今年どうしよう、というやつです。ま、具体的なことはおいおい書き込むとして、年末にイノベーション・オブ・ライフという本(あとでなんか書くかも)を読んでいて考えたことを書き留めておきます。本の中身とはあんまり関係ないです。


 今までを振り返ると、自分は目標を短期的なものと長期的なものに分けて考えていたと思う。長期的なゴールがこうだから短期的にはこうしようとか。別にそれが違っていた、とまではいわないんだけど、ちょっとこの表現だと不正確かなと思ったんです。この場合の長期短期というのは完全に「時間」を軸に考えていることになるけど、実はそうじゃなくてこれは視野というか射程というか、そういうものの長短なんですよね。だから時間的には長いことでも、短いほうに分類されることという事があったりする。

 例えば、といって簡単な例がぱっと思いつかないんだけど、改めて考えてみると僕の「中国行きたいな」は結構人生変える話だし準備も必要で時間も掛かるし一見長期的なもののようで、実は「それによって何かをしたい」というものではなく、そこがゴールになっている。中国行ったら暮らしやすいかも、とか新しい違う種類の仕事が出来るかも、とか会社にとってもいいことだよな、とかいろんな事はもちろん考えた上で望んでいるわけだからまったく「短期的」という言葉の響きのように安易に考えているつもりはないんだけど、でもとにかくその見方をしてみると、決して長期的な…つまり自分のなにか目標に向かっていくものから生まれたものではないことがわかるわけ。勿論、同じ決断が違う事を根拠に出てくることはあるわけで、あくまで現在の僕の話ね。

 そんな長期と短期を、自分なりにもっとわかりやすく自分も誤解しない言葉に置き換えようと考えた時に出てきたのが刺激と栄養だったんですよ。刺激が短期で栄養が長期ね。その言葉自体では全然対照してないけど、だからこそ(不幸と幸福の話じゃないけど)両立もできるのかなとか、まあそんなことも考えて。
 欲望の類、つまりおいしい物を食べたいとかかわいい子にモテたい、というのはすべからく「刺激」でしょう。ゴールであり、だからこそ達成されれば終わってしまう。RPGのお使いミッションみたいなもんだね。ゴールであるからには達成すると快感があったりするので、バカにしちゃいけないし退屈しないためにはこういう事も必要。…ってこういう表現だと必要悪というか「しゃあねえな」みたいな雰囲気になっちゃうけどそういうつもりじゃないのよ、大事だと思ってるよ。だってこれがなかったらひとつの道のために全てをささげる人みたいになっちゃう。危険だと思うのは、「これは刺激だ」と自覚すること。誤解しないことなんじゃないかと思います。


 栄養もまあ、もう文字のまんまだけど、いつか芽吹く何かのための栄養。美味しいものもあるだろうしまずいものもあるかもしれない。別にまずいから役に立つってわけでもなかったりするし、できるだけ刺激があって、さらに栄養にもなるものを探したほうがいいよね。

 そんなわけで、とりあえず今後の事を考える時にはそれが自分にとっての刺激なのか、栄養なのか、よく考えて動くようにしたいなと思った、という話。


と言うことで前振り超長いけど、2013年はどうするか、という話。
…の前に2012年だな。
- 出来るだけのスキルをつける
- 人と出会っておく

 というのは、どちらもボチボチ達成できたのではないかと思います(ぱちぱち)。中国語の資格も取れたわけだし、結構新しい人とも出会った。今年新しく出会って2回以上会った人って何人いるのかな…とても沢山いる気がする。人間は財産ですよね(しかしFive to Oneとかいって無駄遣いしない!を掲げていた年もあったのになあ…もちろん時間がたって環境が変われば色々あるんだけどさ)。


 で、その上で今年。
 年末色々考えていて(とても有意義でした)、まず自分のキャリアについては「元の業界に戻る」「今の業界で全力を尽くす」という二択しか正直頭になかったんだけれど、もうひとつあるじゃないですか。いやーなんで思いつかなかったのかね。「起業する」ってのが。
 うちの会社、表向きは副業禁止なんだけどやってる人いるし、「本業と抵触しなければOK」という言質を副社長から取ったので、いわゆる全力投球起業(必ず儲かる商材を見つけていない現状ではその気はまったくなし)じゃなくてサイドビジネス的に何かをやる、というのはOKだって事になったんですね。

 というような事を年末にようやく思いついたのでそれを具体化する、というのが年前半の目標。人に頼むのもそうだし、自分で考えるのもそう。とはいえ、僕はスペシャリストというよりはゼネラリストで「なんでも一人でできます」的な事が(どっちかというと、ね)ウリなほうなので、そういう人間がどうやって他と競争にならない(orなっても勝てる)ビジネスを構築するか、というのは考えなきゃなーと思います。とりあえず一個ウェブサービスのアイディアがあるんだけど、プログラミングできないからなあ…。翻訳とかだったらすぐにでもできるけど周りにいくらでも本当のプロがいるし、僕の英語力は翻訳を必要とする人(外資にいる元同僚とか)からしたらまったく信用ないからなあ…日本語力には自信があるから英→日のきれいな翻訳とかはプロレベルでできると思ってはいるんだけど。

  あとは、本を読むこと。これも昨年から引き続いてインプットを増やそう、ということからつながるんだけど、とりあえずウェブで字を読むのではなくちゃんとした紙で、最低一週間に一冊、この際一度前読んだ本でもいいから読もう、と決めました。

 あ、中国語の教室にも通うよ。ようやく通うよ。予約しなきゃ。


 ま、今のところそんな感じ。今結構急いで書いてるから、あとでまた追加したりするかも。インプットをこれだけ増やすということは当然今までとは「時間割」を変えなければいけないわけで、そこをどうハンドルするかが差し迫っての課題かなあ…。それも意識的に変えないとね。

 あーあと仕事の面では

g-yokai.com/2013/01/2013.php
2013年広告業界予測   ~7つの出来事を予測する~

 なんかを見て思ったんだけど、よりデータベースオリエンテッドなマーケが「当然」になっていく世界があると思うのね(ちなみに上のエントリでまったく触れられていないけど、多分ソシャゲが今年辺りに大量死してその受け皿としてソシャゲ屋さんでぶんぶんPDCA回してた超データっ子たちがこういう広告業界のデータ屋さんになっていくんじゃないかなと思ってる。話を聞いたりブログ読んだりしてるだけだけど、本当に彼らは従来のゲーム屋とはまったく思考が違って分単位でアクセスみながらパラメータ調整したりとかしてるみたいだから)。
 だから勿論こんな派手にはできないまでも、何かあったらこうした所にも有る程度首を突っ込める程度には自分の領域でこの方面の経験を積んでおきたいなと。あと逆に自分にとって新しくもないし、金にもあんまりならないことはもしちょっと楽しくても、勇気を持って手を引こうと思っています。もちろんすごく楽しい仕事は金にならなくても(会社に損させても!)やるけどね。
2012: http://42583.diarynote.jp/201201090055264121/
2011: http://42583.diarynote.jp/201101050133112693/
2009: http://42583.diarynote.jp/200901041854024444/
2008: http://42583.diarynote.jp/200801010509390000/
2007: http://42583.diarynote.jp/200701040240470000/

 何度か書いているように、僕は他人から「べき」だ、と言われる事を結構強く嫌う傾向にある。「あなたはそれをするべき」という言葉は、相手なりの事情や考えがある事を認めず、自分の正しさのみを押し付けられると感じるから。また、そういった事を他人に要求する輩は大概、自分が押し付けているルールや考え方を心底理解しているわけでもなんでもなく、盲目的に従っているか、それが楽だからそうしているに過ぎないことが多い。逆に、たまに本当に納得した上で覚悟を決めている人がいて、そういう人は(お節介だなあと思うことはあるけど)尊敬する。

 でもそれでも、「そうあるべきだ」と思うことはたまにある。そのひとつが、仕事や研究などは全て自分が生きる上での哲学や思想、信念に回収されるべきだ、というものだ。ただ、「結果としてそうある/なる」なのか「そうする/なるよう働きかけるべき」なのかはまだよくわかっていない。自分が過去に行ってきた事を俯瞰してそこにある程度の整合性を見出すとき、それが結果論に過ぎない…つまり、自分が何か信念に従って何かを行っていた事とまったく関係なく蓄積された事実からひとつの「筋」が見えてきて、「ああおれはこれのために人生を費やしてきたのか」と納得するような事はこうやって書いてしまえば間抜けに響くけど、実際にはありそうな話じゃないですか。


 まあとにかく、僕はそんな事を考えていて、自分が新しい事を始めたしばらくあとには少し振り返って、その事柄が自分の信念のどこに組み込まれているのか、という事を考える瞬間を持つようにしている。まあ、そんなに意識的なものでもないので、「そういうことを考えながら振り返る事が多い」という方が正しいのかも。
 しかし書きながら思ったけど上の話を突き詰めれば、何かをはじめる時点でそれが自分の「道」に資するかどうかという事を考えたほうがいいと言う事になるのか…理屈の上ではそうなるけど、なんか物事を始めるって言うときはそういうちょっと後ろ向き(ネガティブという意味ではなく、非生産的という意味で)なことはなるべく考えないほうがいい気もするので、まあ今のままが良いのでしょう。あーっていうか「信念」とか「哲学」って言葉にすると大仰だよね、別にそこまでの話じゃないんだけどな~。

 なんでそんな事をわざわざ書く気になったかというと、今目の前に2つほど、ちょっと考えただけではその自分の「道」にはまらないものがあるから。というかそれ以前に今やっている仕事がその道にはまってないだろ、というツッコミが自分から入りっぱなしなのですが...でもまあ、これはいまの解釈では緊急避難的な「有給」であって深い意味はない…逆に言うと人生を無駄遣いしているということなので、そういうことなんですよ(どういうこっちゃ)。

 で話を戻すと、ひとつは中国。なんでそんなに頻繁に行ってるの?しごと?ばかなの?って相変わらず訊かれるし、客観的に言って確かにちょっと多すぎる気はするし自分でも理由がよくわからん。ただ中国も好きといえば好きだけど、結局上海が好きなだけな気もするのが微妙な所…上海って、平均的な中国とは随分違うからね(あんなでかい国の「平均」という表現がそもそも…というのは面倒なので考えないでください)。
 今本格的にあちらにトランスファーできないかを模索中だけど、どちらかというとこれは将来的な自分の売値を上げるキャリア構築的な意味合いが強くて、あちらでのビジネスに挑戦したい!というのはサブの理由にしか過ぎない。まあ定員が決まったビジネスなんて人口多いほうが絶対に有利だろ母数が多いんだから(最低でも不利になる理由が思いつかない…まあ競合がいる可能性があるっちゃあるか)、という気はするし、あちらはまだ成長の可能性が残されているという点で日本にいるよりは面白いという気は単純にするけどね。まーちょっと情勢が思ったより悪くなりすぎて自分にとっては向かい風ぴゅーぴゅーで困ってますが…。こういう事のタイミングってなかなか自分では動かせなくて、「その時」に材料がそろってないとなんともなんだよね…歯がゆい。前職辞める時、上海へのオファーがあったんだけどそれで行っておけばよかったかな?とかも時々考えるけど、あの時点では中国全然興味なかったし、第一過ぎた事を考えてもしかたないですよね。


 もうひとつは、ナショナリズム。こちらは中国の話と違って何か多分自分にも見えていない道筋があって後々合流する気はするんだけど、今のところなんでこんなものに興味を持ったのかよくわからない。今年の3月に「ナショナリズムの名著50」について書いたけど(http://42583.diarynote.jp/201203240137242747/ )、この辺りからなのかな、流れは。
 今、最近知り合った朝鮮族の中国人に教えてもらった中国の少数民族政策についての本を読んでいるんだけど、これはナショナリズムとは自分の中で関連付けていなかったけど結局少数民族の統治ってnation in nationみたいな話(でいいのか?)で、思いっきりナショナリズムなわけです。あ、日本語の本ね。考えてみれば当たり前の話ナショナリズムにとっては「国家に対する誇り」ではなく「民族に対する誇り」というのも大きいわけで。
 その朝鮮族の人は日本でそういう研究をしていた人(検索するとこれだけの材料でも個人名出てくるんじゃないかなあと思えるくらいニッチな分野ですよね)で、日本語で自分の民族を事例にした論文を書いてるっぽい。アブストらしきものがネットで読める。話がちょっと逸れるというか最初に戻るけど、これなんてまさに自分の背景と研究が溶け合っている例だと思うんだよね。必然性といっていいのかわからないけど。「つながっている」感じ。
 で、翻って僕は特にエスニックアイデンティティを自覚する、させられるような環境には生きていない。自民族に対する周辺からのプレッシャーを感じているわけでもない。なのになぜこんなことに興味を持つのか、自分でも若干イミフ。でも楽しみでもある。自分の路線、人のこころについてとかそういった事にこの問題がどう介入してきて、自分の考え方を変えてくれるんでしょうね。


