最近わたし、まじめ。
2011年8月15日 考え事
感想:特に最後の映画は見たくなりました。楽しんで読めたけどこれをきっかけに深く考えたりするような事は残念ながら見つけられず、そういった意味ではふつーに読めてしまった。
僕は基本的に、仕事と関係ない部分で難しい本を読むことも、難しいことを考えることもあまり、ありません。ビジネス書やら新聞(たまに)やら、そういうものは読むこともあるけれど、テツガクとかシャカイガクとかブンガクとか学問的なものはまず読みません。まじめにすればいいのは仕事だけで、なんでそれが終わったり休みな日にまでそんな頭つかわなにゃならんねん、と思っています。
かといって本来まじめな本が嫌いなわけではなく、特に自分の長年考えていることに近いものに関しては興味はあるので食いついて行きたいと思ってはいるけれど、結局疲れた、とか面倒、とかありふれたそんなことなんでしょう。
そんな僕ですが、最近なぜかガクモン的な人がまわりにちらほら現れたり変な球を投げてきたりするもので、ちょいちょい読んだり、思考したりしています。
きっかけのひとつはまたChatpad。ドイツの聞いたこともない(歩き方には載ってた)住んでいるという日本人と会ったのだけれど、なんでそんな話になったのかよくわからないけど言語や文法とナショナリズムの関連とかフーコーとかそんな話を長々と朝まで語り合って、結局Skypeに移行して昨日も同じようなディープな話を。時差があって相当眠い中でこんな自分にしては極限まじめな話をするのはつらいんだけどね。
その中で語られたいくつかのトピックのうち、僕を特に刺激したのが言語的相対論(相対性理論じゃないよ、時々間違えるけど)の話。サピア=ウォーフ仮説というのが有名らしいのだけれど、一言でいえば「思考は言語によって規定される」というものらしい。伊藤計劃「虐殺器官」のWikipediaの項目に関連として挙げられていたから知った、という恥ずかしい知り方(いや、一応名前は聞いたことはあったんだけど…って言い訳してもねえ)だったんだけど、確かに読んでみると作中に出てくる概念はまさに言語的相対論をSF的に飛躍させたものでやっぱりこの本、名作やなあ…というのはまあ置いといて。
まだちゃんと文献をあたっていないのでもしかしたらまったく的外れなのかもしれないけれど、「無意識は存在するのか」みたいな方向になってしまうとこの話題はつまらないと思う。無意識が少しでもある、となればそれに基づいた行動は当然言語にも基づかないことになっちゃうからね。それより、
http://it1127.cocolog-nifty.com/it1127/2005/11/post_340b.html
で例として挙げられているようなイヌイットの雪の種類の話なんかは本来言語学の範囲なんだろうけど、サピア=ウォーフ仮説はどこの学部で研究してるんだろう?もちろん言語学はひとつの候補だけど哲学とか認知心理とかとも関係ある気がするし…まぁそれもおいとくか。
ただイヌイットの話や虹の色の話は基本的に受けた刺激をどう認識するか、という話で、それを観察者に知らせるためには当然、言語を媒介としなければいけない。だから「言語によって影響を受けたか」なんて観測することは不可能。対照実験ができないし。
そうではなく、未だ起こっていないことなどを思考する場合を想定して「媒介するものによって(たとえ発信者が一緒でも)伝わるメッセージが変わる」という考え方に立ち(ただしこれも受信者が誰かによって変わるという話も当然あって、でもそれはいまは無視)一段上に抽象化して「言語もそのメッセージを伝えるビークルである」と考えると、なんかそれってメディオロジーみたいな話とも似た構造なのかもしれないと思ったり、それって観念論なのかそれとももっと踏み込んだ唯心論なのか、そこら辺と結びつくと主観って最強じゃね?俺がないと思ったものはないよ?みたいな話になってくるのかなーと思ったりして面白いんじゃないかなと思うわけ。ただ、この種の話は結局立証不能なので思考のおもちゃ以上のものではない、ということも同時に思うんだけどね。でもそれでもちょっと違うジャンルだと思ってた人が一枚はぐと同じこといってるじゃん!とかって発見するのは楽しいですよね。うん。
…あれ?なに書こうとしたんだっけ。なんか言語が思考を縛ることができるなら言語によって行動を縛ることもできるかもねー、みたいな話もしてたので、その辺にいきつきたかったのかもね。
ま、いっか。
