社会科学において一番悩ましいのは(などとケンキューシャっぽい書き出しだけど)、パラメータを制御できない事であると思う。与える環境を制御できる実験室での実験が難しく、実社会での観察やら何やらがメインになると、「何が結果に影響しているのかわからない」という事が起こる。チケットが売れたのは、天気のせいか、場所のせいか、演目のせいか、はたまた出演者のせいなのだろうか? また、どうしても派手な現象の与える影響が大きい気になってしまうけど、実際は小さくて気付かないようなものが結果に大きな影響を与えていたりする。
 だから何が本当に結果にインパクトがあるのかを知るためには、可能な限りパラメータの少ないと思われる環境で実験を行い、また仮説を立てた上でパラメータをひとつだけ変えてみて、結果の差を見たりする。
 あとは泥臭いけど考えられる全てのパラメータをぶちこんで一個一個しらみつぶしにしていく、というのもPCの性能が高くなってきた今、結構現実的な手法ではある。小さい要素が大きな影響を与える事は否定はできないものの、やはり大きく目立つ要素が大きな影響を与える可能性の方が高いのは確かなわけで、ほかにどうにも方法がなければ、やってみる価値はある。

 そんな長い前置きを踏まえたうえで。 最近、ソーシャルゲームに興味がある。といっても当然ゲームとして興味があるわけではなく、その構造に。

http://gamez.itmedia.co.jp/games/articles/1012/21/news002.html
野島美保の“仮想世界”のビジネスデザイン:ユーザーがお金を払いやすくなる仕掛け――アイテム課金が優れている理由

 随分前の文章で、発表されたときも多分流し読みしたような記憶があるんだけど、残念ながらその時はあまりピンとこなかった。 でも改めて読み直して、「そもそもの使用価値がない」というソーシャルゲームのアイテムというのは実物ではあまり有り得ない性質を持っていて、これはもしかしたら僕のテーマを考える上で非常に便利なのではないか?と思ったのね。
 
 時々書くように、僕は「幸せ」という状態を作るにはどうしたらいいか、と言う事にとても関心がある。「幸せになる」と書かないのは、自分が幸せになる事と、他人を幸せにする(他人に「今自分は幸せ」と感じさせる)の両方に興味があるから。というかそこにそんなに差はないような気がするから。
 お金を含むほとんどのモノは、もっていない事で不幸を味わう感じる事はあっても、沢山持っていたからといって幸せを約束してくれるものではない、と思う。金を例に取れば、それがたくさんあると選択肢が増えるのは事実。家を買ったり、いい車に乗ったり。でもきっと(持ってないからしらないけど)わずらわしい事も沢山増えるような気がする。そもそも選択肢が増える事ということは「選択されないけれど魅力的な選択肢」を常に諦めながら進んでいかなければいけないということだとすると、やっぱり無条件にいいものとは思えない。
 この辺は最近どっかで書いた気がする(そして結構頻繁に例としてあげる気がする)「圧政下でのクーデターは威圧的な統治が和らいだ時に起きやすい」という話とつながっている気がする。完全にクソミソにやられている時は生きる事に必死で反抗する事なんてかんがえられない(というわけじゃないか…まあ立ち上がる気力がわかない)けど、希望が見えてくると立ち上がってしまう。まあその結果勝てればいいんだけど。あ、でもこの例自体は交絡のような気もしてます。反抗勢力の勢いが増してきたから圧政の手を緩めなければいけない、とかそういう別の隠れたトリガーがある、という、ね。

 まあそれはいいんだけど、とにかく「たくさんの選択肢から選ぶ権利」というのは一般的なイメージに反して、必ずしも幸せに直結しないと言う事をいいたいのね。
 逆に、選択肢がない、というのはその選択肢が悪いものでないのであれば、楽な生き方にも思える。選択肢がないのだから自分の意思が介入する余地はなく、自分の選択でないのだから結果が悪くても他人なり運なりを恨めば良い(恨んだ所で状況が好転するか、という話はおいとくとして…)。
 というかほとんどの選択というのはあとからの解釈でどうにでも結末を読みかえることができてしまう。宗教において自分に降りかかる不幸を「神からの試練」とか言っちゃうアレだ。そういった所からすると結局ひとつの価値観に基づいて結果を解釈してしまうのだから実際の選択肢である「右と左のどっちを選ぶか」は実はあんまり関係ないのかもしれない。

 
 話が多少ずれた気がする。話を戻すと、幸せというのは「何を選ぶか」ではなく「何に基づいて選ぶか」がはっきりしている事、つまり揺るぎのない価値観(判断基準)を持っていることであると僕は思っている。なんかトートロジーっぽいけど「自分はラッキーで恵まれていて、幸せである」と信じられる価値観を持つことが、幸せなんだと思う。

 では、自分が幸せであると信じるためにはどうすればよいのか?それには幸せに関する、もうひとつの側面というか要素が必要だと思う。それは「他人との比較」。僕も含めて人間は意地汚いものだから、結局自分への評価は周囲と比べて行う。幸せなんて特に形がないものだし。それとも優越感っていっちゃってもいいのか。自分より恵まれていない誰かを憐れみ、そこで自分が恵まれている事を再認識する、みたいな…うーん言葉にすると最悪っぽいな、でもそんなもんじゃない?全てがそうではないかもしれないけど、要素としては絶対に大きなものと思う。

