最近ちょっと自分の仕事について考えていた。ちょっと長い弧をかくブーメランだけど、今日はそのこと。
ここにはなんどか書いているけれど、僕は幸せはとても主観的なもので、世界に対する認識さえ最適化されれば幸せ度(?)は上げることができると考えている。すっごく簡単に書けば「『自分は幸せ』とどこまで思い込めるか」が幸せになれるかどうかの分かれ道、ということ。
僕は実際自分のことを幸せだと思っている。確かに客観的に見て恵まれている面は多い(そして大事なことに、恵まれすぎてもいない)。東京に生まれ育ち、まぁ貧乏とは言えない家。(現代ではたいして気にされていないようだが)ある程度いい家系に生まれたから親戚連中は社会的地位が高い人が多かったりして何かしら助けになってくれることが多い(その上、冒険家タイプ?も結構いて、一流とはいえない大学に8年行ってアジアを放浪した後自分で会社を始めて大企業のウェブサイト作ってるような人もいたり)。
両親は離婚していないし、友人も少なくは無い。兄弟はいないが周りにメンターとなるような兄貴分みたいな人間もいる。ああそう、仕事も(最近多少の揺らぎがあるとはいえ)社会的な適応性が著しく低い自分には理想的といえるような自由度でやらせてもらってる。
ただ反面、例えば父親はなんか外で何やってるかわからんし、カウンセラーにはACじゃないのかとか疑われるし(ちょっと前の話だけど)、相変わらず自分のジェンダーに関する浮遊感というかそういうものが消えない…というかすごく意識的/無意識的に人として振舞ってる感じが消えないのは不安だし、すぐに外れる関節を始め生まれつき体はおかしい所が多すぎてうんざりするし、特に自分の内面/外面については幸せじゃないことも多いなぁと思っていたりもする。
で、一番最初の段落に書いたことを少し言い換えれば、「幸せであるとは、ゆるぎなく信じる事ができること」。それが正しいか、ではなく、信じられるか(周囲から「それは正しくない」と攻撃されることは十分信じられなくなる理由になるけど)。だから、主観的。「信じる」という事にはなんとなく堅いイメージがあるけど、自由である事とはトレードオフではない。だってあくまで「自由」は自分が思い描く選択肢の中でどれを選ぶかの自由だから、何かを信じていれば、その世界の中でしか選択肢は現れない(例えば、占いを信じていない僕に「何か困った時に占い師に頼ってみよう」という選択肢は無い・・・という例えは通じるのか?)。
その段でいえば、僕が「幸せじゃないなぁ」と思うのは、大体「よくわからないこと」。上の例もほとんどそうだと思う(体が弱いのは…まぁ別として。でも実際僕は身体が動かなくて困ったとは日常生活であんまり思うことが無い。幸運なことに運動が好きで仕方ないわけでもなく、「不自由を感じるようなことをやりたくなる」ことがない、つまり上の言い方をなぞれば僕の世界ではそれで困ることがあまりないと、とも言える)。
「よくわからないもの」を遠ざけたくなるのは決して過度の安定志向ではないと言いたい。それは依存ではない。 ただ、自分の行動や周囲で起こることに疑問を感じ、それを考えて答えを出すのは案外コストがかかることだということ。
影響力の武器(繰り返しになるが、名著だ)では「カチッ、サー」と呼ばれ、そのような「コスト削減のための自動化(思考の排除)」を利用して人をだます人たちについて書かれていた。でも、油断は禁物であっても、だまされるリスクがあったとしても、やはりたくさんのことに疑問を持つのは正直、疲れる。
だから、強固な世界を自分も欲しいし、それを与える事を仕事にしたいと思っている。極論というか暴論かもしれないけど、麻薬の罪はいつか(そう遠くないうちに)本人が(しばしば周囲を巻き込みながら)破滅することが見えているということだけであり、勿論そのことだけで禁止されるべき事だとは思うけれど、永遠に桃源郷に遊べるのならば、それもそれでいいのでは?と思ったりもする。他人など本当に存在するかもわからないのに、と割り切れれば。
