なんか二回連続で"「」"使ってるなあと今気づきました。まぁ息をするようにあまり考えないように書いているんだから、そういうこともあるでしょう。うん。って単なる呼吸の割には時間かかりすぎやね。しかしなんか昼間だってのにねむい。


 「物語」。これって多分打海文三さんの作品のどこか忘れたけどでも割と頻繁に出てきていた言葉で、記憶によると(要するに正確でない可能性がとてもたかいのだけれど)毎回批判的に、時には陳腐である、といった評も添えられて、「自分の立場や行いを過去何回も繰り返されたような流れに当てはめて思考を放棄する(または自己陶酔や憐憫)こと」を指して使われていた気がする。いやこの説明は言い換えになってないから指してという表現はおかしい気もするけど、まぁとにかくそういう細かいことはいいとしてくださいよ。

 ここではある種のテンプレートに自らをはめ込むことで思考・判断を放棄して、この先に生まれ得るものを否定することを批判しているのだけれど、あれこれって何かに似てない?という話。
 ひとつはポストモダンの「大きな物語」とかっていうアレ。僕はまったく詳しくないけどどうやらそれは例えば神話とか言い伝えとかの形をとった規範とかのことを指しているようで、「判断基準や責任をテンプレートにいわば『委託』して『思考という重労働』を避ける」という意味では共通点あるなあ、という。「思考という重労働」ってのはエジソンおじさんの言らしいですが。ただ打海さんの「物語」というのは別にかみさまとかみたいに大きい存在に、というだけではなさそうなので「大きな」物語と書いてしまうとぴったりではないかもしれないのだけれども。

 もうひとつ近似。過去に何度か書いている「カチッ、サー」の話。要するにチャルディーニの「影響力の武器」の話。…ってか今日カッコ多すぎじゃないか文章に。

http://42583.diarynote.jp/200805042313470000/
幸せの形について

 三年前くらいに書いていた上記なんかがまさにそうなんだけど、これはどっちかっていうとテンプレート肯定っぽいな。仮に人生が判断の結果の累積によって形作られるものでありさらにここで書いているように信じることが幸せを生むのならば、裏返せば現状に不満を持ったその時に過去の判断に疑問を持つことがそのまま自分の幸福感への不信になってしまうということになる。ならば判断を疑わないことがその分かれ目になるのだろう(ここで間違ってはいけないのはそれは「判断を誤らない」ことではないということ)。


 んーなんか考えが流れなくなってきた。要するに、「物事の正確性や真実の追究」と幸福というのはとても高い確率で相容れないのではないかということを書きたかったのかな。
 上の文章でもひいていたように、身の回りで起こるすべての個別のことに関してすべて思考して判断するというのはものすごい(時間にしても気力にしても)コストで、それは現実的ではない。だからといってそういったことをテンプレートに委託してしまうと大雑把には正しくても、その事案の個別性は無視されてしまう。その相克の話?
 ああそう、繰り返し「コストがかかる」って書いてて気づいたけど、じゃあもしかしたら幸福ってのはコストがかからない状態である、という言いかえができるのかもしれない。でも決して「幸せとはストレスから開放された楽な状態である」とはいいたくないんだよなあ。いやいいたくないというか違う気がする。なんか明確には反論できないけど。
 このトピックは数週間に書いたサピア=ウォーフ仮説の話とかとも関連していて、考え出すと結構大きなテーマな気はするんだけど飲んでるか眠いかの時しか向かっていないこの場では永遠に収束しない気がします。思考が。


 別の話。一昨日夜突然バイトちゃんから連絡があり「明日お時間ありますか」と。あー、あれですかキタコレですか別れ話ですか、と明言されんでも思いっきり予想ができたのですが会ってみたらやっぱりそうでした。ついていけん、と。まぁかなりやばいな、というのは感じていたのは確か(日本語のできなさ具合とか)で、それを考えればこっちから宣告する前に自分から言い出してくれたのはこっちの精神的負担からすればもしかしたらありがとうなのかもしれないけど、でもそれにしたってなんていうか後味よくないものは残りますわね。人事ってつらい商売やなーって思った瞬間でした。
 あとこれは完全に自分の事情だけどそもそも上下がはっきりしない会社において新入りの若い僕がアシスタントを持つだけで色々面倒っぽかったのにそれが1ヶ月で辞めちゃうと色々思われるよねまた。「やっぱガイシから来た人は人の切り方もダイナミック!」みたいな。あーめんどい。

 あーめんどい。

 先週は大恩ある前職の先輩が最終日ってんで前職職場に潜り込んでいろんなことを言われたり泥酔者を搬出したりお片付け手伝ったり色々でした。毎日飲んでいた気がする。
 その時ふと思ったけど、大げさな話じゃなく、いいチームだったかって何年越しの再会であったとしても役割分担をすることなしにすぐに有機的に動けることなんだよねきっと。その時やったのは単なるパーティの後片付けなんだけど、誰が何をするなんて誰も言わないけどその場所の状況を見て個々が判断してバッティングもせず人手も余らず。ああこういう感覚だよな、って思ったのでした。勿論会わない間にいろんな変化はあったりするわけでメンバーの今の能力の100%有効活用ではないかもしれないけど、少なくともお互いの過去のある時点での能力は把握していて、その時の動き方ではきっちり仕事ができる。

 今日はNYいきの準備などして過ごそうと思ったりしています。ねむい。

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