自分と同じくらいしか働いてない(時間の長さの問題じゃなくてね…)人が3倍くらい給料貰っててずるいじゃん、みたいに思えてくる。ホントはきっと、だらだらしてるてめえがそんな給料貰ってるほうがおかしいんであってね。いやこれ自戒ですよホント。でもよーく考えてみると、貰ってる人はそれなりの仕事をしている(こともある)わけですよね。別に「動かす金額が大きい」というだけではなくて、ね。
そんでその差ってのは勿論環境、つまりどこ(どんな会社)で誰と働くか、にもかなり影響されるだろうけど、加えてどう働くか、日々どう仕事と格闘しているかによって伸び方も全然違うんだろうなと。いやほら、この仕事になって「有給休暇ばんざい!」とか「社会復帰できるのかね」とかそういったことを言ってたのがこれですよ。あーおれ伸びてねえな、というね。
ま、でもこの段階、しかも面接とかじゃなくカジュアルなディスカッションの中でその自覚を得られて良かったと思います。いや辛いけどさ。どうすっかな、と思うけどさ。
あとそうそう、忘れちゃいけないのが別れたあと、彼にFB申請して経歴と友人関係見てたら彼がいたコンサル会社ってのが特定できたんですけど、そこ僕現職に移るときに受けて落ちたとこだったんです。
それがどうというのではなく、その面接で初めて(?)「やばいこいつ」と思ったんですよね面接官。頭いいな!かなわない…と。あの会社、「知の体育会系」とか言ってわりと泣くほど働かされる有名な戦略系なんですけど、やっぱあそこの人はおしなべて俺より頭いいのか、と変に感心したというか、コンプレックスを新たにしたのでした。
さー頭でかなわなくても勝てる方法考えなきゃな。
まあそれは置いといて、何なんでしょうね。普通に考えてお金そのものには特殊な紙と金属の固まり以上の価値はないわけですから、それを集めるためにたくさん働いたりする人はいません(いたら斬新だな)。一般的に考えて、それを持っていて得られるものを得るためでしょう。
同じものから発生しているという意味で分かちがたいけどあえていくつかに分類するなら、ひとつは名声とか社会的地位といったもの(っぽいもの)。「成功者」「稼いでいる人」って感じでしょうか。まったくうらやましくなりません。
まったくうらやましくならない僕にはもうひとつ、「お金で買える物が欲しい」という事が言えるかな。車が欲しい、家が欲しい、プライベートジェットが欲しい。あーお金で買えるものってこうやってみるとみんな維持費が高そう…というのはいいとしても、あんまうらやましくならないのはなんでかなあ…まああったら欲しいものは結構あるけど(マセラティとか!)、別にそのためになんか差し出したり我慢したりするほどのもんじゃないかなあ、と思ってしまいます。
ま、ただ、ないのは困るんだよね。金。やっぱり衛生要因(前書いた)なんだろうね。
それはいいとしても、そうだもう一個あって、報酬の額を自分の価値だと思う、という考えはあるかも。去年400万だったのが転職したら600万で売れたら、自分の価値は200万上がったやったぜ!みたいな。…って書くとなんか「鎖を自慢する奴隷の話」みたいだね。別にそこまで皮肉をいいたいわけじゃないし、どれかと言われればこれが一番自分の考え方に近いんだけどさ。
結論のある話じゃないけど、「なぜ人を殺してはいけないか」というのと似て、根本的というか時々顔を出すくせに誰もちゃんと答えられない(しかも人殺しの話とちがって自分個人の考えでいいのにさ)けど。
ちなみに僕はある分だけ使う(うっかりあると思ってる分まで使う)、なければ使わないという感じなのでそういう意味では欲が全然ないのかもしれません!
