さて、今日の授業は某ノンフィクション作家の講演であった。まぁ声が低くてかっこいい意外はたいした事のない作家で(あ、今文壇に喧嘩売ったね僕)話もたいして面白くなかった、といいたいところなのだけれど幾つかためになる(というか僕が実践するように気をつけている事だったのだけれど)事を言っていたのでメモメモ。

 インタビューという作業について。日常会話というのはほとんどインタビューのようなものでそういう意味ではみんなインタビュアーの訓練をしているようなものだ(という趣旨であったように思う。ここら辺はコーラ飲みながら三島由紀夫読んでたので記憶不明確)。では自分たち話を訊くプロと何が違うかと言えばインタビューされる人が知っている事を喋らせるのは簡単なこと(喋りたくない事は喋らないかもしれないが…たとえば容疑者に本当にやったのか言わせる、など)だが自分ら(「いいインタビュアー」という表現だったかもしれない)
が出来るのは対象が思ってもいなかったことを喋らせる事、つまりインタビューによって引き出す事だ、といった事である、といった内容。

 まぁこれには半分同意するところがあって彼が言っていたようにカウンセラーなんかと喋るってのはまさにこれが目的なわけです。自分で無意識に触れたくなくてガードしてる部分に気付くだとかまぁ色々あって(あ、すっぽかしてもう半年位じゃね?俺ちゃんと治療の終結まで行ったことないかも笑)。結局「カウンセラーが病気を治すわけじゃない」というのは一面の真実を含んだ言い方で、彼らはうまいアシスタントなわけですね(しかし場合によっては必要不可欠なアシスタントなのでそう言って馬鹿にするのはまったく筋違い)。

 ただ半分賛成というからにはこれには半分反対な部分がありまして、簡単に書けば結局人間の記憶って鮮やかな所しか残ってなくて後は結構どうでもいいパーツの使いまわしだったりするわけです。もちろんあんまりにも鮮烈で、それゆえに全てを覚えてる場面も人生にはあったりするわけだけれどそれは数少ないからこそ覚えているわけで。まぁ惰性で生きているわけですよね。僕なんか人の顔覚えられないのもそう。会えば思い出す、ってのは多分顔全体を覚える事を放棄してるのです。鼻とかあごのラインとかまぁ適当にピンポイントだけで覚えて
るんですね。余談ですが僕が「似てる」と言った人の同意はほとんど得られません。きっと見てるポイントが違うんでしょうね。
 だから埋まってない部分っていうのは想像で滑らかに補強されていく。僕自身、カウンセリングの場ですらすらと喋った事が後からまったく理解できないというか納得できないような事だったことが何度もあります。これってまぁ体験した本人が喋ってる、しかもカウンセリングだったりすると客観的に立証しようもないようなフィーリングだったりするわけでいわなきゃ別にそれが嘘だとは思わないのだろうけれど…まぁ実体験から引っかかっていたわけです。事前に後からインタビューされる事がわかっていればちゃんと覚えていられるんだろうけれど。

 ちなみにこの人は一番の近作では山に登った夫婦の話を書いたんですが旅程を3回丸ごと聞きなおしたそうです。上に書いたような…つまり要旨以外のどうでもいいことまですべて丹念に聞くのが彼の手法らしく(映像が浮かぶまで、ってな表現をしてました)。これはまぁ別の…たしかインタビュアーの文脈で言ってた「情報を得ようとするのではなく相手のすべてを理解しようとする人は滅多にいない」と言った事ともつながるように思えます。山が舞台の登場人物二人の事だからできた、とも言っていましたが。

 ま、これを聞いていて「閉じた完全な世界」を作る事について。僕はこれを書くためのメモで「アトモスフィア→能動的に必要でないもの→映像で理解する」という風に書いていますがつまり…ああ上手く落とせない…とにかくプランナーっぽいな、と思ったんですこの人が。

 最近まぁ研修を受けたりしたりして感じたこと、理解できたこととしてプランナーは「世界を創る仕事」なんですね(非常に自分の中で興味があることなので後日改めて書くでしょうが…しかも多分自分がここに書いたのも忘れて笑)。勿論全く関係してこないものには対応できない不完全な箱庭なわけなんですがそれでもそのブランドを包むアトモスフィア(Rは"Universe"とも言ってましたが)を創るんですよ。擬似的な「宇宙」を創るというのはどんなに細かい事にでも対応できなければならないわけです。なんていえばいいのかな、「言いたいことだけを言う」のではなく「何を聞かれても答えられる」状態じゃないといけないというか。真にそのブランドがLivelyでなくてはならない。
 CMのキャラクターに裏設定があるのは勿論マニアを喜ばせる仕掛けでもありますがそれ以外に絶対にキャラクターに厚みを持たせる、という意味があると僕は思います。ベニヤに書かれた絵が如何に精巧だろうと正面から見てても人は気づいてしまうものなのです。商品を見て、それから類推できない事でもまず決めてしまわなければいけないのです。「山に登って23日目の昼に何を食べましたか?」って聞かれて「思い出せない」ではだめなんです。思い出せなくても「ん、カレー」と答えられなくては。瞬時(じゃなくてもいいんでしょうが)に整合性のあるまさに「世界」を創らなければならない。真実であるかないかはたいした問題ではないのです。
 ちなみにこの事を僕はインターンの修了レポートでペプシマンの裏設定を例に引いて書きました。彼はNASAが回収した隕石にくっついてた液体金属か何かで、ある日NASAの研究者が飲んでて彼?の上にペプシをこぼしてしまい、それであんな形になったんだそうです。そんな事、ペプシマニアでも知りたがらないでしょう。でもこれは彼のキャラクターを開発チーム、代理店と勿論メーカーの人など、が共有するために作られたのかもしれないのです。本当の意味での…裏メニューみたいな裏ですな。
 一つの言葉は硬いものでそれ以外に広がりません。大概意味も一つしかない。しかしいくつもの言葉で作られたあいまいなでしかし確固たる方向を持つイメージは理解することが比較的容易で共有しやすいものです。感覚で理解できれば別に難しい理屈はいらないのですから。前僕がインターンの時に飯に連れてってくれたプランナーは仕事の難しさについて「カスタマーサービスのパートのおばちゃんでも理解(ここでは共有、の意味ですね。別に馬鹿にしているのではなく「専門ではない」ちという文脈なので…)できるようなインサイトを創るのが難しい」とい
うような事を言っていました。まさにそうだと思います。

 まぁ今日は授業のあとの暇つぶしに書いていたら筆が進んでしまった、という感じなのでこの辺にしておきますが…(もう時間迫ってるし)。僕はプランナーという職業は(何度も書いてるけど)そのブランドにおける神だと思ってるのでみんながなんでなりたがらないのか全く不思議なわけですが…なんでなんでしょうね。まぁ究極の虚業だとは思います。虚ろを生み出す職業ですから。

 あ、多分次書くときは「プランナーとニヒリズム」について。だと思います。今思いついたけど時間がない。しかしここ(学校のPC)、トリガープルが重い…疲れる…(何の話だ)。

お気に入り日記の更新

この日記について

日記内を検索