【ちょうぬむい】

 最近異様に偶然知人とばったり会います。ぼくはしぬのでしょうか。

 今日、会社の電話を取ったら懐かしい声だったのです。名乗る苗字も心当たりがあり、しかしまさか…と思って電話を取り次いだ相手に後から確認したらやっぱり知り合い。というか大学時代のサークルの後輩。僕が編曲した曲を何回か弾くように強要したり色々しましたよあの子には…ということで早速メールしてみたりしたのでした。元気みたいで。ちなみにこの子とは卒業以来多分会ってな…いかと思いきやそういやKくんとシンガポール行くための会議してた帰りに実はすれちがったけど面倒というかモチベーションが足りずに気づかない振りしてやりすごしたのでした。

 こないだ偽名さんと会った日は待ち合わせ前にぶらぶらしていたら元族かつ高校の同級生であるハゲ+友人に会って、偽名さんと電車に乗って彼女が降りていったと思ったら同じ扉から取引先のおっさん登場とか。同じ日に二人。

 あとなんだっけな、その前の日も、そのさらに3日位前も知り合いに会ったんだよね・・・ああこれが思い出せないとこの記事の意味がない…。とりあえず最近町を歩くと知り合いに会う、って雰囲気になっているわけです。いや毎日じゃなくても一ヶ月に知り合いに偶然5人もあえば十分じゃないですか?いや、今日の子は会ってはいないけど(しかし来週の現場で一緒になるらしい)。ああそうだ、一人は前の会社の先輩だ。

 最近Chatpadで上海人に会って、MSNメッセンジャーに移行して交流が続いている。べらぼうに日本語がうまく、打鍵が早い。学部時代日本留学しただけらしいんだけど…。あ、でも僕の数少ない中国人知り合いの中でぬきんでて日本語がうまいアンさんとチャット上で共通の違和感(よく「ほおおおおおお」とか使う)があるのは面白いなと思う。発音(例えば韓国人は破裂音だっけ、がうまく発音できないとか)ってのは母国語にひきづられているという意味でとても自然だと思うんだけど、そういう言い回し?に特徴が出るってのもそういう所が元なのかな?・・・ってサンプル数2じゃ説得力ないですね。ちなみにハルビンの近く出身らしいですが。


 さて、その上海人と音楽の話をしていて、クラシックは全然しらないから一曲紹介しろといわれてチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を紹介したのです。んでしばらく聞かせたあとに「で、これのストーリーは何?」という質問をされた、というのが今日の話。
 音楽にストーリーって何意味ワカンネって聞いたら「例えば『梁山伯と祝英台』とかは言い伝えを元にしているから起承転結あるでしょ」って言われて(梁山伯と祝英台、通称梁祝は中国で一番有名な中国人作曲家の手によるヴァイオリン協奏曲)。梁祝なんてなんで知ってるねんというのはおいとくとして、あーなるほどーと思ったですよ。
 普段クラシックを聞かずポップスを主に聴いている人にとっては歌詞があるのが自然で、それがないというだけで結構聞きづらいと言ったりするのは認識してた(わざわざ「インスト」って呼ぶなよみたいな)。でもそれを一段掘り下げると歌詞がある歌ってのは要するにテーマというかいいたい事…振られて悲しいとか…があるってことなんだよ。だからそれに対する共感とか反感とか、何かしら軸に対しての態度のとり方ってのが比較的簡単に選べるのかも。
 翻っていわゆるクラシックっていうのは標題があるものだとしても、長ったらしいストーリーはないものが多い。「運命」って言ったところでじゃあ最初のノック(だだだだーん)以外のどこが運命なのよ?なんかある人が自分の宿命に立ち向かって病気とでも闘って弱ってでも跳ね返して最終的に勝利するって話なのかという話で(ちなみに一応wikipediaでは確認したけど「運命」についてはベートーヴェンがつけた名前ではないのでこれは「標題」とは言わない。誰かが勝手につけた「表題」だね)。あるとしたら交響詩はそういうものなのかな?あまり聞かないからよく知らないけど。例えばショパンの子犬のワルツだって別に物語があるわけじゃなくて、あのちょろちょろした…ってこれも多分「表題」だな…。
 