…とここまで書いて思った。もうひとつあるわ。「金がないことによる不便が怖い」ってのはあるかも。持ってても幸せにはなれないにしても、なくなるまでの期間は確実に延びるわけだからいつ体壊したりクビになったりしても大丈夫なように今の内に稼いでおこう!とかね。
なんかマクラのつもりが長くなってしまいました。
そしてエネルギーの大半をうっかり使ってしまった気がする。まあいいや。かける限り。
今日は幼馴染の元カノというフクザツなお友達であるところのギミーさんにお知り合いを紹介してもらってランチでした。就職先としてどうかな?と思った秘密のヴェールに包まれた企業の社員さんがギミーさんの実は同期(でもあんまり詳しく知らないよ)とのことで。
やーもつべきものは友ですね。わざわざセッティングしてもらえるなんて、ホント感謝してもしきれません。さっきのGoogle先生じゃないけど、ほとんどの事がボタン一個でわかるようになったからこそ、それじゃ絶対わからんことを知ることには果てしない価値が生まれるわけです。
会った人は、某放送局(しかもアナウンサーだったぽい)からコンサル行って今の会社、という相当変わった経歴。今の会社ってのがその秘密会社で、まあある種のコンテンツ屋さんです。土管業。
話してる限りでは若干鬱陶しい共感力とバイタリティのある人、というくらいなんだけど、やーいいリハビリになったというかなんというかね。深い洞察があるというか、ランチの短い間話しただけでも刺激になった、というとなんかやすっぽいかな。自分が口にすることもなんかこう新しいというか…色々引き出してもらっちゃった感じ。
いやね、ヤなんですよこういうの。僕自分の事わりと頭いい人だと思ってるし(嫌な野郎だね)、その鼻が叩き折られることもそんなにはない。わりと褒めてもらっちゃったりする(だから調子に乗る)。あと、その裏返しか他人を認めるのが結構イヤです。足引っ張ろうとする…ってほど実行動には移さないけど、なんか欠点見つけて脳内で喜んだりはします。
でも、たまにいるんですよねこういう人。そんな僕より頭のいい、いけ好かない。なんかこう話してるとコンプレックスちくちく刺激される感じ…でも自分の発想も一緒に刺激されてるから悪い気分ではないんだけど…いや正確にはいい気分と悪い気分がない交ぜになってる感じですね。むかつきます。
で、そんな中で主に記憶に残ったのが2つ。
1)ビジネスと文化保存を分けろ
最近のクールジャパン旋風って「ぺっ」って感じだよね、という文脈の中でクールジャパンをdisる理由として彼が言ったのが「大概の人がビジネスとして儲ける事と伝統文化を保存していこうという事を混同している」ということ。
確かに。勿論隣接する部分では明確に分かれない部分もあるのは当然としても、それが現状としてかなり大規模に混ざり合っているというのも本当だな、と思いました。これは結構簡単な言葉の割りに納得感があったのでもしかしたら彼個人の意見というより彼の会社や彼が生きるコミュニティのコンセンサス/定説になっているのかもしれないとも思ったけど、どうだろ。
なんでこれが自分に刺さったかというとやっぱり個人的な体験というか…要するにクラシックってどっちよ?と考えたときは勿論後者(伝統文化)なわけだけど、自分の目指すところも「これでがっちり儲けようぜ?」ではなく、あくまで後者の延長なんだなという事を思ってしまったというところが大きいのです。
言葉を変えれば「ビジネスとしてやる」という言葉の適応範囲の広さ、ともいえるかもしれません(そんな話もした)。僕たちの業界、これは僕も含めて、商売っ気がある人も無い人も、結局「ビジネスなんだから」とか「儲けなきゃ」って言ってる時って、見てるラインは結局採算分岐でしかないんですよ。要するに言っちゃえば「赤にはしちゃだめだよね」ってだけなんです。
だけど今日会った彼のような視点の人からすれば赤にするか黒にするかなんてのは議論ですらなく、どれだけ黒にするかが「ビジネスとしてやる」という事なんですね。儲けなきゃ、と彼らが言った時は例えば投資に対して1000%以上はいかないと、みたいな。
あ、勿論原資がでかいからリターンもでかく約束できないとリスクとってやる意味が無い、という意味も、勿論あるだろうけどね。
だから「ビジネスとして成り立たないと文化として生存できない」という我々のよくやるテーゼは彼にとっては多分理解不能なんですよ。多分それを彼に向かって言ったら「文化としてサヴァイヴする手段としてビジネス化、マネタイズを考えるのはありだろうけど、それが唯一の解じゃないしそもそも無理でしょうねマネタイズ」って言われて終了な気がするわけです。そうすると「自立して生き延びるのは無理だからパトロン探そうぜ」みたいな話にもつながりやすくなるよね。
