…自動詞的な意味で。今朝最寄り駅で歩いていたらふと向いのホームに電車が入ってくるのが目に入って、飛びたくなりました。やばいっす。いや残念ながらマジね。前書いたかもしれないけど、以前鬱だった時に同じような気分になったことがあって、それ以来だから…多分8年ぶりとかでしょうか。

 前の時も思ったんだけど、少なくとも僕の中では本当に死のうとすることって全然ハードルが高いことではありません。というか正確には「死のう」というより例えば今回なら「ホームを踏み外そう、結果的に死ぬけど」みたいな感じで、さらにハードルが低い。普段は忘れてるからそんな気にはならないんだけど、思いつめた末にとかじゃないです。単に歩き始める時にどっちの足を先に出すかって程度の話で、だからこそ自分でもこわい。いつでも出来てしまうことを自分でしばるのはね。
 
 そんなわけで、そんなに体調が悪いわけではなかったけれど「頭が痛い」と言い張って帰ってきました。いや精神的にはショックだったのでめためただったのは本当なんですが。帰りも怖くて本当はタクシー使って帰ってこようかと思ったんですがさすがにそれは金がねえ、という現実的な問題で、本読んでなるべく周りを見ないようにして、駅から家まではタクシーというコースで。つれえ。
 ああ今「哲学で博士号…」(http://urasoku.blog106.fc2.com/blog-entry-185.html)再読しててなんか思ったことを書いておこう。面白いと思ったのは以下の部分。


525 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。:2007/07/25(水) 21:12:44.16 ID:loJ2GJza0
ベンヤミンのアウラの消失という概念で現代社会を切り取ってなんか面白いこと言って。

>>525
現代社会は伝達の社会。また、人間は伝達をベースに生きている。
その中で手渡される表象は、コピーになってくる。
その場合、それ自体が持っていた神性のようなものが損なわれる。
世界のほとんどが、ニセモノになっていくということ。
「損なわれないアウラ」って概念は、現代芸術では絶対に必要じゃないかな。

545 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。:2007/07/25(水) 21:27:56.56 ID:loJ2GJza0
アウラの話ね。
それが言われたのってもう70年も前の話しなわけじゃない。
だからそれで現代2007年をみたら、なんか面白い意見が聞けるんじゃないかと
期待したんだけど。なんか思うところはないの?オリジナルな意見として。

>>545
んー、でもさ。
例えば、グレン・グールドっているじゃない。
録音でしか発表されなかったけど、あれにはアウラが無かっただろうか?
結局のところ、方法が変わって行くことには混乱はある。
でも、意外と対応できるくらい芸術って強いんじゃないか。


 この部分。僕は「世界のほとんどが、ニセモノになっていくということ」という部分には同意できない。完全なコピーであればどちらが本物かという議論をすることはナンセンスだから、単に「そこらじゅう本物だらけになって『本物であること』の価値が落ちていく」ということだと思っている。
 グールドの例についても価値が落ちなかったのは「グールドの録音」であって、たとえばトラの革を弾いた低い椅子に座ってうなりながらすごい演奏をする人が10人現れたとしたらきっと彼にまつわる神秘性(=アウラ?)は消えてなくなり、彼があそこまで評価されることはなかったと思う。そういうことじゃないのかなぁ…違う?そうした神話と初期の露出の一切がないままに録音だけでデビューしたらどうだったんだか。あ、ぼくグールドのゴルドベルク大好きですけどね。

 …またとっちらかった。

 いやこれからくるかもしれない面接について考えてたんです。で、志望理由として世界が多極化するのであれば極にいることよりも極同士をつなぐ場所(ハブ)にいたほうが楽しそう、みたいな話なんだけど、その中で単極、または少数だったときに比べ、極が多くなるとそれだけ「極であること」の意味というか価値が少なくなる(極の数が倍になったらそれぞれの「極であること」の価値は半分ではなく、それ以下になる)のかなぁ、みたいなことを考えていて。
 で、それって上のアウラの話なのかな、ってなんとなく思ったの。難しいこと言わなくなって、独自色ってやっぱおなじもんあったら独自とはいえなくなるよねぇ…ってホント簡単に言えちゃうな。まぁそんな感じ。

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