 ああ蛇足というか本論とは関係ないかもしれないし、もしかしたら読み終われば最後のほうに出てくるかもしれないけど、今の所その少数民族政策研究本では通常民族の定義としてよく出てくる「宗教」の要素がほぼ無視されているように感じる。無視というか重要視されていないというほうが正しいかな。逆に回族というイスラムの民族が地理的・血統的に拡散していたり特有の言語を持たないなど共通の要素が薄いよねーと言った事を書いたりしている(非イスラムなのに回族、という人が増えているのでという事も書いてあるけどね)。勿論これは社会主義国中国という、宗教一般にとって極端に不利な土壌が故だとは思うけど…なんか興味深いなと思いました。
 とかってまたかっこいい書き出しで書いてみますが、いつものように半分寝ながらの日記です。

 最近転職が頭をよぎる時に決まって思うのは、「10年後に自分がどうなっていたいか」ということ。多分時間軸がやたら長いのは、ひとつには今の仕事内容にあまり不満がないということがあるんだと思う。そこに気を払わなくていいといえばそうだし、これ以上仕事が面白くて楽、なんてそうそうないと思うから。いやそりゃ全然休みが取れなかったりとかそう言う事はあったりするけど、自分のペースでやれている事が多いからたまにそう言う事あってもそこまではイヤだと思わないのよ(その最中は勿論不満たらたらですけどね)...体調とかがついてこないのはま、しょうがないとして。

 しょっぱなから話がそれた。とにかくそんな長い時間軸で考える。それは、多分30代に入ったらそうそう非連続的な転職は無理だろうしその最後のチャンスが今回かな、と思っているからということもあるとおもう。同じ業界内で考えてたら手元の仕事もその先に見えるものもそんな大きなぶれはないだろうしね。
 で、その長い時間軸で考えた時のいまの仕事の不満というのが、先が見えないって事なのよね。普通の会社のように最初は駒としてすら使ってもらえなくてひたすら議事録とって数年経ってようやく前線にでて、しばらくしてチームをまとめるようになってさらに10年くらいすると部門長になって...みたいな社内(まあ業界内でもいいや)キャリアパスが見えない。あ、勿論こんなキャリアを辿れる人はそんなにいないのは承知として、でも理想系が見えてるかそうでないかって結構ちがうと思う…。うちの会社なんて別に10年キャリアがあっても仕事変わらないのよね。よく言えば組織がフラットで望めばかなりのことができる、というのは裏返すと面白い仕事をするのに順番待ちをする必要がないと言う事でしょ。
 で、じゃあ自分が10年後も似たようなうさんくさいというか短期的な視野の仕事をしてるかと思うと若干うんざりするんですよね...いや、悪くないんだけど同じ仕事してたら給料もかわらんだろうし、いい加減惨めだろうなと。

 でもよく考えてみると、自分の周りで10年後にいまよりちゃんと確実に大きな仕事してるだろうな、って人は日系大手にはいった奴ばっかりで、数というか比率もあまり多くないんだろうなと思い至ったんです。専門職っていうとかっこいいけどそれって同じ事を延々とやり続けるってことだしさ。なら、そんな事気にしてもしょうがないのかな、という多数派っぽいものに抱かれて安心感を感じてしまっている今日この頃。

 
ところで「進歩史観」についてはWikipediaとはてなキーワードが同じ言葉を側面から紹介していて興味深い。というか、はてなで言っているこの意味はWikipediaのものから派生したものだよね...とはいえ、普通はこうした場合比重の違いはあれど両方の意味を書くものだと思うけど。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B2%E6%AD%A9%E5%8F%B2%E8%A6%B3
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%CA%CA%E2%BB%CB%B4%D1
 社会科学において一番悩ましいのは(などとケンキューシャっぽい書き出しだけど)、パラメータを制御できない事であると思う。与える環境を制御できる実験室での実験が難しく、実社会での観察やら何やらがメインになると、「何が結果に影響しているのかわからない」という事が起こる。チケットが売れたのは、天気のせいか、場所のせいか、演目のせいか、はたまた出演者のせいなのだろうか? また、どうしても派手な現象の与える影響が大きい気になってしまうけど、実際は小さくて気付かないようなものが結果に大きな影響を与えていたりする。
 だから何が本当に結果にインパクトがあるのかを知るためには、可能な限りパラメータの少ないと思われる環境で実験を行い、また仮説を立てた上でパラメータをひとつだけ変えてみて、結果の差を見たりする。
 あとは泥臭いけど考えられる全てのパラメータをぶちこんで一個一個しらみつぶしにしていく、というのもPCの性能が高くなってきた今、結構現実的な手法ではある。小さい要素が大きな影響を与える事は否定はできないものの、やはり大きく目立つ要素が大きな影響を与える可能性の方が高いのは確かなわけで、ほかにどうにも方法がなければ、やってみる価値はある。

 そんな長い前置きを踏まえたうえで。 最近、ソーシャルゲームに興味がある。といっても当然ゲームとして興味があるわけではなく、その構造に。

http://gamez.itmedia.co.jp/games/articles/1012/21/news002.html
野島美保の“仮想世界”のビジネスデザイン:ユーザーがお金を払いやすくなる仕掛け――アイテム課金が優れている理由

 随分前の文章で、発表されたときも多分流し読みしたような記憶があるんだけど、残念ながらその時はあまりピンとこなかった。 でも改めて読み直して、「そもそもの使用価値がない」というソーシャルゲームのアイテムというのは実物ではあまり有り得ない性質を持っていて、これはもしかしたら僕のテーマを考える上で非常に便利なのではないか?と思ったのね。
 
 時々書くように、僕は「幸せ」という状態を作るにはどうしたらいいか、と言う事にとても関心がある。「幸せになる」と書かないのは、自分が幸せになる事と、他人を幸せにする(他人に「今自分は幸せ」と感じさせる)の両方に興味があるから。というかそこにそんなに差はないような気がするから。
 お金を含むほとんどのモノは、もっていない事で不幸を味わう感じる事はあっても、沢山持っていたからといって幸せを約束してくれるものではない、と思う。金を例に取れば、それがたくさんあると選択肢が増えるのは事実。家を買ったり、いい車に乗ったり。でもきっと(持ってないからしらないけど)わずらわしい事も沢山増えるような気がする。そもそも選択肢が増える事ということは「選択されないけれど魅力的な選択肢」を常に諦めながら進んでいかなければいけないということだとすると、やっぱり無条件にいいものとは思えない。
 この辺は最近どっかで書いた気がする(そして結構頻繁に例としてあげる気がする)「圧政下でのクーデターは威圧的な統治が和らいだ時に起きやすい」という話とつながっている気がする。完全にクソミソにやられている時は生きる事に必死で反抗する事なんてかんがえられない(というわけじゃないか…まあ立ち上がる気力がわかない)けど、希望が見えてくると立ち上がってしまう。まあその結果勝てればいいんだけど。あ、でもこの例自体は交絡のような気もしてます。反抗勢力の勢いが増してきたから圧政の手を緩めなければいけない、とかそういう別の隠れたトリガーがある、という、ね。

 まあそれはいいんだけど、とにかく「たくさんの選択肢から選ぶ権利」というのは一般的なイメージに反して、必ずしも幸せに直結しないと言う事をいいたいのね。
 逆に、選択肢がない、というのはその選択肢が悪いものでないのであれば、楽な生き方にも思える。選択肢がないのだから自分の意思が介入する余地はなく、自分の選択でないのだから結果が悪くても他人なり運なりを恨めば良い(恨んだ所で状況が好転するか、という話はおいとくとして…)。
 というかほとんどの選択というのはあとからの解釈でどうにでも結末を読みかえることができてしまう。宗教において自分に降りかかる不幸を「神からの試練」とか言っちゃうアレだ。そういった所からすると結局ひとつの価値観に基づいて結果を解釈してしまうのだから実際の選択肢である「右と左のどっちを選ぶか」は実はあんまり関係ないのかもしれない。

 
 話が多少ずれた気がする。話を戻すと、幸せというのは「何を選ぶか」ではなく「何に基づいて選ぶか」がはっきりしている事、つまり揺るぎのない価値観(判断基準)を持っていることであると僕は思っている。なんかトートロジーっぽいけど「自分はラッキーで恵まれていて、幸せである」と信じられる価値観を持つことが、幸せなんだと思う。

 では、自分が幸せであると信じるためにはどうすればよいのか?それには幸せに関する、もうひとつの側面というか要素が必要だと思う。それは「他人との比較」。僕も含めて人間は意地汚いものだから、結局自分への評価は周囲と比べて行う。幸せなんて特に形がないものだし。それとも優越感っていっちゃってもいいのか。自分より恵まれていない誰かを憐れみ、そこで自分が恵まれている事を再認識する、みたいな…うーん言葉にすると最悪っぽいな、でもそんなもんじゃない?全てがそうではないかもしれないけど、要素としては絶対に大きなものと思う。

 そして自分が他人より恵まれている事を自分に対して示す上で一番わかりやすいのは、視覚的な違いじゃないかな。背が高いとか耳たぶが大きいとかそういう身体的特徴だって自分で根拠さえ作れるなら自信の元になるけど、まあそれはなかなか難しいと思う(上のお金の例と同じく、足りない…例えば背が低いとか耳が聞こえないとかは不幸を強く感じる原因にはなりうるけどね)。
 これも極端な例かもしれないけど、キリスト教の信者にスティグマ(聖痕…キリストがはりつけになった時に杭を打たれた所にあざができたりするやつ)っぽいあざを持ってる人がいたとするなら、それは「もしかして俺選ばれちゃってるかも」と思う根拠になる。身体的な特徴に偏りたくないのでモノに話を戻してもいい。上のほうで「モノを持っている事は必ずしも幸せになることを意味しない」と書いておいてなんだけど、他人と違うモノを持っているというのはやっぱり幸せの一部を形作ると思う。それはモノの量ではなく、質の問題(だから上の話とは矛盾しない、といいたいんです)。例えば誰か好きな芸能人のサイン色紙とか、そういったもの。モノとしての価値ではなく、あくまでも精神的な意味合いとして、そういう目で見れるモノを持っていることが、幸せを形作る大きな要素のひとつではないかと思っている。


 ようやく話を収める方向にいくんだけど、ソーシャルゲームにおける課金アイテムってそもそもデジタルデータだからモノとしての価値はゼロ。そのくせゲーム内の貨幣ならともかく、他にいくらでも「有意義」な使い道がある現金を遣ってでも欲しくなったりする人がいるくらい、価値を感じている人が結構いる。AKBの投票権つきCDでもいいんだけどあれには一応CDとしての価値というのもあるし、曲としての価値に加えてモノなんだからフリスビーして遊んだり、まあモノとしての価値だってある。それが価格と釣り合っているかは勿論別の話として…。だから、この価値ゼロのものを考えていく事によってもしかしたら心の中での価値の生成プロセスみたいなものができるんじゃないかなと思うのです…まだ考えられてないけどね。


 ずれ。
 最近時々ご飯する相手の話。この人とは話は結構あうんだけど、感覚が全くあわない。最近この話を会う人会う人にしているけど、その一番が食欲。その人は食も細いんだけど、とにかく食べることにまったく興味がなさそう。何食べても美味しいって言ってる記憶がない。別にまずという顔をするわけじゃなく、単に興味がないのね。今まで僕の周りにいた人でそういう人がいなかったんで新鮮…っていうのはなんか表現がねー、よくないとおもうんだけど。皮肉じゃなくて。
 あと、その人は(すんごい細かいけど)、毎回ナイフを逆に置く。向かい合ってるとしたら、僕のほうに刃をむけるのね。これって右手にフォーク、左手にナイフで食べるのと同じくらいマナーとしては有り得ないと思いつつ、でもホント俺細かいな、と思う。というか自分にとってそんなことが気になるなんて、今まで知らなかった(いや、正確には去年一回あったけど…多分その時も書いた)。
 んで懲りずにこないだご飯を食べている時に、僕の友達に占める女子の比率の話から、寝るってどう言う事なのかね、みたいな話に(よく覚えてないけどありがちな「男女の友情はあるのか」みたいな話から流れたんだと思う)。僕はあまりセックスを「いつでもしたい楽しいもの」と思っていないので、逆にお互い気分が乗れば付き合ってるとかじゃなくたってすればいいんじゃないそういう気分の時もあるし、とかっていうわりと投げやりな事を言った所、彼女は「へー、道化さんってすごい自信あるんですね!」って言ったんですね。自分はコンプレックスが強いからよっぽど信頼できる相手じゃないと無理だと。なんつー話をそれこそ付き合ってもいない相手としてるんだ、という話は置いておくとしてなんかそれ聞いてダメだわと思ったんですわ。つうかセックスに自信あるって何?相手を篭絡するテクニック?寝ただけで惚れ直してくれたりすんの?俺下手だからそういう経験ないだけ?
 …つう話も置いておくとしよう。いやその時どうしようもない気分になったのは正直自分でもなんでだかうまく説明できない(というかよくわかってないのかも)んだけど、お前その年で夢見てんのか、って思った…のかなあ…。よっぽどその場で「んじゃ今晩試してみる?」みたいな流れにもっていこうかと思いましたよ。いや、実際はその台詞聞いた瞬間帰りたくなったんですけど。
 