2)音楽とローカライズ
これは自分の発言なんだけど、J-popってアジアでいけるんですかね?みたいな話で色々話していたときに、ふっと思ったんですよ。いや自分でこないだ「コンテンツ輸出の中でも割と勝ち目がありそう」とか書いてるので非常に恥ずかしいんだけど…。ちなみに映画との対比なんだけど、映画とかアニメはリメイクによって、かなりの部分に手を入れてローカライズが可能ですよね。設定を変えて。細かいところではどっかの国ではキャプテン翼の日本代表のユニフォームの日の丸がアウトだから全部サッカーボール柄に書き換えたとかという話を聞いた事があるけど、そういうやつ。
でも、音楽はそういうローカライズができない…というか歌詞を除いてはローカル要素がない、ユニバーサルなものという事になっているから、いじっても別の曲(カバー)になるだけなんですわな。もちろん曲に占める歌詞の割合は大きいので現地語で歌わせる、というのは大きなアプローチとしてあると思います。Xだって紅を英語で歌っただろ?…とか言う前にKARAとか韓流って言えよって話だと思いますが、まあそういうやつ。ただ歌詞しかいじりようがなければやはりローカライズで期待されるほど大きな変化はおきなさそう…。
舞台芸能とかも、ローカライズ可能ですよね。音楽だけがそれを必要とせずに理解できる、ともいえるし、必要だったとしてもできない、ともいえる。
そういう意味で、じゃあ日本人の歌手を海外で売ろう、となった時に、昔みたいに「アメリカツアーやればハクがついて国内でまたウレウレ!」という時代でもない以上、現地できっちり収益を上げなきゃいけない。その為に何をするか、というビジョンがないところでは働いても意味ないかも…と思ったのでした。いやあ、気付きです。ありがとう。んで日本の場合国内マーケットがしぼんでるとはいえまだ全然でかいから、いきなりそっちを捨てて海外専用アーティストなんてのを作る意味がないのよね。どう考えても存在が不自然だし売るの難しいし。かといって国内で売れちゃうと色々面倒だし本人達だっていちから英語覚えて…なんてやらんだろうし。むうううう。
この辺、その事務所と(もし書類を通って会えることになったら)話してみたいところです。というか今思いつく限りではやりかたはひとつしかないですよね。海外専用日本人アーティストを(成功したらそれをバックに逆輸入をかけるというところまで想定して)いちから育てます、という。
まーそんなことを考えつつ、感じたのが「差」でした。年をとって就業年齢になるというのはいわば誰でもできるわけで、「働いてお金をもらえる身分になる」事自体はなんの偉いことでもないわけですよね。日々ダラダラ暮らしている人でも、まあそれなりの生きていけるくらいの給料は貰えちゃったりする(それがわが業界よ)。でもあれだけゴリゴリやってりゃもっともらえる。シンプルな話です。
そしてその差は、あまりにその距離がありすぎると接点がなさ過ぎるせいか、見えないんですよ。なんとなく自分と同じくらいしか働いてない(時間の長さの問題じゃなくてね…)人が3倍くらい給料貰っててずるいじゃん、みたいに思えてくる。ホントはきっと、だらだらしてるてめえがそんな給料貰ってるほうがおかしいんであってね。いやこれ自戒ですよホント。でもよーく考えてみると、貰ってる人はそれなりの仕事をしている(こともある)わけですよね。別に「動かす金額が大きい」というだけではなくて、ね。
そんでその差ってのは勿論環境、つまりどこ(どんな会社)で誰と働くか、にもかなり影響されるだろうけど、加えてどう働くか、日々どう仕事と格闘しているかによって伸び方も全然違うんだろうなと。いやほら、この仕事になって「有給休暇ばんざい!」とか「社会復帰できるのかね」とかそういったことを言ってたのがこれですよ。あーおれ伸びてねえな、というね。
ま、でもこの段階、しかも面接とかじゃなくカジュアルなディスカッションの中でその自覚を得られて良かったと思います。いや辛いけどさ。どうすっかな、と思うけどさ。
あとそうそう、忘れちゃいけないのが別れたあと、彼にFB申請して経歴と友人関係見てたら彼がいたコンサル会社ってのが特定できたんですけど、そこ僕現職に移るときに受けて落ちたとこだったんです。
それがどうというのではなく、その面接で初めて(?)「やばいこいつ」と思ったんですよね面接官。頭いいな!かなわない…と。あの会社、「知の体育会系」とか言ってわりと泣くほど働かされる有名な戦略系なんですけど、やっぱあそこの人はおしなべて俺より頭いいのか、と変に感心したというか、コンプレックスを新たにしたのでした。
さー頭でかなわなくても勝てる方法考えなきゃな。
おれは○○をやめるぞ!ジョジョーーッ!!
