この本は、いい。例によってまだ読み途中だけど、いい。自分に対してタイムリーだったってのもあるけども。

 この本の最初、まぁこの辺しかまだしっかり読んでいないのだけれど、では「何故伝統宗教が力を失い、新興宗教が魅力を増してきた(入信者を伸ばしてきた)のか」という問いが立てられている。

 それに対してこの井上さんは社会の情報化(情報へのアクセサビリティの上昇)によって「宗教者でないのにその宗教に詳しくなる」事が可能になり神性が失われた(専門知の逆転の可能性)、情報の相対化とインターネットに伴う蓄積された歴史の無意味化(この辺は極論として、であるけれども)といった事を理由として述べている。
 このことについて述べている文中、神社と寺の差についてわからない学生が云々というくだりがある。それは彼によれば「たとえ眼前にあっても、意識されなければないに等しい(P82)」という事であるが僕にとってこれは至言であった。

 これは彼の別の言葉を使えば「風景化」という事になる。情報の風景化はまさに僕が求めていた言葉だった。水曜親戚に「例えばD通に入ってステルスでキャンペーンを仕掛けたとして、特にあの会社は何もやっていなくても疑われるくらいそういう目で見られている会社だし完全に隠すのは無理、特に業界人なら誰でも知ってるってな事になるだろうけどそれでいいのか?」と問われ、答えに窮した。というかそれでもいい理由はあったが説明できなかったというのが正しい。
 しかしこの風景化、というのがそこにとてもはまる言葉だと思う。つまりこれだけ情報過多な時代に生きていれば(特にそういう産業、マスメディアなど勝手に情報が入ってくるような場所で生きている人種にとって)情報は耳に入るだけでは価値になりえない。昔からマスコミについてはそういわれていたが今はその次元が普通の人にまで降りてきている(アメリカ人は一日平均どれくらいの広告を見ているか…という調査があったはず。見つけ出せないけど)。その中では勿論面白いもの、自分に利益を与えてくれるものが選別されていくのは当然の流れだろう。

 だから、あの時僕は「今は知られる事自体はあまり危険なことではない、興味を惹いてしまう事こそが危険なのだ」と彼に言うべきだったのだ。どうやって情報を森に紛れさせるか、という事になれば思い出されるのはディーバーシステム。ベトナム戦争当時の次席補佐官だかが考え出したもので要するに「加工済みで直ぐ転用できるデータを大量にばら撒く事によって思考が介在する必要性を減らし、結果的に政権寄りの情報のみが取り上げられるようにマスメディアを操作(誘導)する」というもの。速報性やそもそも情報への飢餓性などからマスメディアは完成された(検証など手間がかかる方法を省ける)情報があるならそれに飛びつくという仕掛けだった(らしい)。
 攻撃の為にディスインフォメーションを行う(流す)事も大切だが(何にだよ笑)守備の為にチャフ(レーダーかく乱の為に撒くアルミの切れっ端)のように大量の誤導情報を撒くってのも情報戦には勿論、色々な事に必要だろうなと思った今日この頃。例えば僕はいま商売で某サンダルをやっているわけだけど、もしそれの追い上げを脅威と感じた同業他社(まぁ例えばナイ○とか)がいたならばやる事はとにかくなんでも…キーホルダーでもいいから新製品をだしたりだとかでゴミでもいいからよく出来た(というのはまぁこういうニュースは精度に対する責任がマスコミにないからあまり重要視しなくてもいいのかもしれないが)ニュースを量産して垂れ流す事なのだろう、という事。

 ちなみにここまで読んだ中で一番インパクトがあったのは「現代社会において、どこが一番生命に危険かを知るために、死んだ場所を調べたら、病院のベッドが一番危険である事がわかった」っていう引用、大笑い。

今日の俺名言

2005年12月20日 考え事
"貨幣社会において娯楽性にしか存在意義がないものはピエロへの道を辿るしかない。"

 現代アート批判の中で僕が述べた言葉。つまり映像やらなにやらコピーが容易に出来てしまうものが発明されてしまって芸術の手から印刷やらなにやらは離れていってしまった現代において残るのは純粋な娯楽性のみ。それは笑いを伴う単純な娯楽である場合もあるだろうしチテキコウキシンとやらをこちょこちょするちょっと複雑なものもある。説得学的に言えば後者は両面提示なだけで別に本質は変わりない。どちらにしろそれは結果としてお金を得る事に安易に通じていく。
 まぁ簡単に商業主義的に、と言ってもいいんだろうけど僕がここで言いたいのはハリウッドがどんなに金に漬かってるか、っていう事じゃない。彼らは自分の事を芸術の人間だとは思っていないはずだ。あ、英語でアートはもっと軽い意味だろうからそういう意味では必ずしも当てはまらないとは言わないけれど。そうじゃなくていわゆるムズカシイ「芸術」ね。

 ピエロ、という表現は適切ではないかもしれない。ただ芸術家はその芸術が実用性を失うと共に他の娯楽と同列に自らを貶め貨幣とのバランスを失ったのではないか、と言いたかったのですここでは。他のものと代替性が出来た時点で固有の魅力が無いことが露呈するわけですからね。あとはどれだけ尻尾振って自分の方に向いてもらうか、という事になってしまう。おおPRだ!…じゃなくて…

 あ、この話の前提はその芸術家がプロであること。自分の作品だけで食っていこうとした場合には迎合せねば生きていけない、って事です要するに。

 あ、これに絡んで自分の昔の書き込みを掘っていたら出てきました「根菜類」。文脈とか見えない部分の方が大きいアートの事を言うんだそうです。「根菜アート」という言葉をこれからも広めていきたいと思います。

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