 なんつーのかなー、まあ三大欲求の内の食欲と性欲の感覚があわなきゃ、もう他の何が合致したって無理じゃねえ?って話ですよね。せっかく話があう相手にたまに好意を向けられてもここまでダメだともうどうにもこうにもできないんじゃないかと思うのです。
 ああ別に書く必要もない気がするけど、そもそもセックスをする回数以上に、それについてベッドの外で話をするという経験が自分に薄いのかもなあ…。あなたとはまだ寝る関係でもないのになんでそんな話するんだという引きかたを、もしかしたらしたのかもしれません。

 ぐったりピーク。

 なんだかなんとか価値経済とかっていう言葉がはやっているような事を一ヶ月くらい前に来て、でもなんも書けなかったのです。色々批判もされてるようでぼくも違和感があるんだけど、そういう事じゃなくてこれってなんか前ここにも書いたかもしれないけど問題解決の仕方、ってのに似てるのかなあと思った、という話。

 その心は、って別に難しい話じゃなくて、価値の交換を何によっておこなうか、という話。あれ、ちょっと難しいな。別に難しくないんだけどな。簡単な例をあげると、前の会社と今の会社で問題を解決するときのアプローチが違うのね。すんごく乱暴に言うと、前の会社は金で解決し、今の会社は人脈で解決する。金というのは誰が使っても金だから有り得さえすれば強く、でも人脈はそういうわけにはいかない。必ず人にくっつくものだし。

 それと根が同じなのかわからないけど、起業家の人ってわりとネットワーキングが好きな人が多くて、仲間内で仕事をコロコロしている場合も多い気がする。お互い様で力を借りるときに金は払わないけど、逆に何か頼まれれば仕方ないけど安くやってあげたりする。

 こういうのが評価価値かどうかというと違うんだろうけど、貨幣経済とは少なくとも違う気がする。というか本来はそういう人脈とか自分の手が届く範囲の材料で解決ができないものを解決する代償を払うために貨幣が出来たわけなんだろうけどさ。

 社会的な地位の高低、っていうわけじゃないんだろうけどなんなんだろうねー。金と違って人脈はムラが激しいというか効果があるかないかがその場になってみないとわからないわけで、やっぱり安定したリターンがある金のほうが使いやすい、ってことになるのかなあ…うーむー。

 何が書きたいかよくわからん?僕も。

多面的な人

2012年3月29日 考え事
 昨日の話のおまけ、ていうかそもそもはこれが書きたかったの、ってのを今更思い出したので。

 僕の印象として時々言われる事のひとつに(すっきりした言葉にならないんだけど)「ここだけじゃない人」みたいなのがある。「今は自分と共通の話題で盛り上がってるけど、この人は本来この話題がメインの人じゃない。つきあってくれてるだけ」って書けばもう少し正確なのかな?僕と話しているとそんなプレッシャー?を感じるみたいなのよね。それは「話題の幅が広い人ですね」というのとはちょっとちがったニュアンスで。んでまったく同じ事を偽名ちゃんに言われて、あーっとおもったんですよね、面と向かって言われたのは久しぶりだったけど、でも時々言われる事だったから。
 こちらとしてはもちろんその瞬間瞬間が楽しくてその人と共通の話題で盛り上がってるつもりのに、そうやって知らず受け手に負担をかけてるって嫌だなと思うんです。ちなみに偽名ちゃんは「私とはしないけどTwitterでは政治とか経済とかの話をよく書いてる」みたいなところからこの話題に入ってきて、まー確かにそれはそうなんだけどね。

 「ここじゃない感」「溶け込めてない感じ」ってのはそういった話題とかの話以外のところでもあって、例えば今の業界・会社での立ち位置だってそう。まあこの場合はちょっと意識的にやってる部分もあるにせよ、やっぱり「どこでもエトランゼ」なのよ。特別でいたいからとか、コミットすることで発生する色々なレッテル(良いことも、悪いことも両面)を引き受けたくないとか、かっこわるい状態になるのが嫌だからというのも否定はしないしそれぞれに事実を含んでいるんだけど、それは物語のすべてではない。疎外感、って言っちゃうとなんか孤独を感じてるみたいで100%その通りではないんだけど、なんなんでしょうねえ。

 その話は偽名ちゃんに「で、その被害者としてどう思うんですか」みたいな感じで相談してみたりはしたけど彼女に言わせれば「別にそれは道化さんが悪いんじゃなくてそれぞれ自分のコンプレックスが刺激されてるだけだから、逆に言えば道化さんがなにかして収まるものでもないのでは」みたいな事らしく。
 うーむ。彼女はでも、実際の僕とTwitterの僕という2つのペルソナを見ているのでまあその二つの距離があって違和感が、ってのはわからなくもないんだけど、他の場合は大体どこかのコミュニティの僕、しか知らないわけだから音楽に興味のない人に音楽の話はしないし、広告に興味のない人には広告の話なんかしない。誰だってそんなもんだと思うんだけど、なんで僕だけ「この人にはきっと別のせかいが」なんて話になるんだ??

 あと自分では確かに興味の幅は広いけど結局浅いしキーワード拾ってるだけだな、って思うことが時々あって、まーインプットの総量なんてそんなにあがるものではないししょうがないんだろうけど、でもちょっと悔しいこともある。逆に仕事とか社交、って意味ではキーワードだけ適当にまけば相手がそれを得意になって教えてくれるし「わたしも同じ興味を持っている人なんです、でも初心者なんでどうか教えてください」ってポーズには十分なキーワードを持っていることが多いからそれは態度として効率的な場合もあるんだけどね。

 でもなんだろ、この悪く言うと中途半端感ってのは何も人間関係だけではなくて、例えば自分の持つスキルセット(わりとなんでも出来るけど深い専門性がない)とかも似たような傾向がある気がして、やっぱなんらかの共通の根っこがあるんだろうなーとは思います。突き詰めると自分に関してもう少し面白いことがわかったりするかもね…いまは触れませんが。
 数字が読めて英語がしゃべれて絵がかけてデザインができて、現場仕切って動画編集できてPCなおせて、ってそりゃ全部高いレベルで出来るわけがないし、ならばそれぞれで足りないものがあるはず。必要ない部分だけうまく肉抜きできてればそりゃ美しいけど、そんな世の中甘くないでしょ。

 そんなお悩みでした。

「べき」

2012年3月20日 考え事
 「~すべき」という言葉が、あまり好きではない。そういう、かっこよく言えば信念みたいなことを自分の中で持っている事は悪いとは思わないし寧ろ歓迎すべきことかもしれないとさえ思うのだけれど、それは言葉にするものでも、他人に伝える事でもないと思っている。それが得だからしたほうがよい、それが損だからしないほうがよい、そんな事はあると思う。僕が否定したいのはそういった忠告についてではなく、しばしば他人の行動や言葉を否定するために使われる「べき」のこと。「べき」は自己にのみ向かう「べき」である、というのも一つの自分の「べき」であり、自分の意見に従うならこうした所でさえ表出されてよいものではないのかもしれないけれども。


 そんな事を考えながらも、いま自覚している「べき」について書きたいと思った。「自分がどう生きたいかというものに資する仕事に就くべきである」ということ。 「リュート奏者は生涯の半分を狂ったチューニングでの演奏に、残り半分をチューニングに費やす」というような冗談があった気がするんだけど「生きる金を稼ぐために仕事をする」というよく聞くセリフは僕にはそれと限りなく似通って響く。

 この「べき」も、他の大多数の「べき」と同じ性質、つまり現状その通りになっていない事の裏返しであるということはなるほどそうかもしれない。今僕はそういう仕事をしていない。ただ不思議といえばいいのか、もしかしたら面白いという表現のほうが当たっているかもしれないけど、今の仕事をつまらないとは思わない。今の業界ではおそらく最高のメンバーとチームを組んでいるし、その内容も(この業界にしては)規模が大きい。それに僕の今のポジションはとてもあいまいで、そのお陰でずる賢くも色々な義務から逃げ回ってもいる。そんなあいまいなポジションは競合他社にはない。誰も僕が何をやっているのか全体像を知らないから、理屈で文句をいえない。そしてそれなりに人当たりもいいし頼まれた僕にしか出来ない仕事はこなすから、さらに波風は立ちにくい(僕はわりと人に嫌われる事が多い…というと切ないな、気に入られるか気に食わないと思われるかがはっきりしてる、と書けば良いのか?…から、今は意外と成功している、という風に言えるのかもしれない)。

 しかし同時に、この道はどこにも通じていないとも感じている。給料が安いだとか周囲があまりにアマチュアで能力が低くて、とかそういった不満よりもっと深刻な、このビジネスが自分の人生の目的に適っているか?ということが最近身に迫ってきている。
 そもそも転職した時からそのこと自体はわかっていた。あの頃は(という言葉で過去の自分を表現する事には抵抗があるけど)とても疲れていたしとにかく逃げたくて、唯一与えられた行く先としては今の仕事は最高だった。自分が思い描いていたその「道」からはどうせ前の仕事を続けていたところで外れてしまっていたのはわかっていたわけだし、自分は周囲より優位にいて、プレッシャーをかけられることもほとんどない。端的に楽だ。
 そして、周囲も僕の事を永住希望者としてはおそらく見ていない、というかたまにそういう事を直接言われる。僕も別にそれを隠さない。でもちゃんと求められた能力の提供は行う。僕はそんな中でま、ある種守ってもらって疲れを癒している…というとあまりに話がきれいすぎるのかな。でもそんな実感。

 で、傷も癒え、年齢も節目を迎えようとしていて、金もない。はっきり言って飽きてきた。色々な要因から「そろそろかな」と思い始めたわけです。先日戦略コンサルに応募したと書いたけど、それも同じ流れ。家も出たいしねえ。かといって今すぐ、という切迫感があるものでないしそもそも考えてすぐにわかる事柄ではないのだけれど、ぼんやりと考える「道」を仕事(業種なのか会社なのか)に落とした上で、手は打っていきたいなあと思ったりするわけです。

 ってなんか書いてみるとこれ同じような内容を最近書いた気もするー眠いし恥ずかしいからチェックしないけど。


[とても眠い]
 12月になってしまいました。そろそろ恒例の一年分日記読み返しの時期…だけど今年はほとんど週一回しか書いてない(とはいえ自分で言うのもなんだけど続いているだけ随分マシ、だって更新のペースが落ちるとそのまま死ぬブログ多いもんね)からぱっと読み終われるだろうなー。

 あそうそう、書いてない気がするけどベースのライブが終わりました。2マンだったんだけど対バンがゲロうま超かっこよくてなんか悲しいというかなんというか、リハ始まった瞬間に凍りました。しかもよりにもよってベースが特に上手い。というか楽器がアトランシア製(高いよ)ってところで既に勝負が見えてるというか本気やなあんた…という感じで。まあフォデラに比べりゃ安いんでしょうが…まあそれでも50万くらいはするのかな?そんな感じです。ヴァイオリンやらの価格帯知ってると50万?随分お得ね、と悪意なく思っちゃったりするけどバンド価格では高いです…。
 自分の演奏?まあ普通。なんかさらっと終わっちゃた感じで、特に印象は残りませんでした。自分自身の演奏には全く満足がいかなかったんだけど、しょうがないかな…。曲も結局そんなに好きではなかったし、今回ちゃんと向き合ってみて思ったけどフレットレスの音ってバンドの中で扱うのって難しいな、というのも。なんていうか音が特徴的過ぎてうまく溶け込まない感じ。あまり良い方面ではない癖が強すぎる気がして…ってこりゃフレットレスの特徴なのかそれとももしかしたら「安い」フレットレスの特徴なのかもしれないけど…まあ本来はジャコパスごっこしたいからというだけの理由で半分酒の勢いみたいにして買った楽器なんで、一回ライブを乗り越えてくれただけで御の字でしょう。楽器のせいだけでも曲のせいだけでもなく、自分の努力が足りないという事も否定できない事実ですが。