2013年4月6日 考え事 ということで、いきなり会社を辞めることになりました。わあ。
この辺が最近日記を書けていない駄目なところだと思うんだけど、ここ数ヶ月その兆候はありました。兆候っていうのとはちょっと違うかな。
感じていたのはなんかこう、「次のステージにいかなければいけない」ということ。それはいまの仕事を離れるという話だけではなくて…。というのは(あーこんな事書いていいのかな)うちの会社、多分結構財務的にやばい状況で、何かを変えないと多分年度内に飛ぶなという予感があったんです。それがここ数ヶ月とても強くなっていた。そして商売柄、向こう3年とかのラインナップも見えてくるんだけどそれがやばい。貧弱すぎて売れる予感がちっともしない。もしここを切り抜けても、先が明るい気がまったくしない。
そういう状況で僕が考えていたのはまず会社の正確な状況を知ること、もっとドラスティックに新しい事を考えなければいけないということ、そしてなにかあった時に最大限、会社が持つ資産(主に有名な演奏家やオーケストラとの信頼関係だよね)を日本から失わせずに済む方法。
もともとこの会社はオーナー会社で、次代を継承できる人間がいないという大きな問題があって(大体この種の興行師で個人の名前じゃなく、会社を残せる人間なんてほとんどいないのが現実)、そういう意味では今もし耐えられても今の社長が辞める10年以内には必ず大きな波乱が起こるだろう、という予感があった。
だからもし今の心配が杞憂だったとしても、有事のシュミレーションをしておくことは(残念ながら)先々絶対に生きると思っていた。
しかし結果からすれば自分を取り巻く状況に対する認識が甘かった、という事なのかもしれません。元々僕はマネージメントをやらないという会社の主流ではない人間でした。自分で会社での仕事を聞かれると「雑用」と答えるような、わりと「みんなが出来ないことのスキルを持っているから許される」という不安定っちゃ不安定な立場で、あまり直接的に会社の収益に貢献していないという意味では確かに誰を切るか、という話になるとターゲットになりやすい立場ではあったのです。で、今回めでたくと。
僕がいた3年くらいの中で切られた人は大体明らかな大失敗をやらかしていたのと、去年何千万か赤字ぶっこいた人間がまだ社内に居たりはしたので「そいつが切られない内はまあ」という甘い気持ちがあったことは否めません。また、今年はめちゃくちゃ外国からオーケストラが来る年なので、いろいろあって英語要員が減っている中で一応喋れる僕は駒として残すだろうという読みがあったこともあります。元々そういう使われ方だし。
ただ、会社の経営なのか僕に対する評価なのかはわかりませんが、それ以上のものであったという事なのでしょう。そういう意味では読み負けたんでしょうね。昨日呼び出され「ごめん」って話になりました。
そんな背景もあり、呼び出されてそういう事を告げられた時も「どこで読み違えたか」「次どうするか」という事が頭の中をぐるぐるはしたものの、思ったより動揺はしませんでした。出来るだけ長い間給料もらえるようそういう小芝居はしましたけどね。今も、実質的な解雇の割には動揺も落胆もありません。少なくとも自覚的には強がりではなく、むしろ複雑に会社の行き先を心配しなくていいという面では楽になったかも、というくらいです。だって会社解散時の知的財産の行方とかさー、専門外だし(ちょっと調べてて面白かったけど)。
ただ社長が解雇は一ヶ月前に予告する必要がある(厳密には罰金払えば問題ないようだけど)というのを素で知らないような発言をしてたのはびっくりしたなー、というか動揺しましたよー。多分今まで誰も騒がなかったから知らないままなだけと思うんだけど、それにしたってこれって常識だよねえ。要するに「いつまで雇ってもらえます?」って訊いたら「まあ僕も鬼じゃないから明日とは言わないよ、4月末とか?」って素で言うわけですよードヤ顔で。もう4月でんがなっていうね。悪意がなさそうなだけにイタい。