追記:「型にはめることで効率を上げたり理解しやすくする」というのは悪なのか?というようなことを書きたかった気がするけど眠いんで寝ます
僕は基本的に、仕事と関係ない部分で難しい本を読むことも、難しいことを考えることもあまり、ありません。ビジネス書やら新聞(たまに)やら、そういうものは読むこともあるけれど、テツガクとかシャカイガクとかブンガクとか学問的なものはまず読みません。まじめにすればいいのは仕事だけで、なんでそれが終わったり休みな日にまでそんな頭つかわなにゃならんねん、と思っています。
かといって本来まじめな本が嫌いなわけではなく、特に自分の長年考えていることに近いものに関しては興味はあるので食いついて行きたいと思ってはいるけれど、結局疲れた、とか面倒、とかありふれたそんなことなんでしょう。
そんな僕ですが、最近なぜかガクモン的な人がまわりにちらほら現れたり変な球を投げてきたりするもので、ちょいちょい読んだり、思考したりしています。
きっかけのひとつはまたChatpad。ドイツの聞いたこともない(歩き方には載ってた)住んでいるという日本人と会ったのだけれど、なんでそんな話になったのかよくわからないけど言語や文法とナショナリズムの関連とかフーコーとかそんな話を長々と朝まで語り合って、結局Skypeに移行して昨日も同じようなディープな話を。時差があって相当眠い中でこんな自分にしては極限まじめな話をするのはつらいんだけどね。
その中で語られたいくつかのトピックのうち、僕を特に刺激したのが言語的相対論(相対性理論じゃないよ、時々間違えるけど)の話。サピア=ウォーフ仮説というのが有名らしいのだけれど、一言でいえば「思考は言語によって規定される」というものらしい。伊藤計劃「虐殺器官」のWikipediaの項目に関連として挙げられていたから知った、という恥ずかしい知り方(いや、一応名前は聞いたことはあったんだけど…って言い訳してもねえ)だったんだけど、確かに読んでみると作中に出てくる概念はまさに言語的相対論をSF的に飛躍させたものでやっぱりこの本、名作やなあ…というのはまあ置いといて。
まだちゃんと文献をあたっていないのでもしかしたらまったく的外れなのかもしれないけれど、「無意識は存在するのか」みたいな方向になってしまうとこの話題はつまらないと思う。無意識が少しでもある、となればそれに基づいた行動は当然言語にも基づかないことになっちゃうからね。それより、
http://it1127.cocolog-nifty.com/it1127/2005/11/post_340b.html
で例として挙げられているようなイヌイットの雪の種類の話なんかは本来言語学の範囲なんだろうけど、サピア=ウォーフ仮説はどこの学部で研究してるんだろう?もちろん言語学はひとつの候補だけど哲学とか認知心理とかとも関係ある気がするし…まぁそれもおいとくか。
ただイヌイットの話や虹の色の話は基本的に受けた刺激をどう認識するか、という話で、それを観察者に知らせるためには当然、言語を媒介としなければいけない。だから「言語によって影響を受けたか」なんて観測することは不可能。対照実験ができないし。
そうではなく、未だ起こっていないことなどを思考する場合を想定して「媒介するものによって(たとえ発信者が一緒でも)伝わるメッセージが変わる」という考え方に立ち(ただしこれも受信者が誰かによって変わるという話も当然あって、でもそれはいまは無視)一段上に抽象化して「言語もそのメッセージを伝えるビークルである」と考えると、なんかそれってメディオロジーみたいな話とも似た構造なのかもしれないと思ったり、それって観念論なのかそれとももっと踏み込んだ唯心論なのか、そこら辺と結びつくと主観って最強じゃね?俺がないと思ったものはないよ?みたいな話になってくるのかなーと思ったりして面白いんじゃないかなと思うわけ。ただ、この種の話は結局立証不能なので思考のおもちゃ以上のものではない、ということも同時に思うんだけどね。でもそれでもちょっと違うジャンルだと思ってた人が一枚はぐと同じこといってるじゃん!とかって発見するのは楽しいですよね。うん。
…あれ?なに書こうとしたんだっけ。なんか言語が思考を縛ることができるなら言語によって行動を縛ることもできるかもねー、みたいな話もしてたので、その辺にいきつきたかったのかもね。
ま、いっか。
追記:「型にはめることで効率を上げたり理解しやすくする」というのは悪なのか?というようなことを書きたかった気がするけど眠いんで寝ます