宗教もそう。自分の内部に信じるものが無いからといって宗教にすがるのは単なる依存であると思うけれど、逆にいえば宗教に補完してもらえばその人の世界が完璧になるのであれば「世界を強固に、完璧にする」方法を知っているという意味でその人は「至る道を知っている」のだろう。幸せなんだと思う。
僕の今のこの仕事は「世界」一個を与える事はできない(全くの不可能ではないかもしれない)。なんていうか…よっぽどモノに対する依存性が相対的に高くなければ「アジエンスがあれば幸せ!」にはならないと思う。多分つまりそれは、要するに、他のものでは「自分の幸せ」を確信できない、バランスを著しく欠いている状態だと思う。依存する対象が「特別な誰かに貰った〜」ならばまだマシだけど、金で買えるものにそこまで依存されるのは…まぁ単に昨日スーパーで買ったものだったら代替性が高い(=同じ価格で手放せる)希少性が生まれるわけが無いのでそんなことないと思うけど…でもそれが我々の究極の目的だと思うんだよね。それが現実的かとか倫理的に望んでもいいのか、は置いておいて。
でも、自分が幸せである事の証拠をそこに見つけてもらうことは出来る。好きな芸能人に会えたら「ああ生きてて良かった」と思うかもしれない。
それを積み重ね、「このブランドは自分を幸せにしてくれる」って考えてもらえるようになればいいね、という話でした。だから服とか化粧品もいいなぁって思う。別に生きていくために必要だから着るようなものじゃなくて、「自己像や自己評価を高めるために着る」って素敵。 「今日は天気もよくて気分がいいから、これを着よう」と思って貰える服って最高。
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今日は幼馴染T尾くんと中華。四川が食いたくて食いたくて、日曜休業が多い中わざわざ渋谷で待ち合わせたのに青山まで動いて食ったけど、微妙でした。全然四川じゃないじゃん。単なる中華。
うーん。なんか今日も会社でうんざりでした。明日も会社です。やれやれ。
ここにはなんどか書いているけれど、僕は幸せはとても主観的なもので、世界に対する認識さえ最適化されれば幸せ度(?)は上げることができると考えている。すっごく簡単に書けば「『自分は幸せ』とどこまで思い込めるか」が幸せになれるかどうかの分かれ道、ということ。
僕は実際自分のことを幸せだと思っている。確かに客観的に見て恵まれている面は多い(そして大事なことに、恵まれすぎてもいない)。東京に生まれ育ち、まぁ貧乏とは言えない家。(現代ではたいして気にされていないようだが)ある程度いい家系に生まれたから親戚連中は社会的地位が高い人が多かったりして何かしら助けになってくれることが多い(その上、冒険家タイプ?も結構いて、一流とはいえない大学に8年行ってアジアを放浪した後自分で会社を始めて大企業のウェブサイト作ってるような人もいたり)。
両親は離婚していないし、友人も少なくは無い。兄弟はいないが周りにメンターとなるような兄貴分みたいな人間もいる。ああそう、仕事も(最近多少の揺らぎがあるとはいえ)社会的な適応性が著しく低い自分には理想的といえるような自由度でやらせてもらってる。
ただ反面、例えば父親はなんか外で何やってるかわからんし、カウンセラーにはACじゃないのかとか疑われるし(ちょっと前の話だけど)、相変わらず自分のジェンダーに関する浮遊感というかそういうものが消えない…というかすごく意識的/無意識的に人として振舞ってる感じが消えないのは不安だし、すぐに外れる関節を始め生まれつき体はおかしい所が多すぎてうんざりするし、特に自分の内面/外面については幸せじゃないことも多いなぁと思っていたりもする。