ま、とりあえずそんなわけで次を探さなければいけません。ありがたいことに頼めば紹介してくれそうな人は結構いるんですが、なんか「自分がどうしたいか」という点がまだ全然で、そこは不安です。音楽業界内で移る気はあまりないし、かといってPRに戻る気もない。お金で短期的な視野の仕事はしたくない(っていう風に書くと当たり前すぎやな)し。思い切って数年来の計画通り中国に移住しちゃうか、って決断するのは簡単なんだけど、場所を移すことは「何をするか」という事の一軒解決になっているようでいて、全然なってないのよね。なんとなくインパクトがあるから自分でもそれを解決と錯覚しそうで怖い。
どうするかなー。なんかもっとエンタメぐいぐいな方向に行く、というのもちょっと考えてはいて、アジア方面に日本人タレントとか売り込んでる会社とかってのも面白いかな?と思ったりはしています。一方で、まともなビジネスの世界に戻ってもっと大きな仕事をしたいな、という気もしています。気、というかそっちのほうが向いてるんじゃないの?という。
今回のような事態になっていろいろ反省するべきところはあるんだけど、その中でひとつ足りないなと思ったのが、ちゃんと最初から最後まで自分でやりぬく力。これはツメがあまいという話にも聞こえるけど、それよりは気付かないうちに「大会社っぽい働き方」になっちゃってたんだろうな、という気がするのが言いたいことです。自分はミドルに居て、後ろから来た情報に足したり引いたり編集してフロントに投げる、みたいな。別に前の会社が大きかったとは思わないんだけど、それにしたって小さくはなかったしチームで動いてたからそういうのでもやっていける面があったんだと思う。そっちのほうが責任を回避できるし、楽だもんね。そういう中で弛緩しちゃってた部分はあったかなと反省しています。
さてー。ま、こういうところに書くことで、少し自分の頭が整理されるかなとも思って誰かに告げる前に書いてみました(あ、一応何人かには言ったけどね)。ちょっと整理されたかな。どうかな。
この辺が最近日記を書けていない駄目なところだと思うんだけど、ここ数ヶ月その兆候はありました。兆候っていうのとはちょっと違うかな。
感じていたのはなんかこう、「次のステージにいかなければいけない」ということ。それはいまの仕事を離れるという話だけではなくて…。というのは(あーこんな事書いていいのかな)うちの会社、多分結構財務的にやばい状況で、何かを変えないと多分年度内に飛ぶなという予感があったんです。それがここ数ヶ月とても強くなっていた。そして商売柄、向こう3年とかのラインナップも見えてくるんだけどそれがやばい。貧弱すぎて売れる予感がちっともしない。もしここを切り抜けても、先が明るい気がまったくしない。
そういう状況で僕が考えていたのはまず会社の正確な状況を知ること、もっとドラスティックに新しい事を考えなければいけないということ、そしてなにかあった時に最大限、会社が持つ資産(主に有名な演奏家やオーケストラとの信頼関係だよね)を日本から失わせずに済む方法。
もともとこの会社はオーナー会社で、次代を継承できる人間がいないという大きな問題があって(大体この種の興行師で個人の名前じゃなく、会社を残せる人間なんてほとんどいないのが現実)、そういう意味では今もし耐えられても今の社長が辞める10年以内には必ず大きな波乱が起こるだろう、という予感があった。
だからもし今の心配が杞憂だったとしても、有事のシュミレーションをしておくことは(残念ながら)先々絶対に生きると思っていた。
しかし結果からすれば自分を取り巻く状況に対する認識が甘かった、という事なのかもしれません。元々僕はマネージメントをやらないという会社の主流ではない人間でした。自分で会社での仕事を聞かれると「雑用」と答えるような、わりと「みんなが出来ないことのスキルを持っているから許される」という不安定っちゃ不安定な立場で、あまり直接的に会社の収益に貢献していないという意味では確かに誰を切るか、という話になるとターゲットになりやすい立場ではあったのです。で、今回めでたくと。
