幾つかのプロパガンダ方策(自分用メモ)

・中傷
 ある観念に悪いレッテルを貼り、従って証拠も調べないでそれを拒否したり非難したりする事

・きらめく一般化
 なにかを「値打ちのある言葉」と結び付けて、証拠も調べないでそれを受け入れたり承認したりする事

・転移
 なにか尊敬されているものの尊さと威光を他のものへ移して、そのものが受け入れられるようにする事。また軽蔑されているものと何かを組ませて、そのものが拒否されるようにする事

・証言
 だれか尊敬又は嫌悪されているものに、ある特定の観念、活動計画、製品、人物を、よいとか、または悪いといわせる事

・一般人
 話し手が自分や自分の観念は「一般民衆」「一般人」のものだからよいのだと受け手に信じさせる方法

・カード切り
 ある観念、計画、人物、または製品をできるだけよく、あるいは悪く説明するために、事実又は虚偽を、例証するものまたは混乱させるものを、論理的な説明又は非論理的な生命を、選別して利用する事

・大勢に便乗(沈黙の螺旋理論?)
 「だれでもー少なくともわれわれはみんなーそうしている」ということで、それによって集団のメンバーに対して、仲間はその計画を受け入れつつあるので、取り残されるよりも便乗した方がよいと信じさせる事

 〜1937年11月 月刊「プロパガンダ分析」より(出典は「大衆操作(原題:Propaganda and Persuasion)」だったかな)。 

 「プロパガンダ」という言葉にはとかく悪いイメージがつきまという。この本によればPRとの差はプロパガンダはそれを行使するものの利益になるように相手を説得する行動であり、必ずしもそれが相手の利益になるかどうかは関係がない所にあるらしい。

 しかし両者に本当に差などあるのか?PRは企業広報の基本などといわれるが要するにPRを行うのだって企業の利の為。前の文に「企業」と「消費者」という言葉を当てはめてみればこの構図はなにも変わらない事がよくわかる。コンプライアンスなどという横文字が流行ってるみたいだけどそれはお笑いではないのか?

 なんとなく、ただなんとなくプロパガンダという言葉にはダーティーなイメージが押し付けられ、その代わりにPR(Public Rilations)というあたかも情報の受け手と送り手が対等であるかのような言葉が出てきただけだ。まぁ、プロパガンダという言葉は戦時に良く使われ、そういった暗いイメージを背負っているも新しい言葉が使われる原因となったのかもしれない(ビジネス界では兵隊用語を使うのが大好き、という話もあるのだが…)。

 大衆はブタだ、等と神竜(うわやっぱオタクだ)の真似をするつもりはないが人間が集団(=それを蔑して「大衆」と呼ぶわけだが)を形成した場合、むしろ愚鈍という意味での豚ではなく死に急ぐレミングスに成り下がるのであろう。勿論これは自分のみを外野に置いた自惚れではなく個人として如何に優れていようともどのような例外もなく、である。本質的に人に走り始めたネズミは止められないしそれに加わりたい欲求も抑えられないのだ。

 物事の決定をするときに如何に集団がおかしな決定を下すか、という事については「影響力の武器」に詳しい。たかだか日記を書くのに文献を参照するのは面倒なのでうろ覚えで書いちゃうけど確か人は集まる事で直接的な危機感が薄れ、代わりに万能感が強まるからリスキーな選択をしがちである、らしい。

 ならば一人の万能の神がすべてを決める事が理想か、と言われればそれに依存していた人間が狂った神の神託に右往左往するという話は星新一(の場合は大概機械だが)を読めば飽きるほど載っている。それにそもそも現代、まだそんな任せられる人間以上の機械は存在しない。カスパーもバルタザールもメルキオールもまだまだ登場には何年も必要である。言うまでもないが、一人の人間に任せられるわけもない。キリストの生まれ変わりが中国で既に生まれているらしいが(確かソースはノストラダムスの大予言・笑)。

 しかし「みんなで決める」という事は必ずしも正しくはないという事実があるのは確かで残念ながら集団で物事を決定する上で著しく邪魔、というか役に立たない人間がいるのもまた確かである。アメリカでは裁判で被告が大手企業だと陪審のやっかみから懲罰的賠償金が異常な額になっているような現実もある(アメリカの陪審制度については最近の映画「ニューオルリンズトライアル」が面白い。単に映画としても面白いし陪審制の現実についてもえぐられている…ように思う。だって陪審なんて体験した事ないから断言はできないさ。ただ新たな視点は与えてくれたような。)。
 要するに(相対的な)賢者が集まって構成する集団ならば何の問題もないが結局人間ははじめから同じではなく、「平等」という幻想の元に集団を構成してみると結局エラく大変である、という事。極論すれば愚者が大半を占める国では愚者の意見を代表する愚者がトップになる、というのは正しいのかという話。

 そうそう、つまり僕はあえて「少数又は個人によるセンドウ(扇動、先導)〜なんて書いてたのは清涼院だっけか〜」を容認したいのだ。いや容認ではないか。
 独裁の何が問題か(感情的な問題じゃなくてね)、(ここで中断、何が問題かわからなくなってきたのでS水と相談)独裁者が、例えばヒトラーがユダヤ人を殺したのは別に独裁とは関係のない事である。ただ独裁者が無理な独裁を続ける為には常に見せしめの反対者が必要だし全く関係がない、とまでは言えないかもしれないが…。成功した絶対王制も存在する(徳川吉宗等は一応その部類ではないか)。前述した「万能者」が存在しない以上これはただの机上の空論といえるわけだが小1時間話して見つかったのは「取替えがきかない」という事。集団は構成人員を変える事を否定していない(選挙とか)ので失敗に向かいつつあると皆が思えばそれを変えればいい、ただ独裁者は一端失敗すると誰にもブレーキは掛けられない。まぁ失敗しない独裁者を前提としているのでこの辺で袋小路に入るわけだけど。失敗しなければ独裁者はいいのです。

 むむ、「吉宗とか」って自分で書いて思ったけど江戸幕府ってかなり成功した独裁の形態じゃない?300年続いた上に最後も別に処刑とかされずに今でも逆に尊敬されてるくらい。勿論お手打ちとかあっただろうし今の人間からすると不合理に思えることなんて沢山あったんだろうけど。あれは組織と個人で支配したのがよかったのかな?

 ねむい。


 三十年後にネットを漂っているときに偶然この文を見つけたい。

きょうのにっき

2004年10月1日 日常
 …いやはや真面目に書きすぎた。

 授業開始。二限、なんと少人数のクラスに久しぶりのGMが。相変らず仕草が可愛い。あーつうか自分の周囲って運動系ってあんまいないしさ。まぁともかく帰り道にちょっとお喋り。

 自己批判します。自分は常在戦場の心得を忘れていました。2限終わったら髪切るつもりで寝癖だしぼさぼさ。汗止めも塗ってませんでした。いやだって別に誰とも会う約束なかったし。誰とも会わずに一言も交わさずに帰るつもりだったし。
 コレがいけない。どこでいい子が見てるかわからないんですよ>俺。あーどういう人間だと思われたんだ?

  まぁ兎に角三限使って髪切って坊主に近づき、四限寝ながら受けて本日は終了。あ、自動車学校が割合ぼろぼろだった。

そんな一日。

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