で、一番最初の段落に書いたことを少し言い換えれば、「幸せであるとは、ゆるぎなく信じる事ができること」。それが正しいか、ではなく、信じられるか(周囲から「それは正しくない」と攻撃されることは十分信じられなくなる理由になるけど)。だから、主観的。「信じる」という事にはなんとなく堅いイメージがあるけど、自由である事とはトレードオフではない。だってあくまで「自由」は自分が思い描く選択肢の中でどれを選ぶかの自由だから、何かを信じていれば、その世界の中でしか選択肢は現れない(例えば、占いを信じていない僕に「何か困った時に占い師に頼ってみよう」という選択肢は無い・・・という例えは通じるのか?)。
その段でいえば、僕が「幸せじゃないなぁ」と思うのは、大体「よくわからないこと」。上の例もほとんどそうだと思う(体が弱いのは…まぁ別として。でも実際僕は身体が動かなくて困ったとは日常生活であんまり思うことが無い。幸運なことに運動が好きで仕方ないわけでもなく、「不自由を感じるようなことをやりたくなる」ことがない、つまり上の言い方をなぞれば僕の世界ではそれで困ることがあまりないと、とも言える)。
「よくわからないもの」を遠ざけたくなるのは決して過度の安定志向ではないと言いたい。それは依存ではない。 ただ、自分の行動や周囲で起こることに疑問を感じ、それを考えて答えを出すのは案外コストがかかることだということ。
影響力の武器(繰り返しになるが、名著だ)では「カチッ、サー」と呼ばれ、そのような「コスト削減のための自動化(思考の排除)」を利用して人をだます人たちについて書かれていた。でも、油断は禁物であっても、だまされるリスクがあったとしても、やはりたくさんのことに疑問を持つのは正直、疲れる。
だから、強固な世界を自分も欲しいし、それを与える事を仕事にしたいと思っている。極論というか暴論かもしれないけど、麻薬の罪はいつか(そう遠くないうちに)本人が(しばしば周囲を巻き込みながら)破滅することが見えているということだけであり、勿論そのことだけで禁止されるべき事だとは思うけれど、永遠に桃源郷に遊べるのならば、それもそれでいいのでは?と思ったりもする。他人など本当に存在するかもわからないのに、と割り切れれば。
宗教もそう。自分の内部に信じるものが無いからといって宗教にすがるのは単なる依存であると思うけれど、逆にいえば宗教に補完してもらえばその人の世界が完璧になるのであれば「世界を強固に、完璧にする」方法を知っているという意味でその人は「至る道を知っている」のだろう。幸せなんだと思う。
僕の今のこの仕事は「世界」一個を与える事はできない(全くの不可能ではないかもしれない)。なんていうか…よっぽどモノに対する依存性が相対的に高くなければ「アジエンスがあれば幸せ!」にはならないと思う。多分つまりそれは、要するに、他のものでは「自分の幸せ」を確信できない、バランスを著しく欠いている状態だと思う。依存する対象が「特別な誰かに貰った〜」ならばまだマシだけど、金で買えるものにそこまで依存されるのは…まぁ単に昨日スーパーで買ったものだったら代替性が高い(=同じ価格で手放せる)希少性が生まれるわけが無いのでそんなことないと思うけど…でもそれが我々の究極の目的だと思うんだよね。それが現実的かとか倫理的に望んでもいいのか、は置いておいて。
でも、自分が幸せである事の証拠をそこに見つけてもらうことは出来る。好きな芸能人に会えたら「ああ生きてて良かった」と思うかもしれない。
それを積み重ね、「このブランドは自分を幸せにしてくれる」って考えてもらえるようになればいいね、という話でした。だから服とか化粧品もいいなぁって思う。別に生きていくために必要だから着るようなものじゃなくて、「自己像や自己評価を高めるために着る」って素敵。 「今日は天気もよくて気分がいいから、これを着よう」と思って貰える服って最高。
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今日は幼馴染T尾くんと中華。四川が食いたくて食いたくて、日曜休業が多い中わざわざ渋谷で待ち合わせたのに青山まで動いて食ったけど、微妙でした。全然四川じゃないじゃん。単なる中華。
うーん。なんか今日も会社でうんざりでした。明日も会社です。やれやれ。