僕がいた3年くらいの中で切られた人は大体明らかな大失敗をやらかしていたのと、去年何千万か赤字ぶっこいた人間がまだ社内に居たりはしたので「そいつが切られない内はまあ」という甘い気持ちがあったことは否めません。また、今年はめちゃくちゃ外国からオーケストラが来る年なので、いろいろあって英語要員が減っている中で一応喋れる僕は駒として残すだろうという読みがあったこともあります。元々そういう使われ方だし。
ただ、会社の経営なのか僕に対する評価なのかはわかりませんが、それ以上のものであったという事なのでしょう。そういう意味では読み負けたんでしょうね。昨日呼び出され「ごめん」って話になりました。
そんな背景もあり、呼び出されてそういう事を告げられた時も「どこで読み違えたか」「次どうするか」という事が頭の中をぐるぐるはしたものの、思ったより動揺はしませんでした。出来るだけ長い間給料もらえるようそういう小芝居はしましたけどね。今も、実質的な解雇の割には動揺も落胆もありません。少なくとも自覚的には強がりではなく、むしろ複雑に会社の行き先を心配しなくていいという面では楽になったかも、というくらいです。だって会社解散時の知的財産の行方とかさー、専門外だし(ちょっと調べてて面白かったけど)。
ただ社長が解雇は一ヶ月前に予告する必要がある(厳密には罰金払えば問題ないようだけど)というのを素で知らないような発言をしてたのはびっくりしたなー、というか動揺しましたよー。多分今まで誰も騒がなかったから知らないままなだけと思うんだけど、それにしたってこれって常識だよねえ。要するに「いつまで雇ってもらえます?」って訊いたら「まあ僕も鬼じゃないから明日とは言わないよ、4月末とか?」って素で言うわけですよードヤ顔で。もう4月でんがなっていうね。悪意がなさそうなだけにイタい。
ま、とりあえずそんなわけで次を探さなければいけません。ありがたいことに頼めば紹介してくれそうな人は結構いるんですが、なんか「自分がどうしたいか」という点がまだ全然で、そこは不安です。音楽業界内で移る気はあまりないし、かといってPRに戻る気もない。お金で短期的な視野の仕事はしたくない(っていう風に書くと当たり前すぎやな)し。思い切って数年来の計画通り中国に移住しちゃうか、って決断するのは簡単なんだけど、場所を移すことは「何をするか」という事の一軒解決になっているようでいて、全然なってないのよね。なんとなくインパクトがあるから自分でもそれを解決と錯覚しそうで怖い。
どうするかなー。なんかもっとエンタメぐいぐいな方向に行く、というのもちょっと考えてはいて、アジア方面に日本人タレントとか売り込んでる会社とかってのも面白いかな?と思ったりはしています。一方で、まともなビジネスの世界に戻ってもっと大きな仕事をしたいな、という気もしています。気、というかそっちのほうが向いてるんじゃないの?という。
今回のような事態になっていろいろ反省するべきところはあるんだけど、その中でひとつ足りないなと思ったのが、ちゃんと最初から最後まで自分でやりぬく力。これはツメがあまいという話にも聞こえるけど、それよりは気付かないうちに「大会社っぽい働き方」になっちゃってたんだろうな、という気がするのが言いたいことです。自分はミドルに居て、後ろから来た情報に足したり引いたり編集してフロントに投げる、みたいな。別に前の会社が大きかったとは思わないんだけど、それにしたって小さくはなかったしチームで動いてたからそういうのでもやっていける面があったんだと思う。そっちのほうが責任を回避できるし、楽だもんね。そういう中で弛緩しちゃってた部分はあったかなと反省しています。
さてー。ま、こういうところに書くことで、少し自分の頭が整理されるかなとも思って誰かに告げる前に書いてみました(あ、一応何人かには言ったけどね)。ちょっと整理されたかな。どうかな。
幸福を感じるためには秘儀が必要? /珍しい仕事
2013年2月17日 考え事 以前からちょいちょい書いている幸せの話。