 そんなわけで、話を戻してヴァイオリン協奏曲は「音楽のための音楽」っていうことになるのか?と思うとそれって結構普通に考えてとっつきにくいよな…と思うわけです。何か芸術に接する時についついコンテクストから考えてしまうというのは慣れた人でもおちいりがち…というか特に「現代~」と呼ばれるある種の作品には批判の対象であったり何かしら外部の芸術や事象に依存していてコンテクストなしでは成り立たなかったり意味を成さなかったりする(例えばデュシャンの泉とか)場合すらもあるのは理解していつつも僕はそれがとても嫌いなんだけどまぁそれはおいとくとして、曲を聴く前、または聴きながらでも良いんだけど(さっき書いたことにも重複してるけど)何かを軸にそこから意味づけしていくというのは自分にとって意味づけがしやすいんだよねきっと。音楽を音楽として聴く、というのはある種のスキルなのかもしれないと思うわけ。

 とか言ってじゃあ自分がそのスキルを持ち合わせているかというと怪しくて、というか多分足りない。それが現われているのが比較的最近の交響曲が苦手、というところ。クラシックの交響曲というのは一般的に時代を下るにつれて縦にも(大編成)横にも(演奏時間)長くなってきている(理由はめんどいのではしょる)。
 縦に長いというのはヴァイオリンで出てきた主題がピッコロで出てきて、それを展開したものがオーボエで出てきた後にチェロに戻ってくる、みたいな事を意味するし、横に長いというのはその主題が随分後になって、時には楽章をまたいで帰ってくることを意味する。曲というのが基本的にはいくつかの主題とその展開をベースに作られていることが多いとするならば、その主題をちゃんと感じられるかどうかというのが「ひとつの曲を聞いているという感覚」を得るための重要な鍵であるわけ。メロディはでてこなくても同じコード進行だなーとか、コードまでわからなくても伴奏一緒だ、とか。それを統一された「曲」として感じるというのは、ひとつの聞くほうのスキルなんです多分。
 
 でもそうやって長大になった曲では、いくつもある主題なりモチーフがいやらしい形で忘れた頃に帰ってくることが多い。作るほうも単純に再現するだけでは芸がないと思うのか何度かずらしたり位なら良いけど例えばどっかの曲では主題をそのまま逆から(右から左へ、ってことねドレミーって主題ならミレドーって)弾く、みたいなことをやっていたりして甚だわかりづらい。しかも時代が下るとそのマニアック度合いがどんどんインフレしていってる(気がする)。だから僕はそういう曲を聞いても同じ楽章内であってもそれがひとつの曲だという確信がもてないことが多くて、「曲を聞いてる」のではなくてもっと短いフレーズ単位でしか耳に入ってこない。まったく全体が見えない、想像がつかない中で曲を聞くというのが非常な苦行なのです。

 ちょっとそれてる気もするけど、僕にとってはそういう音楽的な「お約束」に従った展開がある曲であれば最初を聞けばおおまかな展開がある程度想像できて(例えば知らない曲を早送りで2,3分ごとくらいにとめながら聴いても一番盛り上がってる部分は割合確信をもって拾える場合が多い。楽器の使い方とかでもわかる)、だから安心して曲を聞き続けられるし、逆にそれが想像できないほど複雑な曲は生理的に駄目って話。そして要するにそれってコンテクストだとか、ストーリーだとかと根は同じなのかもと思いましたということです。その場その場で流れて去っていく音楽を集中して聴いてその積み上げで全体像を把握するというのはもしかしたらとても難しくて、誰しも何かを手がかりに「自分は今全体のどこ(別に何楽章の何小節という意味じゃなく)を聞いている」というのを考えなきゃ不安なものなのかな、と。
- NYの計画をつめる(宿、移動、チケット取る)
- ペンキ塗る
- ごみを捨てよう
- 足元をかたす
- 事業計画をもう少し煮詰める
- ヴァイオリン弾く
- 大阪行くのか問い合わせる
- DVDデッキ直すor修理に出す
- 靴を磨く
- 爪を切りそろえる
- 本をまた捨てる