 んでベースでライブを乗り切ったと思ったら、今度はギターでスタジオです。本当は先月末にスタジオの予定だったんだけどいろいろあってリスケになり、それが再来週。一回顔をあわせただけでよく知らない人たち(Voは高校の後輩なのでよくしってるん)だけど、送られてきた楽譜のページが重複してたり上下反転してるページがあったり、あわててたのかなんなのか…こういうやつと仕事すると大変だろうな…というような事が頭をよぎったのでした。そもそも手持ちのはずの楽譜送ってくるのに一ヶ月くらいかかったし。
 そんなことはともかく、ギターはベースよりもっと大変ですわ。まずそもそも今度の課題曲がなんていうか今まで自分が弾いてたようなジャンルとちょっとだけ違ってて手癖で全然乗り越えられず地味な練習が必要だって事が一番大きい。んでそもそも課題曲3曲の内1曲は特にギター3本で録音されてて、まあ1本で再現するには目立つフレーズだけ拾って組みなおす事になるんだけどそのフレーズとフレーズが結構飛んでるというか物理的に離れているものが多くて、要するに一人で弾くには多少無理があるんですな、元々。
 あと楽器そのものの演奏技術だけじゃなく、エレキギターってエフェクターで音色切り替えたりするじゃないですか。それが結構ある曲で、足が忙しい…というかエレクトーンみたいなもん(そこまで激しくはないが)で、そっちにも神経使わなきゃいけないのがとても忙しい…というか弾けない原因になっているのです。
 ベースは基本楽譜があれば技術的に弾く事はできるし、音色をいじる事もあまりない。まあ今回に関してはある意味諦めてた、って面もあるけど、でもそもそもアンプとの相性によってひとつ音色を決めたらあまりひとつのライブの間にころころ変えるものでもない気がしてて。あと特に今回の曲は繰り返し多かったから集中して数フレーズ用意すれば1曲弾けちゃう、みたいなところがあったわけ。でもギターだと上記色々やらなきゃいけないし弾く前に音色つくるのも必要だし、そもそも覚える部分が多いし弾けない部分も多いからちゃんと時間をかけて練習しないといけない。しかもフレーズフレーズで切っちゃだめで、ちゃんとその切り替えの部分も含めて。つらいわー、というか俺ホントスタジオまでに間に合うのか?というのがホント疑問です。今日も朝から昼過ぎまで…3時間くらいは多分練習したんだけど。

 
 それ以外のこと。今日所要でBiterさん(初対面の男に噛み付く大柄女)とお茶していて僕の持っていた記号論の本を取り上げて「君は仕事以外のいろんなことに興味を持つ人だね。普通の男はビジネス書とかばっかりで云々」などと言われて、まあ普通の男はビジネス書すら読んでいないんじゃないか(うちの会社は特に…ビジネス書ってなに?たべもの?とかいう次元な気がする。大真面目に大前研一の名前を半分も知らないんじゃないかな、知ってりゃ良いってわけじゃもちろんないけど)などと思いつつふんふんと思ったりしたわけです。
 別にそんなこと意識していたわけではないんだけどね…。でも折角生きてるし仕事は仕事として、何か自分の突き詰めたいものをもっていたいですよね。
 ちなみに記号論の本は哲学者であるところのお狗様のお話についていくために買ったという面もなくはないんだけど、別の部分として一時期追いかけてたテキストマイニング系の話に関わる形態素解析についての何かヒントになるかなーってのもあって。HDDとかストレージの巨大化とネットワークの高速化、それに社会の変化(PCやネットの普及のことね)によって膨大なテキストデータがデジタル化されたけどPCで処理するにはあまりにノイズが多いのが現状で、それをどうPC的にきれいなデータにするか、という課題の話です。でも読んでる本はソシュールの記号論を中心にしているので僕の現在の課題意識というか多分これ永遠に解決されなくね?って疑問、まあ日本語特有の問題なんだけど、の解決にはまったく役に立たないんだけど、でも日本語みたいなローカル言語固有の問題をこねくり回す前にその大枠というかどういうところから生まれてきた理論なのか、って知っておくのは有用、というか必要じゃないかとも思うわけです。直接役に立つわけじゃないから気が進まないけどみんなそれは通ってくるだろ、という意味で。

 ちょっとそれるけど記号論だって現代思想?哲学?の一種のはずなのに、それがビジネスに結びつくとしたら面白いよね。文系の学問てとかく現世と交わらないというかはっきり言っちゃえば金を産まないようなところもあるじゃないですか。なのにーって。認知心理学だってロボットの研究に役に立ってるらしいし、そういうつながりもあるところにはあるんでしょうけれど。

 あれなんの話だっけ。まあそういう役に立たない事を学ぶのも面白いと僕は思うんだけど確かに周りでそうやって勉強(っていうのかな?)してる人ってのはそういえば知らない。趣味なんだから別にやりたきゃやればいいしみんながやる必要があるものではないけど、じゃあそういうことをやってない人は僕がそういう事に当ててる時間を何に使ってるんだろうと時々思ったりはします。…ってなんかすごい意識の高い人の話みたいだけど僕がそういうものに割いてる時間なんてほとんど電車の中でしかないわけで、そう、根本的な疑問は電車の中でぼおっとしてる人たちはあれはなんだろうという話なのかも知れません。
 電車の中、というと一時期は誰も彼もがジャンプ読んでた気もするんだけど(月曜限定)、最近ホントぼおっとしてるというか何もしてない人が多い(気がする)。出勤途中に仕事の段取り考えたりとかなんか考え事でもしてるんならいいけど、どうなんだろう…ちなみに僕はそんなことを書いておきながらメールを読んでることが多いです。メールというかRSSやらブログの更新情報やらそういうものだけど、あとTwitter。んで読むものない時なんかに本を読んでる、って感じかな。さいきんはちょっとメールの比率が高くて本読めてないけど…。例えばテレビ見てるとかならそれはそれでいいと思うのよね、寝てるならそれもいい、というか僕移動中によく寝る人だし。別に「知的生産しろ!」とか「自己実現しろ!」って話じゃなくて、何にもしてないってなんか時間の無駄じゃね?っておもわないもんかなー、というだけの軽い話でしたよ。特に通勤なんて大人になればほぼ毎日やるわけで、その1日30分なら30分が5日で二時間半でしょ。どんな遅くても小説一冊の半分くらいは読めるでしょー。もったいな!


 今日のこと。今日はそんなわけで(?)朝からギターを練習し、ランチは外で。そうそろそろ忘年会がはじまるのですよ。今回は旧ドラム教室の仲間たち系忘年会、ということでいつも夜にやっているんだけど今回は参加者一名御懐妊につき昼、ということで。感想はあとでまた書くかもしれないけど僕以外の二人は結婚して、なんかこう色々付き合いの長さなどに考えさせられるものがありましたわ。
 そもそも遅め開始ランチが入店を相当待たされた事もあって5時すぎとかに解散(ランチの解散時間じゃねえな)、某大学でメディアアートの展示を…と思ったら僕を呼んだ当人と連絡が取れずに断念。ちなみに昨日も同じところに行って見切れなかったから今日行ったんだけど、全体的に専門家の展示でもないのに普通のメディアアートの展示会(ってそんなみたことないけど)より切り口が面白かった気がする。工作はちゃっちかったが…あと僕を呼んだ当人の作品は何がメディアなのかまったくわからず自分の世界をただひたすらに突き進んでいる感じで面白かったです。本人横にいてとても突っ込みづらい雰囲気があったけど。
 まあそんなわけで大学構内をぶらぶらして、そのまま徒歩でBiterさん宅の近くまで。その大学の付近はよくしってるつもりだったんだけど、改めてこう部分を知ってるだけで知った気になってはいけないなーと思いましたよ。あの駅に徒歩20分でいけるなんて!みたいな。ありがちかもしれないけど「有楽町と銀座が隣り合ってるの知らなかった」みたいな話で、いつも電車で動いてると特に路線が繋がってない町同士の距離感とかよくわからんじゃないですか。秋葉原と神保町とか。よーく立ち止まって自分の持ってる情報つなぎ合わせれば自明な話なのかもしれないっちゃ、そりゃそうなんだけどね。で、ちょっとした宅配を請け負って帰宅したのでした。今日は結構移動したなーというのが感想。大学からBiterさん家が楽しかったとはいえ結構距離あったもんね。といってもぶらぶら歩いて40分くらいかな?

 二年目で浮気。これはそのランチで発覚した話なんだけど、僕とご懐妊さんともう一人いる男が嫁と別居中だと。2009年の年末に僕は彼女と一回会ってて正直微妙やな…と思ってそれをここにも書いてたりするんだけど、なんか浮気されたらしいです。あちゃー。とりあえず相手から慰謝料は取って、職場関係の人だったからその仕事辞めるなら復縁考える、って条件を出したらしいんだけどそれなりに長く働いてる会社だから辞めたくないといわれたらしく、んで蹴りだしたみたい。
 彼は「職場関係の人と浮気した以上仕事を辞めるのは当然」と言っててそこには100%同意はしないんだけど、自分が浮気しちゃってバレちゃった以上、よっぽど無理な条件じゃない限り離婚したくなかったら飲むしかないでしょ、つうか離婚になったら彼女にも請求書が届くだろうからそれとの天秤ということにもなるだろうけど…というような気もしていて、どうなることやら。年内に決着つけるっていってましたけどね。
 別に彼ととてもとても親しいわけでもないし嫁もしゃあねーやつだなと思っていたけど、なんか痩せちゃって可哀想だったなっつう。地元の昔から仲良い友達とは嫁ぐるみで遊んでたから相談できず、ほかに相談できる友達もいなくて…って言っててそれってきっと相手からしたら水臭いってことなんじゃないかなーと思ったり、なんか幸せじゃないなと思ったのでした。いや彼が不幸せというより自分がきっと幸せなんだろうな、ってことなのかな。いや彼は確実に今不幸だし不運だし、僕はそもそもその意味ではスタートラインにすら立っていないんだけど…そういうことじゃなく、相談できる人がいる(だろうな)って意味でな。

 数回前の日記でも書いたけど、もしかしたら会社一日休んででも向こう1ヶ月で来年以降のある程度のロードマップをつくらなきゃいけないと思ってます。中国行くとかって話も含めて、いまなんとなく頭の中にパーツはそろっているけどちゃんと整理されていないので。整理してみれば他に足りないパーツがあるかもしれないし、それを明確にして取りにいかないとね。
 なんだろーなー、漠然とした話かつ当たり前だろ(あと代理店時代によくこの言葉使った気がするけど)ってことかもしれないけど、データは所詮過去の蓄積にしか過ぎなくて、そして同じ条件、環境で同じ事を試せるなんてことは未来においてありえないんだから、いつでもデータを参考に物事を判断するって間違ってるんですよきっと。データに出来るのは足切り。「絶対だめだろ」ってのはわかることもある気がするのはするけど、でもデータから大当たりを出す事はできない。
 だから仕事のことにしても生き方にしても、周りのこととか定石とか考えてためらったりするのはきっと間違っているんだよね。判断を求められたその時に、その時の自分の気持ちで決断をすべきで、それを視野が短期的だとか無条件に言っちゃうのは間違ってる。

 …あれなんか結論になってない気がするけど…ま、そんな感じ。

 年末まであと少し。あとひとやまふたやまあるけど、そこをきっちり乗り越えましょ。
【今日はのんでません】
 昨日またというかなんというか、某バーオーナー2人(あわせて15店舗以上経営つー)と前何回か偶然ランチで行った事ある店の従業員さん+なぜか僕、という…。
 最近この社長さん通称ボスに誘われて出ることが多いんだけどだんだんメンバーがカジュアルになっていってる気がします。最初はITとかPR関係の人たち、次は司法書士のわかいねーちゃんs、そして今回飲食ガチガチという…。カジュアルっていうか俺のいる意味がどんどんわからなくなってる、ってことだわ。


 その飲食こぼれ話を聞くのは毎回面白いんだけど、今回は2点。両方ちょっとつながってるのかな。
 最初のは別にそんな長い話じゃなくて「なぜ自分が現場から上がったか」という話。二人とも元都内では相当に知られたバーテンダーだったと思う。特に僕をかわいがってくれていた人は本当に西東京ではこの人、って感じで知られていたんじゃないかなー。それで若い内(多分二人とも30前半であがってる)になんでその見切りをつけたか、という話で、ボスが言ったのは「俺がカウンターに入れば今でも客単価は上がるけど、ある日俺以外のスタッフが入ってたほうが客数は多いことに気づいたから」。単価を上げるのと数を回すののどっちがいい、というのはないと思うけど、多分この話は「常連を気持ちよくさせられることはできるけど、新しい客がつかない」って事なんじゃないかなと思ったりしたわけ。