僕は幸せになりたいと思っている。誰でもなりたいかなりたくないかで言えば絶対になりたいんだけど、そういう意味じゃなく、もっと意識の表層にそういう事がある。ただ、金を稼ぐことと違って、幸せになるためにどうすればいいかというのはとても難しい。「何を達成すればいいのか」がわからなければ、それに向けてどう努力すればいいのかわからない。
だから「幸せになりたいな」と考えている時間というのは実は「何が起こったら幸せと感じるか」について考えている時間なのだ。
ベトナムで得た新たなキーワードのひとつが、「幸せと不幸せは一直線上にない」ということ。なんとなく幸せの反対は不幸だと思ってしまいがちだけど、この二つは実はまったく別の要因で、不幸を解消する要素がいくら増えたところで幸せにはならないということ。
不幸を解消する要素とは例えば健康だとか、仕事場の環境だとかそういったもの。あるサイトでは「デパートのトイレが汚かったら行く気が失せるが、きれいだからといってデパートに行く理由にはならない」という例を出していた。これ、わかりやすい。
この元ネタは産業心理学なのかな、ハーズバークという人の二要因理論の中で「衛生要因」として説明されているらしい。
困ったことに、ぱっと思いつく「幸せになる方法」が、この話を聞いた後に考えてみると大体衛生要因だってこと。金、仕事、人間関係。いずれもなかったら確実に不幸だけど、かといって沢山あったからそれだけ幸せになるものでもない(し、これは別の議論だろうけど副作用もある)。
話を戻す。前にも書いたように、幸せは相対的なものだと思う(だからこそ明確に定義しにくいわけで)。周囲の誰か、過去の自分、なんでもいいけどそういった比較対象と比べての幸せであるように思う。またもしかしたら以前ちょっと書いたように(http://42583.diarynote.jp/201206170302395670/)、幸福という状態は存在せず、「自分が幸福であると信じている状態」だけがあるのかもしれない。まず「確信」があり、だからこそ物事の判断に迷わず、確信があるからその判断の結果訪れる結果をポジティブに受け止められる。
その確信を自分の中で育てるためにはどうすればいいかなー?とぼんやり考えていたときに、「秘儀」ってのが出てきたのね。かたちとしては新興宗教論とか、あとチャルディーニの影響力の武器で出てくる「組織の結束を強くするためには」みたいな話で、簡単に書くなら色んな国では組織に入るときに特有の結構つらい儀式(痛みに耐えるとか)を課していて、それを通り抜けたからこそ「優れた組織の一員だ」というような連帯感を持てるらしいんです。
ちょっと脱線するとそれと外見(服装とか刺青とか)や内面(食事制限とか)、行動(決まった時刻にお祈りとかお布施とか)を組みあわる事で信者自身に自分と他者の違いを自覚させ、また多少嫌なことがあっても戻れないという気持ちにさせるのがいやな宗教のやり方ですね。あとは家族とか人間関係崩壊させればなおよし。
まあ今日の話題は新興宗教じゃないから幸せに話を戻すと、秘儀、もっと簡単な言葉を使うなら何らかの運命的っぽい偶然とか苦難の克服とか、そういったことがあるともしかしたら「俺いま幸せだな~」って思える確率があがるのかな?と思ったのでした、という話です。かといってそれを人為的に作り出すって大変そうだけど…。
今年の目標に一個追加。珍しい仕事の人に会う。これむかーし、確か10代のある年の目標だったんだけど、今年はこれを復活させてみようと思いました。なんか人生暇つぶしっぽいけど…。
ちなみに最近会った珍しい職業の人…を考えていたんだけど、あんまりいないのよね。新聞記者は意外と珍しいとは思うんだけど、歌手、詐欺師(これは普通に暮らしてたら会わないよな)、作家、超高級不動産屋…多分そんなもん。仕事関係であった人除くね。
代理店やってれば会いそうなクリエイターみたいなのにはあんまり興味なくて(TV関係とか映画とか)、やくざ…は本物にあったら怖そうだから嫌だけど、なんか物語の中にいそうな人と会えないかな~?とりあえず周囲に自分の目標を吹聴しまくってみようと思います。