思いついたら追記
 という話は外資にいるとどこにでも英語が出来るだけで上に行くバルーンヘッドな人を罵る時に誰しも使う言葉なわけですが(ええ一社しか知らないのに一般化してますよ今)、まさかうちの会社にそんな子がいようとは。「子」という所でまぁ薄々、なんでしょうけれども、その正体はバイトちゃんでした。
 僕自身ちゃんと部下を持つのは初めて、社会人として教育するのもはじめて、ということで実際はそういうことも結構あるという話なのかもしれないのに俺だけ不幸って気分なのかもしれないと自分を慰めるのですが、いやいやそれにしてもトゥマッチでしょう。いやこれが社会人スタートラインの標準であってはほしくない。
 しかしこれも学ばされるというか、偽名ちゃんに「世の中には意外に証拠もなく信じていることがある」というような事を自覚させられたのと同様、勉強になることでもあります。だって一応日本語のように見える文字列が文法的にどうか、なんて普段考えないでしょう。変だったり程度の低い文章を見たらなんとなく違和感があるから読むのをやめる、というだけのはず。それを一文節一文節解体していくと「あー普段俺ってこう考えてるんだ」とかふむふむなわけです。いやもうなんていうかあきれるを通り越してそういう楽しみ見つけないとやっていられないわけなんですけどね。皮肉っちゃ皮肉。でも思うところあるのも事実。

 確かにバイトちゃんが今在籍してる大学は英語教育で鳴らしてるところだし、留学経験あり。で本人も留学から帰ってきたばかりだから…とか言ってるんだけど残念ながら多分そんな浅いことが原因じゃない。というか1年やそこら使わなかった程度で言葉は崩れませんて。例…と言ってもあんまり思い出せないんだけど「~であるからである」みたいな重複とか「雑誌に乗る」みたいな誤変換(まぁこれはよくあるから許さないでもない)、絶対にペアでしか出てこない表現の片方の欠落、存在しない表現。

 この子日本語の喋りも聞き取りもだめ。「電話はあんまりしないので緊張しちゃって…」とか今時の子っぽい事言ってるけどとにかく相手の名前が聞き取れない。母音もあってない名前を言う事が多い…何を聞いてるんだ?と思うんだけど。そういう所を見るとそもそも文章力とかの問題じゃなく申し訳ないけど頭が悪いというか日本語を理解する能力が低いのかな、と思ったりもする。耳から入った音を言葉にすら出来なかったら考えて言葉を書くなんて無理だもんね…。単に電話機の設定とか耳が悪いとか、そういうことであってほしいんだけど。昨日勤務開始一ヶ月ということでレビューと称してちょっといろいろ話あったんだけど、その時ついでに「翻訳は日→英の方が得意です」なんてことも言われた。10年以上暮らしてた人に言われるならなんとなく納得できるけど、理由が「英語の方が言い回しがシンプルで」とかになってくると日本語というより言葉のセンスがひょっとしたら皆無なんじゃないかと思ったりするのです。棒みたいな翻訳なら機械翻訳かませば誰にでも出来るわけで。英語の能力がどの程度あるのかまだよくわからないけど、それにしたってそりゃあ相当自信ないといえない台詞だよね…と思ってしまうわけ。


 そんな鬱々とした最近でした。かわいい子なんで面と向かって悪いこというの辛いんだけど(ええ、残念ながらというか世の中にはそういう仕事上の指摘をしているだけでこっちが悪者な気分になってくるような人がいるんですね…差別というなら言え)、どうしよーという感じ。
 僕自身大学のときから現場に叩き込まれてあっぷあっぷしながらいろいろ覚えたという事もあり、きっとあの頃は迷惑掛けまくってただろうし、そりゃあ思い出すだけで赤面みたいな話もあるので勝手に期待して勝手に失望してはいけないと戒めつつ、いやーいやーいやーとも思うわけです。どうしよ。とりあえずそんな中でサバイヴした自分の教訓は「一個だけでもほかの誰も出来ない特技を主張できれば他がどんなに未熟でも存在を許してもらえる」ということだったので、そんな事を伝えたりしていました。伝わったかわからないけど、次の数ヶ月でそれが見えなければ一緒に働くことはできない、ということでもあります。さて…。あ、そもそも期待値が高すぎたんじゃん?ってのはその通りかもしれませんがね。