 そして自分が他人より恵まれている事を自分に対して示す上で一番わかりやすいのは、視覚的な違いじゃないかな。背が高いとか耳たぶが大きいとかそういう身体的特徴だって自分で根拠さえ作れるなら自信の元になるけど、まあそれはなかなか難しいと思う(上のお金の例と同じく、足りない…例えば背が低いとか耳が聞こえないとかは不幸を強く感じる原因にはなりうるけどね)。
 これも極端な例かもしれないけど、キリスト教の信者にスティグマ(聖痕…キリストがはりつけになった時に杭を打たれた所にあざができたりするやつ)っぽいあざを持ってる人がいたとするなら、それは「もしかして俺選ばれちゃってるかも」と思う根拠になる。身体的な特徴に偏りたくないのでモノに話を戻してもいい。上のほうで「モノを持っている事は必ずしも幸せになることを意味しない」と書いておいてなんだけど、他人と違うモノを持っているというのはやっぱり幸せの一部を形作ると思う。それはモノの量ではなく、質の問題(だから上の話とは矛盾しない、といいたいんです)。例えば誰か好きな芸能人のサイン色紙とか、そういったもの。モノとしての価値ではなく、あくまでも精神的な意味合いとして、そういう目で見れるモノを持っていることが、幸せを形作る大きな要素のひとつではないかと思っている。


 ようやく話を収める方向にいくんだけど、ソーシャルゲームにおける課金アイテムってそもそもデジタルデータだからモノとしての価値はゼロ。そのくせゲーム内の貨幣ならともかく、他にいくらでも「有意義」な使い道がある現金を遣ってでも欲しくなったりする人がいるくらい、価値を感じている人が結構いる。AKBの投票権つきCDでもいいんだけどあれには一応CDとしての価値というのもあるし、曲としての価値に加えてモノなんだからフリスビーして遊んだり、まあモノとしての価値だってある。それが価格と釣り合っているかは勿論別の話として…。だから、この価値ゼロのものを考えていく事によってもしかしたら心の中での価値の生成プロセスみたいなものができるんじゃないかなと思うのです…まだ考えられてないけどね。


 ずれ。
 最近時々ご飯する相手の話。この人とは話は結構あうんだけど、感覚が全くあわない。最近この話を会う人会う人にしているけど、その一番が食欲。その人は食も細いんだけど、とにかく食べることにまったく興味がなさそう。何食べても美味しいって言ってる記憶がない。別にまずという顔をするわけじゃなく、単に興味がないのね。今まで僕の周りにいた人でそういう人がいなかったんで新鮮…っていうのはなんか表現がねー、よくないとおもうんだけど。皮肉じゃなくて。
 あと、その人は(すんごい細かいけど)、毎回ナイフを逆に置く。向かい合ってるとしたら、僕のほうに刃をむけるのね。これって右手にフォーク、左手にナイフで食べるのと同じくらいマナーとしては有り得ないと思いつつ、でもホント俺細かいな、と思う。というか自分にとってそんなことが気になるなんて、今まで知らなかった(いや、正確には去年一回あったけど…多分その時も書いた)。
 んで懲りずにこないだご飯を食べている時に、僕の友達に占める女子の比率の話から、寝るってどう言う事なのかね、みたいな話に(よく覚えてないけどありがちな「男女の友情はあるのか」みたいな話から流れたんだと思う)。僕はあまりセックスを「いつでもしたい楽しいもの」と思っていないので、逆にお互い気分が乗れば付き合ってるとかじゃなくたってすればいいんじゃないそういう気分の時もあるし、とかっていうわりと投げやりな事を言った所、彼女は「へー、道化さんってすごい自信あるんですね!」って言ったんですね。自分はコンプレックスが強いからよっぽど信頼できる相手じゃないと無理だと。なんつー話をそれこそ付き合ってもいない相手としてるんだ、という話は置いておくとしてなんかそれ聞いてダメだわと思ったんですわ。つうかセックスに自信あるって何?相手を篭絡するテクニック?寝ただけで惚れ直してくれたりすんの?俺下手だからそういう経験ないだけ?
 …つう話も置いておくとしよう。いやその時どうしようもない気分になったのは正直自分でもなんでだかうまく説明できない(というかよくわかってないのかも)んだけど、お前その年で夢見てんのか、って思った…のかなあ…。よっぽどその場で「んじゃ今晩試してみる?」みたいな流れにもっていこうかと思いましたよ。いや、実際はその台詞聞いた瞬間帰りたくなったんですけど。
 
 なんつーのかなー、まあ三大欲求の内の食欲と性欲の感覚があわなきゃ、もう他の何が合致したって無理じゃねえ?って話ですよね。せっかく話があう相手にたまに好意を向けられてもここまでダメだともうどうにもこうにもできないんじゃないかと思うのです。
 ああ別に書く必要もない気がするけど、そもそもセックスをする回数以上に、それについてベッドの外で話をするという経験が自分に薄いのかもなあ…。あなたとはまだ寝る関係でもないのになんでそんな話するんだという引きかたを、もしかしたらしたのかもしれません。

コメント

saphir
2012年6月17日21:32

人の認知は差異によってでしか感じられず物事の事実は解釈によって真実として残る。

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

この日記について

日記内を検索