 その場では別の話題として「個人経営のバーはバーテンダー(=オーナー)の年齢と共に客層があがっていく」という話もあったりして、その辺ともリンクしてるのかなと思ったりしてね。んで、もう一人の社長も「自分が入ればたとえ相手がいちげんさんでも単価を上げられるのは当たり前、今自分が現場にたまに入るのは全体を見てオペレーションの改善なんかをやりたいからで、だから客が多くてそちらをさばく人数がほしい週末にはあえて入らない」みたいな事を言っていて。前半エラい自信やな!って感じだけど、こういう人にとってはわりとそういうもんなのかもなあ…。この人たちは接客を感情的というかファジーなもので考えていなくて、知識とか定石とか、なんかそういうものを持っていればある程度票読みが出来るみたいなものなのかもしれないなあと思ったりして。

 
 で、本題。この二人はいわゆるオーセンティック…古典的というかまあよくイメージされる木の一枚板カウンターの暗い店、という感じのバーの出身で前述のように商品知識も接客の技術も相当にあると言われていた人なんだけど、彼らの店は多分今「オーセンティックなバーの人たち」からは嫌われてるんだよね。

 バーっていうのは極論自分で酒屋に行けば手に入るようなものに酒屋の値段の数倍の値段をつけて売ってるわけで、じゃあなんでそこで高いほうに人が行くか、って結局雰囲気とか人とかいうものが原因になる。で、いわゆるオーセンティック族は個人でやっているお店が多くて「~さんのお店」と言われ、その人を好きな人が集まってる。
 当然そういうやりかたをしている人たちは人間力勝負だと思ってるから、自分が二人存在できない以上、店を二つ以上増やすという考えにはあまりならない。というか極論、店を増やす=店の看板で客を釣って違う人が入ってたらそれって騙しじゃね?って感覚なんじゃないかな。あるのは例えば弟子が独立したいってんで出資してあげたりしてのれんわけみたいな形にするとかくらい…多分。

 でも一方経営者チームは多分根本では店はコンセプトとか雰囲気であって、人はその構成要素だ、って考えなんだと思う。だからしっかりしたコンセプトがあって店が作りこめてそれに似合った人が供給できれば高いレベルの店が作れるし、一人でやるより安定すると。
 確かに個人で客つけちゃってやってると体調崩して代打頼もうにもオーナーの~さんがいないカウンターには意味がない、ということは休めないし、年をとっても仕事が変わらない以上給料だってあがらない。服屋とかだってそうだけどいつまでも販売員やってても給料は驚きの爆安なわけで…。
 仕組みを中心におくことで、人という一番不安定な部分をなくしていくというのが考え方の基本なんだと思う。そういう考えに自分がスターだった人がなる、というのが面白いなと思って。

 僕はバーとしては圧倒的にオーセンティックなバーが大好きなんだけど、考え方は「バーテンダーは若くていいし、年をとっただけの給料は払えない。だからどんどん独立してもらえばいい」という経営者さんたちのほうが理にかなってると思う。本当にオーナーバーテンダーの人たちに出口がない気がするもん…。
 そしてさらに面白いというかなんというかなのはボスの店、最近オーセンティック大好きな僕とかその友人とかからすると全然ダメなんだよね。バーテンのレベルが低すぎる…と言っちゃって確かに期待値からすると低すぎるのは確かなんだけど、それには自分が年をとったとか客としてそれなりに長くなってきて舌が肥えてきたとか、そもそもバーでちゃんと接客されたのは西東京最強だったというボスが一番最初だったわけでそこで期待値が固定されちゃってるとかいろんな要素があるんだと思う。思うは思うけど、それでもさびしいし、僕がだめになっているなあと感じている期間は彼が現役を上がって店を増やしまくっていた時期と重なっていたわけで、その拡大路線に対してどうなのかねーーって思うわけ。でも人間としてはやっぱり尊敬するしすげーと思ったりするわけで、その辺のなんていうか…。ううむ。若干眠いからか思考が少しループをはじめた気もする。

 経営者チームは若いうちにバーで修行して、そこで磨かれるコミュニケーションスキルを生かして違う業界にいくなりなんなりすればいい、って言うけど、僕は夢かもしれないけど昔ボス本人が言ってたような自分の所にいた従業員が独立する時にネットワークとして囲い込んで、それぞれは個店として経営しつつ仕入れとか効率化できるところは共通化して、ってのが実現すればいいのになーと思ったりするのです。外野が言うほど勿論現実的でも簡単でもないんでしょうけどね。
 会社が責任持った上でのトップダウンのコンセプトによる差別化じゃなくて、各店舗が基本的には独立して自店舗の裁量でやりたいことやって、みたいな。特にバーって上に書いたように商品力で売るって業態じゃない(俺の店にしかない酒!ってのを売りにする店は勿論あるけど、そこまで多くない)し、コンセプトがちょっと違ってもそんなに仕入れの相手は変わらないんじゃないかと思うのであんまりガチガチに注文まとめなくても価格交渉力とかいう意味では割と生めるんじゃないかとか、まあ妄想なんでしょうけどーー。


 きっと彼ら飲食業が死ぬまで悩むだろう問題の一端に触れましたよー深いよーという話ですかね、要するに。ちなみに今朝は二日酔いで目が真っ赤でした。
 なんか二回連続で"「」"使ってるなあと今気づきました。まぁ息をするようにあまり考えないように書いているんだから、そういうこともあるでしょう。うん。って単なる呼吸の割には時間かかりすぎやね。しかしなんか昼間だってのにねむい。


 「物語」。これって多分打海文三さんの作品のどこか忘れたけどでも割と頻繁に出てきていた言葉で、記憶によると(要するに正確でない可能性がとてもたかいのだけれど)毎回批判的に、時には陳腐である、といった評も添えられて、「自分の立場や行いを過去何回も繰り返されたような流れに当てはめて思考を放棄する(または自己陶酔や憐憫)こと」を指して使われていた気がする。いやこの説明は言い換えになってないから指してという表現はおかしい気もするけど、まぁとにかくそういう細かいことはいいとしてくださいよ。

 ここではある種のテンプレートに自らをはめ込むことで思考・判断を放棄して、この先に生まれ得るものを否定することを批判しているのだけれど、あれこれって何かに似てない?という話。
 ひとつはポストモダンの「大きな物語」とかっていうアレ。僕はまったく詳しくないけどどうやらそれは例えば神話とか言い伝えとかの形をとった規範とかのことを指しているようで、「判断基準や責任をテンプレートにいわば『委託』して『思考という重労働』を避ける」という意味では共通点あるなあ、という。「思考という重労働」ってのはエジソンおじさんの言らしいですが。ただ打海さんの「物語」というのは別にかみさまとかみたいに大きい存在に、というだけではなさそうなので「大きな」物語と書いてしまうとぴったりではないかもしれないのだけれども。

 もうひとつ近似。過去に何度か書いている「カチッ、サー」の話。要するにチャルディーニの「影響力の武器」の話。…ってか今日カッコ多すぎじゃないか文章に。

http://42583.diarynote.jp/200805042313470000/
幸せの形について

 三年前くらいに書いていた上記なんかがまさにそうなんだけど、これはどっちかっていうとテンプレート肯定っぽいな。仮に人生が判断の結果の累積によって形作られるものでありさらにここで書いているように信じることが幸せを生むのならば、裏返せば現状に不満を持ったその時に過去の判断に疑問を持つことがそのまま自分の幸福感への不信になってしまうということになる。ならば判断を疑わないことがその分かれ目になるのだろう(ここで間違ってはいけないのはそれは「判断を誤らない」ことではないということ)。


 んーなんか考えが流れなくなってきた。要するに、「物事の正確性や真実の追究」と幸福というのはとても高い確率で相容れないのではないかということを書きたかったのかな。
 上の文章でもひいていたように、身の回りで起こるすべての個別のことに関してすべて思考して判断するというのはものすごい(時間にしても気力にしても)コストで、それは現実的ではない。だからといってそういったことをテンプレートに委託してしまうと大雑把には正しくても、その事案の個別性は無視されてしまう。その相克の話?
 ああそう、繰り返し「コストがかかる」って書いてて気づいたけど、じゃあもしかしたら幸福ってのはコストがかからない状態である、という言いかえができるのかもしれない。でも決して「幸せとはストレスから開放された楽な状態である」とはいいたくないんだよなあ。いやいいたくないというか違う気がする。なんか明確には反論できないけど。
 このトピックは数週間に書いたサピア=ウォーフ仮説の話とかとも関連していて、考え出すと結構大きなテーマな気はするんだけど飲んでるか眠いかの時しか向かっていないこの場では永遠に収束しない気がします。思考が。


 別の話。一昨日夜突然バイトちゃんから連絡があり「明日お時間ありますか」と。あー、あれですかキタコレですか別れ話ですか、と明言されんでも思いっきり予想ができたのですが会ってみたらやっぱりそうでした。ついていけん、と。まぁかなりやばいな、というのは感じていたのは確か(日本語のできなさ具合とか)で、それを考えればこっちから宣告する前に自分から言い出してくれたのはこっちの精神的負担からすればもしかしたらありがとうなのかもしれないけど、でもそれにしたってなんていうか後味よくないものは残りますわね。人事ってつらい商売やなーって思った瞬間でした。
 あとこれは完全に自分の事情だけどそもそも上下がはっきりしない会社において新入りの若い僕がアシスタントを持つだけで色々面倒っぽかったのにそれが1ヶ月で辞めちゃうと色々思われるよねまた。「やっぱガイシから来た人は人の切り方もダイナミック!」みたいな。あーめんどい。

 あーめんどい。

 先週は大恩ある前職の先輩が最終日ってんで前職職場に潜り込んでいろんなことを言われたり泥酔者を搬出したりお片付け手伝ったり色々でした。毎日飲んでいた気がする。
 その時ふと思ったけど、大げさな話じゃなく、いいチームだったかって何年越しの再会であったとしても役割分担をすることなしにすぐに有機的に動けることなんだよねきっと。その時やったのは単なるパーティの後片付けなんだけど、誰が何をするなんて誰も言わないけどその場所の状況を見て個々が判断してバッティングもせず人手も余らず。ああこういう感覚だよな、って思ったのでした。勿論会わない間にいろんな変化はあったりするわけでメンバーの今の能力の100%有効活用ではないかもしれないけど、少なくともお互いの過去のある時点での能力は把握していて、その時の動き方ではきっちり仕事ができる。

 今日はNYいきの準備などして過ごそうと思ったりしています。ねむい。
感想:特に最後の映画は見たくなりました。楽しんで読めたけどこれをきっかけに深く考えたりするような事は残念ながら見つけられず、そういった意味ではふつーに読めてしまった。


 僕は基本的に、仕事と関係ない部分で難しい本を読むことも、難しいことを考えることもあまり、ありません。ビジネス書やら新聞(たまに)やら、そういうものは読むこともあるけれど、テツガクとかシャカイガクとかブンガクとか学問的なものはまず読みません。まじめにすればいいのは仕事だけで、なんでそれが終わったり休みな日にまでそんな頭つかわなにゃならんねん、と思っています。
 かといって本来まじめな本が嫌いなわけではなく、特に自分の長年考えていることに近いものに関しては興味はあるので食いついて行きたいと思ってはいるけれど、結局疲れた、とか面倒、とかありふれたそんなことなんでしょう。

 そんな僕ですが、最近なぜかガクモン的な人がまわりにちらほら現れたり変な球を投げてきたりするもので、ちょいちょい読んだり、思考したりしています。
 きっかけのひとつはまたChatpad。ドイツの聞いたこともない(歩き方には載ってた)住んでいるという日本人と会ったのだけれど、なんでそんな話になったのかよくわからないけど言語や文法とナショナリズムの関連とかフーコーとかそんな話を長々と朝まで語り合って、結局Skypeに移行して昨日も同じようなディープな話を。時差があって相当眠い中でこんな自分にしては極限まじめな話をするのはつらいんだけどね。


 その中で語られたいくつかのトピックのうち、僕を特に刺激したのが言語的相対論(相対性理論じゃないよ、時々間違えるけど)の話。サピア=ウォーフ仮説というのが有名らしいのだけれど、一言でいえば「思考は言語によって規定される」というものらしい。伊藤計劃「虐殺器官」のWikipediaの項目に関連として挙げられていたから知った、という恥ずかしい知り方(いや、一応名前は聞いたことはあったんだけど…って言い訳してもねえ)だったんだけど、確かに読んでみると作中に出てくる概念はまさに言語的相対論をSF的に飛躍させたものでやっぱりこの本、名作やなあ…というのはまあ置いといて。