 まぁ愚痴ばっかりもよくないのでその他のこと。来週はお盆休み、特に出勤する必要もなさそう。とはいえ別になんの予定もないのでたまってる「いつやってもいい仕事」を片付けるためにちょっと出ようとは思っていて、しかしそれ以外はなにするかねえ、ハイシーズンだから何をするにも高いでしょうし。ちょっと山篭りも考えているけど、そんながっつりな所じゃなく人がいなくてぼおっとできるところというのを探すのはなんか難しいと本屋で思いました。そりゃ本に載っちゃった山が静かでいられるわけないもんなぁ…。かといってgoogle先生に「静か 山 登る」とか入れてもねえ。どうなの。
 前は海外というと一人で行ってばっかりだったからいろいろ考えるきっかけになったりもしたんだけど最近は行き先に人がいたり一緒に行く人がいたりあまり孤独な感じがせず、そういうことも少なくなっていて。だからこその山なんだけどね。

感想:特に最後の映画は見たくなりました。楽しんで読めたけどこれをきっかけに深く考えたりするような事は残念ながら見つけられず、そういった意味ではふつーに読めてしまった。


 僕は基本的に、仕事と関係ない部分で難しい本を読むことも、難しいことを考えることもあまり、ありません。ビジネス書やら新聞(たまに)やら、そういうものは読むこともあるけれど、テツガクとかシャカイガクとかブンガクとか学問的なものはまず読みません。まじめにすればいいのは仕事だけで、なんでそれが終わったり休みな日にまでそんな頭つかわなにゃならんねん、と思っています。
 かといって本来まじめな本が嫌いなわけではなく、特に自分の長年考えていることに近いものに関しては興味はあるので食いついて行きたいと思ってはいるけれど、結局疲れた、とか面倒、とかありふれたそんなことなんでしょう。

 そんな僕ですが、最近なぜかガクモン的な人がまわりにちらほら現れたり変な球を投げてきたりするもので、ちょいちょい読んだり、思考したりしています。
 きっかけのひとつはまたChatpad。ドイツの聞いたこともない(歩き方には載ってた)住んでいるという日本人と会ったのだけれど、なんでそんな話になったのかよくわからないけど言語や文法とナショナリズムの関連とかフーコーとかそんな話を長々と朝まで語り合って、結局Skypeに移行して昨日も同じようなディープな話を。時差があって相当眠い中でこんな自分にしては極限まじめな話をするのはつらいんだけどね。


 その中で語られたいくつかのトピックのうち、僕を特に刺激したのが言語的相対論(相対性理論じゃないよ、時々間違えるけど)の話。サピア=ウォーフ仮説というのが有名らしいのだけれど、一言でいえば「思考は言語によって規定される」というものらしい。伊藤計劃「虐殺器官」のWikipediaの項目に関連として挙げられていたから知った、という恥ずかしい知り方(いや、一応名前は聞いたことはあったんだけど…って言い訳してもねえ)だったんだけど、確かに読んでみると作中に出てくる概念はまさに言語的相対論をSF的に飛躍させたものでやっぱりこの本、名作やなあ…というのはまあ置いといて。

 まだちゃんと文献をあたっていないのでもしかしたらまったく的外れなのかもしれないけれど、「無意識は存在するのか」みたいな方向になってしまうとこの話題はつまらないと思う。無意識が少しでもある、となればそれに基づいた行動は当然言語にも基づかないことになっちゃうからね。それより、
http://it1127.cocolog-nifty.com/it1127/2005/11/post_340b.html

で例として挙げられているようなイヌイットの雪の種類の話なんかは本来言語学の範囲なんだろうけど、サピア=ウォーフ仮説はどこの学部で研究してるんだろう?もちろん言語学はひとつの候補だけど哲学とか認知心理とかとも関係ある気がするし…まぁそれもおいとくか。
 ただイヌイットの話や虹の色の話は基本的に受けた刺激をどう認識するか、という話で、それを観察者に知らせるためには当然、言語を媒介としなければいけない。だから「言語によって影響を受けたか」なんて観測することは不可能。対照実験ができないし。
 そうではなく、未だ起こっていないことなどを思考する場合を想定して「媒介するものによって(たとえ発信者が一緒でも)伝わるメッセージが変わる」という考え方に立ち(ただしこれも受信者が誰かによって変わるという話も当然あって、でもそれはいまは無視)一段上に抽象化して「言語もそのメッセージを伝えるビークルである」と考えると、なんかそれってメディオロジーみたいな話とも似た構造なのかもしれないと思ったり、それって観念論なのかそれとももっと踏み込んだ唯心論なのか、そこら辺と結びつくと主観って最強じゃね?俺がないと思ったものはないよ?みたいな話になってくるのかなーと思ったりして面白いんじゃないかなと思うわけ。ただ、この種の話は結局立証不能なので思考のおもちゃ以上のものではない、ということも同時に思うんだけどね。でもそれでもちょっと違うジャンルだと思ってた人が一枚はぐと同じこといってるじゃん!とかって発見するのは楽しいですよね。うん。

