ラベリング

2011年7月23日 考え事
 多分短い。

 偽名の人のことを考えていたわけではなく、まったく別にうちのバイトちゃんに「道化さん学生時代どんな研究してたんですか」とか訊かれて、色々話していたわけです。定番の仏舎利の話とか。んで、自分でその言を総括しようとして「結局ものそのものの価値じゃなくてラベリングによって人からの評価が変わるってことの面白さについて調べたかった」とかって発現したのです。

 で、あーこれ偽名の人がたくさん偽名を生み出してるロジックともしかしたら一緒かなとさっきシャワー浴びながらふと思ったのでメモ。氏名ってまさに典型的なラベルなわけで、それをいじることによって中身(自分自身)を変えずにいろんな自分になれる。望むなら矛盾するさまざまなものを内包した複雑だけど統合された自分ではなく、ピュアなひとつだけの性質傾向を持っているたくさんの自分というものを生み出すことが出来るって。自分の中に存在するひとつの傾向だけを出すというのは当然自分の一部を切り出す=絶対量(経験とかの)が落ちる事にもなるんだけど、でも大概の人とは自分のすべてなんかさらけだしあわないわけで、それがばれることもない。
 FBをはじめソーシャルメディアで現実にはめったに接触することがないグループ同士(同僚・同級生・飲み友達・恋人etc)が同じ「自分」のページを見るような環境が生まれたことでアイデンティティを統合しなきゃいけなくなってめんどくさいとかそんな話を聞くけど、そのめんどくささの対極にこの人のいきかたはあるよなあ、とか思ったりして(でもその並立するアイデンティティ同士が接触した時のダメージは大きいだろうけどね!)。

 そんなことを思う土曜昼でした。ねむい。

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