僕は幸せになりたいと思っている。誰でもなりたいかなりたくないかで言えば絶対になりたいんだけど、そういう意味じゃなく、もっと意識の表層にそういう事がある。ただ、金を稼ぐことと違って、幸せになるためにどうすればいいかというのはとても難しい。「何を達成すればいいのか」がわからなければ、それに向けてどう努力すればいいのかわからない。
だから「幸せになりたいな」と考えている時間というのは実は「何が起こったら幸せと感じるか」について考えている時間なのだ。
ベトナムで得た新たなキーワードのひとつが、「幸せと不幸せは一直線上にない」ということ。なんとなく幸せの反対は不幸だと思ってしまいがちだけど、この二つは実はまったく別の要因で、不幸を解消する要素がいくら増えたところで幸せにはならないということ。
不幸を解消する要素とは例えば健康だとか、仕事場の環境だとかそういったもの。あるサイトでは「デパートのトイレが汚かったら行く気が失せるが、きれいだからといってデパートに行く理由にはならない」という例を出していた。これ、わかりやすい。
この元ネタは産業心理学なのかな、ハーズバークという人の二要因理論の中で「衛生要因」として説明されているらしい。
困ったことに、ぱっと思いつく「幸せになる方法」が、この話を聞いた後に考えてみると大体衛生要因だってこと。金、仕事、人間関係。いずれもなかったら確実に不幸だけど、かといって沢山あったからそれだけ幸せになるものでもない(し、これは別の議論だろうけど副作用もある)。
話を戻す。前にも書いたように、幸せは相対的なものだと思う(だからこそ明確に定義しにくいわけで)。周囲の誰か、過去の自分、なんでもいいけどそういった比較対象と比べての幸せであるように思う。またもしかしたら以前ちょっと書いたように(http://42583.diarynote.jp/201206170302395670/)、幸福という状態は存在せず、「自分が幸福であると信じている状態」だけがあるのかもしれない。まず「確信」があり、だからこそ物事の判断に迷わず、確信があるからその判断の結果訪れる結果をポジティブに受け止められる。
その確信を自分の中で育てるためにはどうすればいいかなー?とぼんやり考えていたときに、「秘儀」ってのが出てきたのね。かたちとしては新興宗教論とか、あとチャルディーニの影響力の武器で出てくる「組織の結束を強くするためには」みたいな話で、簡単に書くなら色んな国では組織に入るときに特有の結構つらい儀式(痛みに耐えるとか)を課していて、それを通り抜けたからこそ「優れた組織の一員だ」というような連帯感を持てるらしいんです。
ちょっと脱線するとそれと外見(服装とか刺青とか)や内面(食事制限とか)、行動(決まった時刻にお祈りとかお布施とか)を組みあわる事で信者自身に自分と他者の違いを自覚させ、また多少嫌なことがあっても戻れないという気持ちにさせるのがいやな宗教のやり方ですね。あとは家族とか人間関係崩壊させればなおよし。
まあ今日の話題は新興宗教じゃないから幸せに話を戻すと、秘儀、もっと簡単な言葉を使うなら何らかの運命的っぽい偶然とか苦難の克服とか、そういったことがあるともしかしたら「俺いま幸せだな~」って思える確率があがるのかな?と思ったのでした、という話です。かといってそれを人為的に作り出すって大変そうだけど…。
今年の目標に一個追加。珍しい仕事の人に会う。これむかーし、確か10代のある年の目標だったんだけど、今年はこれを復活させてみようと思いました。なんか人生暇つぶしっぽいけど…。
ちなみに最近会った珍しい職業の人…を考えていたんだけど、あんまりいないのよね。新聞記者は意外と珍しいとは思うんだけど、歌手、詐欺師(これは普通に暮らしてたら会わないよな)、作家、超高級不動産屋…多分そんなもん。仕事関係であった人除くね。
代理店やってれば会いそうなクリエイターみたいなのにはあんまり興味なくて(TV関係とか映画とか)、やくざ…は本物にあったら怖そうだから嫌だけど、なんか物語の中にいそうな人と会えないかな~?とりあえず周囲に自分の目標を吹聴しまくってみようと思います。