…あれ?なに書こうとしたんだっけ。なんか言語が思考を縛ることができるなら言語によって行動を縛ることもできるかもねー、みたいな話もしてたので、その辺にいきつきたかったのかもね。


ま、いっか。 


追記:「型にはめることで効率を上げたり理解しやすくする」というのは悪なのか?というようなことを書きたかった気がするけど眠いんで寝ます
 NY,ほんとにいけるんでしょうか。上司にメールしたけど返事なしです。見事にシカトくらってますね。でも最終的には承認が降りるという希望的観測の元、計画を立てようと思います。意外ともう日もないのです。

 でもなんか前回行ったとき買った気がするガイドブックが見当たらないのとなんとなくぼんやり考えてるとうっかりしそうなので、ちょっとメモ書き。

でも書き始めた横でチャットしてたらあっという間に4時間くらい過ぎて気力がすべて消費されたのであとで追記。ていうか宿が異常に高い…。

 今回いきたいころは。
1)NYフィル(Sep7or8)
http://nyphil.org/attend/season/index.cfm?page=eventDetail&eventNum=2330&seasonNum=11
West side Storyの初演から50年らしく、それを記念して映画流しながらNYPが生演奏というコンサートがあるようで。本当は10日夜にアラン/NYPでマーラーの復活をやるらしいんだけど、後述のようにDCにいる気がするので多分無理。パブリックビューイングもやるようなんだけど。


2)Fashion’s Nightout(Sep8)
http://fashionsnightout.com/fno

最近始まったらしいファッション系イベント。そもそもこの時期NYはFashionWeekなんだけど、それにかぶせて店を遅くまで開けて、いろんなイベントやって楽しもうぜ!みたいな。去年表参道でやった、という話は知ってたんだけど元々がNYだとは知りませんでした。なんかすげー楽しそう。


3)DC(多分9から10、もしくは10から11?)
ホワイトハウス、スミソニアン、ナショナルギャラリー、アーリントン、FBI本部あたりかな。管理人さんと多分一緒。


4)911関連
一応今回の旅の目的は10年になる911のその日、を体感すること。

http://manhattan.about.com/od/september11th2001/a/911memorial.htm

突入が始まった8時46分にはWTC跡地で黙祷などがささげられるようです。あと夜にはなんかライトでパフォーマンスをやるとか。


4)グッゲンハイムとMoMA、メトロポリタン美術館
こないだ結局いけなかったからね。

6)ブルーノート
http://www.bluenote.net/newyork/schedule/

行きたいんだけど、出るのがJon Regen(知らない)とRegina Carterってのがなあ…

「確信」を疑う

2011年8月28日 日常
 (シードルだけ)

 また間が空いてしまった…最近Skypeチャットの頻度が高く、しかも意味もなくというか日本・ドイツ・中国・アメリカに相手が散らばっていて従ってタイムゾーンもばらばらでこっちが終わるとあっちがいい具合の時間…とかそんな具合でまとまった時間がとれず。って別にこんな程度の日記書くのにまとまった時間とる必要もない気はするんだけど、なんかいつもいろんなことと平行しながら書くってやりかただから、チャットしながらはさすがに無理だし(相手もタイプが速い人が多い)、結果的に長いPC接触時間が必要なのですよ。

 さて、最近は仕事が鬼のように暇です。この暇具合は何?ってくらい暇。去年もなんか鬼暇な時期があって自分の首の心配をした気がするんだけど、もしかしたら同じ時期なのかな…定かじゃあないけれど。まぁ10月になればコンサートシーズンということでそれなりに忙しくなってくるんでしょうけれども、とにかく今は始業からどうやって時間をつぶそうかが一番悩ましいという見方によってはうらやましいかもしれないけど実際は拷問な毎日です。でもこういう普段の仕事に追われない時というのがその実新しいことを考えるための大切な時間だというのは忙しい時にはいつも考えているのに暇になると忘れがちなので、刻み込んでおこうと思います。ええ、思うんですけれども、なんでそんな暇なのに休み消化しちゃいけないんだろう…。