 まだちゃんと文献をあたっていないのでもしかしたらまったく的外れなのかもしれないけれど、「無意識は存在するのか」みたいな方向になってしまうとこの話題はつまらないと思う。無意識が少しでもある、となればそれに基づいた行動は当然言語にも基づかないことになっちゃうからね。それより、
http://it1127.cocolog-nifty.com/it1127/2005/11/post_340b.html

で例として挙げられているようなイヌイットの雪の種類の話なんかは本来言語学の範囲なんだろうけど、サピア=ウォーフ仮説はどこの学部で研究してるんだろう?もちろん言語学はひとつの候補だけど哲学とか認知心理とかとも関係ある気がするし…まぁそれもおいとくか。
 ただイヌイットの話や虹の色の話は基本的に受けた刺激をどう認識するか、という話で、それを観察者に知らせるためには当然、言語を媒介としなければいけない。だから「言語によって影響を受けたか」なんて観測することは不可能。対照実験ができないし。
 そうではなく、未だ起こっていないことなどを思考する場合を想定して「媒介するものによって(たとえ発信者が一緒でも)伝わるメッセージが変わる」という考え方に立ち(ただしこれも受信者が誰かによって変わるという話も当然あって、でもそれはいまは無視)一段上に抽象化して「言語もそのメッセージを伝えるビークルである」と考えると、なんかそれってメディオロジーみたいな話とも似た構造なのかもしれないと思ったり、それって観念論なのかそれとももっと踏み込んだ唯心論なのか、そこら辺と結びつくと主観って最強じゃね?俺がないと思ったものはないよ?みたいな話になってくるのかなーと思ったりして面白いんじゃないかなと思うわけ。ただ、この種の話は結局立証不能なので思考のおもちゃ以上のものではない、ということも同時に思うんだけどね。でもそれでもちょっと違うジャンルだと思ってた人が一枚はぐと同じこといってるじゃん!とかって発見するのは楽しいですよね。うん。

…あれ?なに書こうとしたんだっけ。なんか言語が思考を縛ることができるなら言語によって行動を縛ることもできるかもねー、みたいな話もしてたので、その辺にいきつきたかったのかもね。


ま、いっか。 


追記:「型にはめることで効率を上げたり理解しやすくする」というのは悪なのか?というようなことを書きたかった気がするけど眠いんで寝ます

ラベリング

2011年7月23日 考え事
 多分短い。

 偽名の人のことを考えていたわけではなく、まったく別にうちのバイトちゃんに「道化さん学生時代どんな研究してたんですか」とか訊かれて、色々話していたわけです。定番の仏舎利の話とか。んで、自分でその言を総括しようとして「結局ものそのものの価値じゃなくてラベリングによって人からの評価が変わるってことの面白さについて調べたかった」とかって発現したのです。

 で、あーこれ偽名の人がたくさん偽名を生み出してるロジックともしかしたら一緒かなとさっきシャワー浴びながらふと思ったのでメモ。氏名ってまさに典型的なラベルなわけで、それをいじることによって中身(自分自身)を変えずにいろんな自分になれる。望むなら矛盾するさまざまなものを内包した複雑だけど統合された自分ではなく、ピュアなひとつだけの性質傾向を持っているたくさんの自分というものを生み出すことが出来るって。自分の中に存在するひとつの傾向だけを出すというのは当然自分の一部を切り出す=絶対量(経験とかの)が落ちる事にもなるんだけど、でも大概の人とは自分のすべてなんかさらけだしあわないわけで、それがばれることもない。
 FBをはじめソーシャルメディアで現実にはめったに接触することがないグループ同士(同僚・同級生・飲み友達・恋人etc)が同じ「自分」のページを見るような環境が生まれたことでアイデンティティを統合しなきゃいけなくなってめんどくさいとかそんな話を聞くけど、そのめんどくささの対極にこの人のいきかたはあるよなあ、とか思ったりして(でもその並立するアイデンティティ同士が接触した時のダメージは大きいだろうけどね!)。

 そんなことを思う土曜昼でした。ねむい。
(ちょっと飲んでいます)

 職を変えて1年と3ヶ月ちょいだけど、最近「なんで転職したの?」ってきかれる機会が多い気がする。そして今の仕事におおむね満足しているのに、その質問に対していまだにあまり明確な答えを持てていない。

 前から思っていたように、少なくとも前の仕事まで何をやるか、やりたいかという方向性が自分で見えていたという点でとても恵まれていたんだと思う。興味を持った研究であるとか学問であるとかを敷衍したところに職業があって、だからこそ迷わなかった。

 でも今はまったく違って、「なんでその仕事をしているの?」という一見簡単なはずの質問に答えられない。楽しんでいるにも関わらず。楽しんでるってのは現在の状態で、つまりは結果論でしかないわけだしね。で、代わりにというかその質問が出た時にではないけど「降りたんだな」と思ったり言ったりする事がある。
 感覚的なものだけど、簡単に言ってしまえばもう多分まともなサラリーマンに戻ることはないだろうな、というある種の諦観みたいなもの。戻りたい場所があるわけじゃないから後悔ってほどのものじゃないけど、淡々とあちらにはもう戻れないんだな、と。もしこの先自分の道に沿った何かをその中に見つけたとしても、ね。「降りる」というのはなんていうか典型的なキャリアパスというか幸せのテンプレートなのか出世競争なのか、そういったものから降りたということ。上昇の可能性を失い、でもそのために何かを失うことからは逃れたつうことなのか、そう信じているだけか。

 そう、繰り返しになるけど今の仕事は楽しんでる。でもこれをこの先10年続けられるとも思えない。いつかはお遊びの時間を終えて、「仕事」に戻らなきゃいけないんだろう。手遅れにならないうちに。

 あ、そうそう偽名女子とまた会うことになりそう・・・ってのは書いてないよな。形上こちらから誘ったことになってるけど結構あちらのお望みな感じが強くて、さてあなたは僕に何をいうつもりなんだろう、と思ったりしてそれが今週の多分山場。
 体調不良です。なんか咳が止まらず、結局金曜はお休み。って行っても半日は仕事してたけど…。

 一週間経ってしまいました。思えば、この地震も46分に起きたんですよね(阪神は5時、東北は14時)。そして、「震災」という言葉は今後阪神を指さなくなるんだろうな、なんてぼんやり思っていました。

 さて、ちょっと書いたように震災翌日からチャリティのプランをねってたんですが、社内会議にかけたらかなりの反対にあいました。いや事が事だから「反対」とは言わないんだけど、「いまじゃないよね」「支援はずっと必要なんだからもう少し後でも」みたいな。いやカネはいつ集めてもカネだし腐らないし、集める効率がいいのは先行者利益がある今なんだよパブリシティにもなるしそれに3ヶ月経ったら世間は残酷だから忘れちゃう、ってことなんだけどなかなか理解されなくて。リビア情勢がどんだけ日本の地震で吹っ飛んだか知らないのかな…。
 そう、アテンションは常に奪い合いで、それがアテンション・エコノミーなんて言葉になってさえいる(http://ow.ly/4hRBz )。常に悲惨で、世界にインパクトがある情報をハイエナたるメディアは探しているし、今回英文メディアは随分いい仕事をしていると思う(勿論皮肉です)。だから特に安全圏にいる人たちには耳目がこちらに向いている今の内に訴えかけて、行動か、少なくとも行動するという約束をさせなきゃいけない。世界のどこかでもっと悲惨なことが起こるその前に。
 そんな事を考えています。つい忘れていたけど、社内の人たちはお金に関する嗅覚が皆無で、そういう意味ではとても「普通の人たち」なのよね。虚しさも感じるけど、これは皮肉じゃなくてそれを期待するほうが間違っているのかなと思います。…とかなんとか、まぁ今回は自分もヒートアップしている自覚もあるので矛を収めてしまったわけですが。

 さて、で表題の件。これから我々エンタメ業界は多分、何らかの形でチャリティを絡ませた提案がすべて、とは言わないまでも結構な確率で求められるでしょうきっと。上に書いたような「忘れられる速度」にもよるんでしょうけど。しかし、国内向けにこんな明確なターゲットがあった試しはおそらくなく、そういう意味で今までの「Cause Marketing」とは少し力点が変わるのかな、と思っています。本当は社内向け・営業資料にまとめるものだけど、どうせ今時点ではドラフトだし、ちょろっと自分のメモ代わりに吐き出してみようかなと思います。ちなみに特に文献などをあたってないので基礎的なところで理解が間違ってる可能性もあり…。


■ まずそもそもCause Marketing(CMと略すよ面倒だから)とは?
http://ow.ly/4hRAV
ま、上記Wikipediaに書いてあるように一言で言えば 「特定の商品を購入することが環境保護などの社会貢献に結びつくと訴える販促キャンペーン」というもの。多分一番有名なのはボルヴィックの1L for 10L(http://www.volvic.co.jp/csr/1lfor10l/index.html)でしょう。


■ 効果的にCMを行う上での考慮すべき要素と優先順位

1) どのような仕掛けにするか
2) どこ(どのような問題・団体)に寄付をするか
3) 幾ら供出するか

※純粋に寄付をするならば2と3の方が圧倒的に1よりも重要なはず(というより1はほぼ存在しない)のがミソ
 CMはあくまで商品のメッセージや世界観を具体化・差別化するためのツールであるので出発点では慈善ではありません、という点に自覚的であるべき。また、Wikipediaに掲載されている例を見ればわかるようにキャンペーンは特定商品の売り上げに対して数%などという成果連動型である場合が多く、最終的に幾ら集まるか(つまりは本来の意味での成果にあたる、一番重要なはずの部分)の責任は消費者に押し付けられた形になっている(=「お前らが買わんと金が集まらんよ」)のも無責任っちゃ無責任。まぁ売り上げ上げるためのインセンティブなんだから考えりゃ当然なんだけど。
 要するに社会問題の提起であるアドボカシーとかとはぜんぜん違いますよ、と。ただしこれが慈善の顔をしたマーケティングであるが故に通常の慈善よりは効果を説明しやすいし、ストーリーがきれいならば予算もつきやすい(そして結果的に慈善行為にもなる)のは事実で、べつに善し悪しの問題ではないんだと思います。


■今回想定される変化
 今回は2)がとても難しい&重要になるかなと思います。もしかしたら1と2がひっくりかえるかも…というか正確には(とても難しいけど)2を決められれば1が助けなくても説得力があるものが作れる気がして。「震災一般に対するチャリティ」は今後腐るほど出てくる可能性があるからこそ、それとの差別化をどう図っていくかが課題。
 今の段階で今回の震災に対する支援受け入れ完了なのは赤十字やチャリティプラットフォーム、CivicForceそれに国境なき医師団とかあたりだと思うけど、これらは寄付先としてはあまりに「一般的」すぎてストーリーが描きづらい。いや上の繰り返しになるかもだけど「それが必要な支援か」とかって視点はこの話にはないですからね。僕も個人として寄付するなら上記のどれかにするけど、そういう話じゃない。

 だから本当は「被災地の子供に音楽を届けます」みたいな立て付けにするのが多分一番いいけど、それを担える団体が日本にあるのか?というと相当疑問で。かといって受け皿にNPO使わずに自分たちでやっちゃったら課税されちゃうわけで、そこら辺が難しいのかなと。知ってる範囲で一番やれるネットワークを持ってる可能性があるのは地域創造(http://www.jafra.or.jp/)なのかなと思うけどここも財団法人だし…だめだよね?そもそも財団法人に対する寄付の課税ってどうなってるか知らないし、用途を限定して寄付って出来るのかな?出来るなら結構話ができる気もする。中の人に確認してみよう。まぁ組織としては頭固そうだけど。 あと、さすが日本企業というか義捐金自体は国内からも今相当集まっています。なので金額インパクトも取りづらく、普通にやったら100%埋もれる気がする。その辺もどうすりゃいいかなー。

 ま、そんなことを考えています(途中まで論理的っぽくかいたけどねむくなったので放棄)。
 初めて知った。蓼食う虫も…の「蓼」だからたでしなだと思ってたわけで(変換できるし)。でもローマ字表記を見るとTateshinaなんですな。まぁそれはどうでもいいか。

 社員研修で蓼科にきています。なんか社員はみんなおおはしゃぎしてます。僕は一人外で(涼しい)PC。ストリートコンピューティング。なんかうるさすぎてついていけないんですもの。あ、そして10mくらい横で美人がたそがれてる…でもあの人既婚です。だから近寄りません。

 なんか最近いろんな事が頭をよぎっています。誕生日ってのもあるし、やっぱり自分がどう生きるか、なんてことをガラにもなく考えたりして。今の仕事でいいのか、ってのがやっぱり根本的な所。
前にもちょっと書いたかもしれないけど僕は未来における自分の方向性(選ぶ仕事もね)は過去を振り返って通ってきた道と同じ方向に向いていると思っている。 だけど音楽事務所という選択はその道を外れた所にあって、そういう意味ですごく目標のない、ある種だらしない短期的な楽しみのための選択だったという気持ちが今でも強い。もしかしたらこの道を進んでしばらくすれば実はやっぱり同じ方向に進んでいたよね、って思う可能性もあると思ってたけど、今のところそういうこともない。この先はわからないけど。
 でも大半の人はそんな道は見えていなくて、その場最適のものを選んでいるんだと思う。その意味で自分は恵まれているって事だとは感じていたんだけど(どちらがいいか、というより悩んで選択する必要がないって意味でね)、それならそれでいいかもしれない…ということで、なら新しく自分の中で基準を作っていこうかとは考えていて。
 ただ今自分持ってるカードをどう組み合わせたら一番いい手を作れるんだろうかってのがうまく消化できなくて、煩悶するわけです。なんか青い悩みだなーとかは思うんだけれども。

 ま、色々悩む年なのかもね。
 人脈って広い狭いって軸だけで評価しがちだけど、実は密度って要素もあるなと思ったのでした。
 僕は友人から人脈が広い人間だと思われていて、僕自身は自分より遥かに広い人を沢山知ってるからあまりそうは思わない反面、普通に普通に暮らしている人と比べれば変な人を知っているのは確かだからまぁそう思われることはあるよな、とも思う。
 ただ意外に、というかなんというかその広さが役に立つことがあんまりないなぁと。いや今回就職でばっちりと役に立ったんだけどそれ以外ね。

 で、思ったのが、色々な分野に一人ずつ知り合いがいても動かないことも多い…というより近い分野にある程度密集しててくれると細かく「あの人はこれが得意だから今回はあの人に、でもう一人のこの人にここをフォローしてもらおう」みたいな最適に近いコーディネイトができるし、何よりひとつのことに関して色んな角度の意見がもらえるから安心。いくら親しくて信頼できたとしてもひとりの専門家にすがるってすごく怖いことだと思うし…。
 
 それ以上ひろがりがある話じゃないんだけど、なんとなく書き残しておきたかったので。

 
 あ、邪眼さん(弊社の美人)に彼氏がいることがあっさりと発覚しました。いるんだろうなぁとは思ったけれど、ちっ。
 それとは直接関係ないけど弊社、若手男女間の対立?が激しくなんかいままで基準で普通にしてると色々めんどくさそうな悪寒…。あとなんていうか既に入社2週間にしてプライベートで仲がいいわけでもない男の子とランチに行って何を喋ればいいのか非常に困ってます。でも多分相手も困ってるんだよな…困らせてるのか俺。話しかけにくいだろうしなぁ。
 
 昨日ちょっと考えていたんだけど、結局これって外部(のしばしば偉い)者による管理を肯定する考え方だよね。いや共有地の悲劇が、ってんじゃなく、これをどう解決するかって話になると…例えば地球資源の配分でもいいけど、時々僕が書く「最高の統治形態は万能者による善き独裁」みたいな話で、当事者の気持ちを斟酌しない(=影響されない、でもある)誰かの手による管理という考え方が自然に導入されてしまう気がして。

 例えばそれが古典的なムラの共有地に牛を話す話なり入会地で木を切る話なり、それはきっとそのムラの長老とかが決めるわけでしょ。権力者が割り当てる。でも現代ではそんな権力者個人による裁定なんてありえない(基本的に強制執行力がない)し誰からもそんな権力は承認されないわけで、いまの世の中では「外部者」はプレイヤーの誰からも信任をされている中立な組織とかが現実的なモデルになるんだろうけど…果たしてその資格を持つのは誰?ってことが疑問。
 例えば環境問題で普通に考えるなら国連ってことになるだろうけど、分担金で成り立ってるというのは要するに本来的にはその比率だけ負担国に対して忠義を尽くさなきゃいけないわけで、そういった意味では全く中立ではありえない(たとえば地球上には非加盟の国なんてたくさんあるわけで)。公平負担の公平ってのは果たして金額が公平(一律10万ドル/年)なのか、それとも負担感が公平(GNPの1%)なのかってことでもあるかもしれない。

 他にあるのかな?別にその中立的な組織じゃなくて考え方(論理的に「こういう存在なら」という答えの導き方もあるはず)でもいいと思うのよ。その中立ってのは僕がただ思うだけで必須じゃない(その競争の参加者同士の合意形成の方法があるかも)かもしれないし…。
 中立な…ってのは失礼な言い方をすれば楽な解決法ではある。だってそういう調整を誰かに預けてしまえばプレイヤーは安心して自己の利得の最大化だけに専念できるんだから、それってなんか楽っていうか安易?「誰かがやればいいじゃん」みたいな。あ、もちろんその権力を預けた誰かの行為によって自分が強制的に不利益を課される可能性も飲み込まなきゃいけないわけだから、実際はそんなに安易じゃないんだけど(でも多分現実にはそれを諦めるというより権力者を接待するなりして自分のいいように誘導する方に力を使う気がするね)。
 
 とにかく、じゃあそういう外部者による解決に対して、それに対して内部での解決を志向するという考え方も少なくとも論理上はある。内部、即ちプレイヤー同士の合意による合意形成(上でちょっと書いたけど)。多分そのプレイヤー集団からの落伍者をどう罰するか(フリーライダーをどう罰するか)ってのもきっと重要だろうな。
 このモデルを考えると「結果の平等」は難しい場合が多い(全体の資源が有限な以上、誰かが得したら誰かが損する可能性が強い)と思われるから、意思決定プロセスをできるだけ透明にして納得感を与える必要がある。…と考えるとこれの現状での最上が民主主義による多数決なんだろうなぁ…

 ってそうだ思ったけど独裁ってのは切り離しなんだね。外部化。独裁者はその他大勢と違う(例えば神に選ばれている)ってこと。色々な神話を与えることで普通の人から切り離し、それが判断する権力の源泉になる。「偉い(人より賢い)から判断する資格がある」というのは確かに神話としてはそうなんだけど実際は多分「違うから判断する資格がある」というのがそもそもで、「どう違うか」を描写するにあたって「僕たち赤だけどあの人青」って違い方じゃなぜその人に決定権を委ねるのかがよくわからなくなっちゃう。だからわかりやすくするために「だって僕たちよりかしこいでしょ」って…。
 …なんかこれは民衆による独裁者作りの話になってきた気がする(ある意味いまの学会なんかはそうなのかもしれないけど)。そうなるといわゆる軍人出身の独裁者とかにはまったくあてはまらないねこれ。

 ま、いまざっと考えたらこれが限界だけど、ちょっとこのテーマは面白いので引き続き考えようと思います。

悟ってしまったかも。いや小さなもんなんだけど、でもまさに言葉ではなく、腑に落ちた感じ。今朝まさに表題の部分を読んだ時に(あ、これまた「禅と日本文化」の茶道の章ね)まさに。
 とりあえず自分でも忘れたくないし、本道じゃないと知りつつ言葉にしてみる。

 「訓練を積み上げて訓練していないかのような音を出す」って数日前に重さんのライブの感想として書いたけど、これはそれを矛盾じゃないかと感じた自分の感想に対する回答なんだと思う。
 wikipediaの直観の箇所にも「『熟知している知の領域で持つ』即時的な知識の形式である」と(二重括弧は自分でつけましたよ)わざわざ前置きしているように、ああいった即興的な音楽を空間を察知して音を出す直観的な音楽であると言い換えるならば、やはり自由でいることが出来るのは熟知しているエリア(音域とか、自分の動きとか)の中でのみ。考えて弾くのではなく、感じて弾く…ていうとちょっとブルースリー的だけど、やはりそういうことなんだろうな、ということ。

 つまり。言葉にするとすっげー陳腐だけどやっぱり練習なんですわ。ひたすら音を出す練習。曲も「そういう曲で出す音(色)の練習」。全ては「音を出す練習」なんですきっと。それを繰り返して指と楽器の違いが無くなって、今僕がキーボード打ってるみたいに「こういう音が欲しい(キーボードだと頭の中で喋ってるだけで指の動きなんか考えないわけで)」って思った瞬間に音階も音色も全てぴたっとそれを出せるようになれば、初めて全ての色の絵の具がそろう。そしてそこから自由に描く。
 多分その途中でやっちゃいけないのが曲を弾きすぎることで、そうすると音が曲をひきずっちゃう。僕ギターだとそう。おいしそうなフレーズばっか弾いてたから手癖でそういうフレーズ弾いちゃって、逆にそこから外れることができない。

 やっぱ書くと陳腐だね。でもわかった気がしましたよ今日は、という話。


小ネタ

ねとらぼ: 「ジャレコ崩壊」? 不穏なカウントダウンが始まった
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0906/02/news083.html

瓦礫が壊れたって崩壊とは言わないよ、って言われてそうだね。
不振ジャレコに集結、ライブドア人脈の謎(1)
http://www.toyokeizai.net/business/strategy/detail/AC/b03debae79bcf0252e223cc40fd8205d/
YOZANだのジャックだのと愉快会社の名前が。そういや関係ないけど今日昼会社の近くでネクタイヤクザつうかまぁ単なるくさい成金なのかなんなのかを見ましたよ。昔名刺交換したことがありますわ。
 ああ今「哲学で博士号…」(http://urasoku.blog106.fc2.com/blog-entry-185.html)再読しててなんか思ったことを書いておこう。面白いと思ったのは以下の部分。


525 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。:2007/07/25(水) 21:12:44.16 ID:loJ2GJza0
ベンヤミンのアウラの消失という概念で現代社会を切り取ってなんか面白いこと言って。

>>525
現代社会は伝達の社会。また、人間は伝達をベースに生きている。
その中で手渡される表象は、コピーになってくる。
その場合、それ自体が持っていた神性のようなものが損なわれる。
世界のほとんどが、ニセモノになっていくということ。
「損なわれないアウラ」って概念は、現代芸術では絶対に必要じゃないかな。

545 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。:2007/07/25(水) 21:27:56.56 ID:loJ2GJza0
アウラの話ね。
それが言われたのってもう70年も前の話しなわけじゃない。
だからそれで現代2007年をみたら、なんか面白い意見が聞けるんじゃないかと
期待したんだけど。なんか思うところはないの?オリジナルな意見として。

>>545
んー、でもさ。
例えば、グレン・グールドっているじゃない。
録音でしか発表されなかったけど、あれにはアウラが無かっただろうか?
結局のところ、方法が変わって行くことには混乱はある。
でも、意外と対応できるくらい芸術って強いんじゃないか。


 この部分。僕は「世界のほとんどが、ニセモノになっていくということ」という部分には同意できない。完全なコピーであればどちらが本物かという議論をすることはナンセンスだから、単に「そこらじゅう本物だらけになって『本物であること』の価値が落ちていく」ということだと思っている。
 グールドの例についても価値が落ちなかったのは「グールドの録音」であって、たとえばトラの革を弾いた低い椅子に座ってうなりながらすごい演奏をする人が10人現れたとしたらきっと彼にまつわる神秘性(=アウラ?)は消えてなくなり、彼があそこまで評価されることはなかったと思う。そういうことじゃないのかなぁ…違う?そうした神話と初期の露出の一切がないままに録音だけでデビューしたらどうだったんだか。あ、ぼくグールドのゴルドベルク大好きですけどね。

 …またとっちらかった。

 いやこれからくるかもしれない面接について考えてたんです。で、志望理由として世界が多極化するのであれば極にいることよりも極同士をつなぐ場所(ハブ)にいたほうが楽しそう、みたいな話なんだけど、その中で単極、または少数だったときに比べ、極が多くなるとそれだけ「極であること」の意味というか価値が少なくなる(極の数が倍になったらそれぞれの「極であること」の価値は半分ではなく、それ以下になる)のかなぁ、みたいなことを考えていて。
 で、それって上のアウラの話なのかな、ってなんとなく思ったの。難しいこと言わなくなって、独自色ってやっぱおなじもんあったら独自とはいえなくなるよねぇ…ってホント簡単に言えちゃうな。まぁそんな感じ。