 ま、いいけど。

 そう、その秋休みの件。さんざか揉めて、「いったん断ったじゃん笑」みたいな事まで言われたんだけど結局は勝ち取れました。申請書出して駄目押しに「お願いしますね?」って言ったら普通皮肉のひとつくらいで通ると思うじゃないですか、代休なんだし。別に1ヶ月いませんって話でもないんだし。という感じだったもんで上司と相当冷えた感じが不安…。そして、1日削られました。だから結局現地滞在4日になるのかな。アメリカって、遠いよ。…って言ったら船で行ってた人にバーカって言われそうだけどさ。でも久しぶりのアメリカで、それがとても楽しみ。
 アメリカが好きな理由っていうのはヨーロッパと違ってとても言葉にしづらい。ヨーロッパだと「あの雰囲気が」とか特定の場所とかそういうことをいえるんだけど、そういうわけではない。そして安心できるかというと、別にそこまででもない。実際のところ治安やらという意味では安心ではない部分も(特にNYは)あるわけだし、なんでなんだろうなあ…。って西海岸はともかくNYは一回しか行ってないわけでそんだけで「アメリカ好き」とかくくっちゃうのもどうなの、って話もあるんだろうけどね…でもそういうこと言い出すときりがないという話もある。
 話はそれるようだけれど、最近よく「上海だけみて『中国は!』とかわかった風な口をきくな」といった言葉をネット上で見ることがあって、そんなこと言っちゃったら特に国土が広くてしかも文化が多様(日本が一様というわけでもないけどさ)な国については国という単位で語ることは現実的に不可能ってことになるよねーとか思ったりもするわけです。便利だからそうくくってるだけでそれを受け手も了解した上で読む分には悪くはないんじゃないかなあと思うんだけど…まあでもそういう批判を受ける記事やらはそもそも上海事情としてすら正確じゃない内容だったりすることもあるようだから、もうそりゃそこがだめだったらしょうがないんだけどさ。

 そうだ、アップデートメモ。
8日
可能だったらMoMA→Fashion’s Night Out(Shanhai Tang) →NYP(1930-2200?)→Fashion’s Night Out(五番街ぶらぶら?)
※NY Fashion weekの期間中だしどっかで招待状ゲットできひんやろか。
※滞在期間中の食料調達
※どっかで地図を手に入れて工程表つくんなきゃ。

9日
朝からDCへ移動。昼すぎ着。同行者の希望によりホロコースト博物館と…なんだっけ。

10日
一泊して朝散歩がてらホワイトハウスやらモニュメントやらリンカーンセンター(だっけ)。そして午前のうちに航空宇宙博物館。夕方NYCへ帰着。夜はステーキ食べる。

11日
朝グランドゼロへ。昼はBlueNote?あとグッゲンハイムかなあ。一応これが唯一ほぼフルに自由に使える日なので、大事に(=だらだら?)したいなと思っていつつ。

12日
朝ちょろっとちょろちょろする時間はあるけど、フライト1時半とかだから10時半とかにはでないと。


…ここまで書くので力尽きた上にFacebookでチャットはじめちゃって文字打つ気力がさらに飛ばされていったりしました。とりあえず何が書きたかったかって自分はある種の事柄に対して結構(ある種理屈じゃないという意味で宗教的な)確信を持っていて、しかもそれが理屈にかなってないし他人に説明できないと思っている面があって。それがよくないな、と思ったんですな。「特定の立場や事柄に固執しないこと」それ自体は文字にしてしまえば当たり前なんだけど(ところでこの「文字にしたら当たり前」「その時固有の条件をはずしてあくまで一般論としていえば」という時の感覚にかっこよい名前がほしい)…っていうか「固執」って言葉自体が既にネガティブなニュアンスを含んでるってこともあるし。

 ああそれた。

 ま、そういうことですよ。常に決定は責任ある思考の結果であってほしいな、という事なんです。自らのことで「ほしいな」もなにもないもんだけど。


 あーレコード会社の人たちと朝まで飲んだ話とか書きたかったけどもうだめ、限界。

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