く…くいてえ

2009年5月5日 考え事
 飲食店アルバイト経験者ならば誰しも、客が食わなかったおいしげな料理を下げる際
①まだ食えるのにっ…
②こんなうまいもの残すなんてどういう教育されてきたんだこの豚野郎っ…
③この肉一切れいくらすると思ってるんだっ…
④腹減った…
などと歯を食いしばって考えた経験があろうかと思います。あの悔しさは相当なもんです。思わず食ったら首になりました。


 で、今日のNHK。食品ロスという言葉は知らなかった。廃棄されてる食品のことですね。農水省がこんなことに真面目に取り組んでいるなんて(失礼か)。世界びっくり旅行社(http://www.nhk.or.jp/travel/)でNY面白ツアーっていうのを取り上げていて、その中に飲食店から出たごみを集めて回ってみんなで料理しようぜ、ってツアーがありその背景説明の中で取り上げられていたのです。ちなみに番組中ではアメリカは(確か)4兆円くらい年に損が出ていて、日本は11兆円だよって言ってました。年収三百万円の森本センセーは産業全体が50兆くらいで2割くらいは損が出てるのでは?と言ってましたが…。
 ※ 人口(=胃袋の数)が半分にも関わらず日本がアメリカの倍も食料を無駄にしてるって数字自体はどう見ても怪しいですが、今回はこの点はパスします。出典がそれぞれ違った(日本は農水省、アメリカはどっかの大学)ので基準は絶対違うでしょうし、番組の趣旨として「アメリカすげー!」って話に持っていきたかったわけでもなさそうなので適当に似たような趣旨での調査の数字を集めてみたらおおっってだけかと。


 ここでちょっと横道にそれて食品産業って50兆なの・・・?というのを調べてみます。
http://www.ndl.go.jp/jp/data/theme/theme_honbun_102141.html
食品産業について調べるには

と思って検索したら一発でNDL(国立国会図書館)のコラムが出てきました。こんなんあるんだね…。相当大量のソースを押さえて書かれているようなので、非常に役に立つ感じ。これを斜め読みするだけで

-1世帯が1年に支出する食料費の平均は799,817円(平成17年)
-この数値は1世帯が1年に支出する総額の約25%を占める

とか面白いことがわかります。というかこれだけじゃなく、「~について調べたい場合はこれを見るといいですよ」情報がめちゃくちゃ載ってるのでこのサイト、お得です。ブクマしました。

 で、ここで得られた数値を。。。と思ったけど
①食品製造業の出荷額: 22兆8千億円
②食品卸売業の販売額: 42兆8千億円
③食品小売業の販売額: 41兆3千億円
のどの数字を使えばいいんでしょ?わかんない。最初と下ふたつは出典違うんだけど製造→卸→小売という段階だって意味で並べたのならば意味がわかんなすぎる。製造から卸になったときに売り上げが倍近く違うのがわからん。さらに卸から小売に行ったら下がるのもわからん。単に売り上げ比較なら①→②は原価率が5割ってことでわかるけど。。。あれどっかで俺勘違いしてる?
 まぁいいや、とりあえず①→②→③って流れだって仮定として、それなら最終的な消費一歩手前の③の額を使って、それに中食と外食の売り上げを足せばいいわけだ。

 外食はこのサイトの別のページから張ってあったリンク(http://www.fb-soken.com/page801-3.htm)にあったのでこの数字を使う。24兆7009億円(2007)が外食で5兆5,158億円(2006)が中食。

 で、じゃあ41.3兆と24.9兆と5.5兆…を足すと71.7かな?50に丸めるにはちょっと厳しいかな?オフィシャルなコメントでもないのでそんな厳密さを求めてもしかたないと思うのです。まぁとにかくこの数字と11兆を比べると…やっぱり15%とかにはなっちゃうんですね。ひええ。
 はい、寄り道終わり。


 で、じゃあこれってどうすりゃなくなるの?というところ。多分こんなん考え始めたら、というか答えが思いつくなら僕今すぐにでもこれで商売しますよ。でもだからってそれだけでおわっちゃほとんど横道だけで終わっちゃってるしな、ってことでいくつか。前提となる農水省の資料はこれ↓
http://www.maff.go.jp/j/soushoku/recycle/syoku_loss/pdf/gaiyou.pdf
食品ロスの現状とその削減に向けた対応方向について(農水省)

 自分がよく外食をすることもあり、以下は外食産業とあと食料品店のことについてぼんやり考えてみました。家庭から廃棄されるものも多い(飲食店と家庭を比べればきっと家庭の方が単純に消費量多そうよね、数が多いわけだから)だろうけどそれは食文化とかそういったかなり深いところも関係あるし、そこに外部から影響を与えていくのは非常に大変だと思うので…ってまぁどの道何か上手い解決が思いついたとかじゃないんだけどさ。


①加工前
 誰でも食い物の無駄をなくすということになれば、まず飲食店に客が来なかったから使わなかった食材とか店にならべた季節限定品のあまりとか、そういうものに目をむけると思います。調理しちゃったら混ぜられないし、それを誰かにってのは難しいもんね。上の農水省の資料には「フードバンク」という言葉が出てきていますが、ここは主に障害者などの施設へ規格外で出荷できない野菜などをつないでいるようです。これもひとつの解決法なのかな。
 フードバンクを東京で運営しているセカンドハーベストは僕もきいたことがあります。Jcastの記事(http://www.j-cast.com/2008/08/27025702.html)が珍しく?読みやすくまとまってますかね。
 ただ何らかの瑕疵があるのであれば価値=値段が下がるのは当然とはいえ、そして本当に困っている人からそういったものを受けるべきとは思うものの、なんか最大限悪い表現をすると「あまったからお前ら金ないならこれでも食っとけ」って感じに取れてしまってなんかすっきりしません。というかそんなアブない表現を使うまでもなく、これって価値直ちにゼロじゃなく、もう少し金になんないのかな?と思ったりします。だってここでやりとりされてる食料って要するに食料としては何の問題もないわけじゃないですか。ならばそれに値段がついてもおかしくないよね…。ま、いまのところ消費されてないことが問題なわけだからそこを気にしても仕方ないのかな?

 なんかここには余地がある気がします。とくにまったく問題のない食料を「仕込んだけど使い切れなかった」or「売り切れなかった」っていう理由で捨てているのだとすればこれが一番対応は簡単。マッチングをきちんとやれればよい(言うのが一番簡単というのはおいといて。。。)だけ。最近ITハードウエア業界では仮想化ってのが言われてるけど、ああいう考えを流用して地理的に便利な所にみんなの資源をまとめておいて必要な分だけ…ってそれが市場やんけ!って気もしてきた。自分で自分につっこんだ。
 市場という調節弁があるのにそれで最適されないのは仕入れ段階と使う段階での需要認識の差だよね。これどうにかならんのかな。仕込みってったって基礎的な段階ではまだ店ごとにそんなにばらつきはでないし、小さなものへ変化させるってのはできるはず…刻んだだけならペーストにしたりとか…。

 ②加工後
 こっちは主にレストランの話でしょうが、こりゃ難しい。どこの店も自分の店の料理を出してるんだからいくら同じティラミスだからってほかの店のと混ぜて誰かに出されても困る。食うほうもそんなもんだされても困る。だからこれは出すほうではなく食うほうが食いきるしかない。でもこれって食うほうにとっては結構簡単で、ドギーバッグをもっと使おう、ってだけなのよね。
 それとももっといいアイディアあるのかな?いやそりゃ根本的には食いきれないものを頼むのは最低だってのはあるんですが。いくら金払って楽しむために食ってるとはいえ、調理に間違いがない限りは出来るだけ食うべきですよねー。おなかいっぱいとかは全部食った後にこそ言っていいせりふ!

http://bizmakoto.jp/makoto/articles/0904/09/news037.html
「ドギーバッグ」って知ってる? これでもう恥ずかしくありません (1/2)

 あんまりドギーバッグってまだ知られてない気がします。というか実際自分の身の回りでそんな単語、きいたことないです。 でもこれって一番単純でわかりやすい方法。もっと広まらないかな。知名度が低いことと並んで、食中毒絡みの責任問題などがあって店に嫌がられる(というかめんどくさがられる)ことが多いのがネックです。一応

http://news.ameba.jp/domestic/2009/04/37169.html
食べ残し持ち帰りたい派は4人に3人

 いつもはアイシェアの調査結果なんてもの笑いの種にしかしないんですが、こんなときだけ紹介してみます。去年だかおととしだかのエコバッグじゃないけど、誰か有名人とかがデザインしてきゃーとかやればどうにかなんないかな?だめかな?
 ただそのドギーバッグを作るにもコスト(資源という意味でも)は必要なわけで、それが上回ってしまったらまったく意味ぷー。だからバッグ自体は値段をつけて売るのではなく、普通の紙(なりパルプなりなんかコストかからないもの)のペラペラのにして、店で原則無料で配って、そこに有名人のデザインかなんかを配す。で持ち帰るときだけそのバッグでもらえる、とかにすればプレミアム感…っていうと違うかな、ちょっと「そのときだけ」気分がでるでしょ。実際はやったとするときっとビックリマンチョコ現象(別:ライダーチップス現象、おまけだけ取って商品捨てるとかそういうの)が起こったりとかまた頭の悪い話になるんでしょうけどね。

 ちなみに飲食店だと
http://www.maff.go.jp/j/soushoku/recycle/syoku_loss/pdf/panf.pdf
のP8(元資料は「農林水産省「平成13年食品循環資源の再生利用等実態調査報告」」)によれば食べ残しが58%、仕込みすぎが39%が原因だそうです。このふたつでロスのほとんどが解消されるわけですわ。


■ 今日のお話参考資料
食品廃棄の現状について
http://www.ueno-fc.co.jp/foodsafety/pdf/shokuhin_haiki.pdf
※よくまとまってるけど「実は事業者よりも家庭のほうが食品廃棄量の多いことがわかっています。」という部分については上で書いたように母数が違うはずなのであれれ。その次のページで取り上げられているロス率で比べるなら「食材の利用が家庭では効率的に行われていない」ってこととかが言えるようになるので正しいのでしょうが。

 「ドギーバッグ」という新しいビジネス
http://www.aivy.co.jp/BLOG_TEST/nagasawa/b/2009/04/post_701.html

「膨大な食品廃棄と家庭料理の衰え」
http://blog.dandoweb.com/?eid=38653

ごはんを食べよう国民運動
http://www.gohan.gr.jp/kurashi/10.html

====================================

 あとここ数日海外留学について色々はてなまわりで盛り上がってるようで
日本に留まりたかったら、一度は留学しておくべき
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51206791.html

なんてdankogaiさんも書いていたりする。「日本人は基本的にエスニックアイデンティティが希薄で云々」ということは1000回くらい読んだ気がするし、実際僕自身そうだと思ってもいる(あ、正確にはこれは外国人との比較ではなく、自分とその周りで暮らす日本人の意識が希薄、という意味ね)。だから海外で暮らすことで自分の故郷を客観的に見たいというかほかと比較したいというか、そんな気持ちは常に持っています(だから今もこそこそと動き回っているわけで)。
 だけどどうなんでしょうね、今回の火元(http://www.chikawatanabe.com/blog/2009/04/future_of_japan.html)を読むとは「日本はもう駄目だから逃げるための船を用意しておけ」っていうような雰囲気な気がして、どうなのかなーって思いますよ、ええ。くらいのう。別に予測立てるのは勝手だけどさー。あ、でも確かに国としての活力はなくなっていくだろうし、彼女の言う「フランス型」にはなっていくかなとは思います。
 そして別の問題、現代国際社会では国同士がつながりすぎていて、そうそう簡単にはつぶれられないしとってかわれない。だから国としての活力を失ったとしてもスクラップアンドビルドでまったく新しい国づくり(今までの権力者全員吊るしてね)ってわけにはいかない。多分非合法かつ暴力的に政権を取得したらいかにその国の人民に支持されたとしても国際的に承認されないし。だからっていってそんなん合法的にやってたら日が暮れちゃって、結局何にも間に合わなかったりするのかもしれない、と思ったりしました。

人生リセットなら中国で留学し働け
http://blogmag.ascii.jp/china/2009/05/002718.html

関連のエントリでは↑がおもしろかったですよ。こんなんかいてええんかいな。中国ががもう「大国」としてはだめなんちゃうの?とは数年前から言われつつもなんだかんだ五輪も成功しちゃうし、仮に駄目になったからといっても10億人がいきなり地上から消え去るわけでもなく、確かになー、とは思います。もっと僕に冒険心があったらとってる選択肢かもねー。中国には興味があるわけで。

 ていうか今日も書くのに時間かかりすぎや。色々勉強になったけど。

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