幸運にも公開ゲネのチケットをいただいたので行ってきました。プレゼン終わってお疲れ様>俺って心境で。…って公開ゲネにチケットがそもそもあるなんて、ってのがびっくりですよ。しかも普通に満席だし。

 演目はシュトラウス?のこうもり。そういえばオペラ観るのも初めてでした(ちなみにまともに払ったら15000円とか)。まぁ内容は他愛も無いものなのですが…うーん。

 最近折に触れ思うことなんですが、僕は演奏者にあまりフォーカスしてなくて、それより曲に興味がある人間みたいなんですよ。そりゃ「これは誰の演奏が好き」ってのは比べりゃあるんですが、あまりその比重は大きくないようで。
 そういう目で見てしまうと世界のオザワとはいえ、やってる曲は量産型ワルツやらポルカやらだから別にとりたててどうって曲ではない。上手さの出しようもないでしょ。それで歌はどうか、って確かに上手いんだけど筋が筋でどうでもいいようなものだから面白くもない。キャストが突然日本語しゃべりだすってのはギャグとしてちょっと寒い(鉄板すぎて毒が無くていわば中高年向け)し…。まぁ多分オペラをそもそも楽しめない体質なんでしょうね、という結論でした。曲に関しては多分ウィーン辺りで地元密着でやってるシュランメルンの人たちにでも弾いてもらったほうがいい気がしましたよ。ノリがね。
 宝塚の人を使った3幕はそこまでやるの?って気もしつつあそこまでやれば面白いとは思ったけどね。
 あと進行もまったく本番と変わらず、舞台明かりも落とすしとまらずサクサク進行だし公開リハと思って止め止めにやって小澤さんの指導が観れるか、という期待も残念ながら…という感じ。

 総評:そもそも深みの無い芝居と曲じゃいくら出演者の腕がよくてもどうにもなりません。もったいない。

 …チケットもらっといて攻撃的な感想文になってしまいました。でも今度ちゃんと小澤さんがオケ振ってたら見に行きたいと思います(今度は金払って、ね)。


 もひとつ音楽ネタ。最近ネタがなかった南紫音嬢ですが、どうやらまた紀尾井でやるようですね。チケットぴあに掲載無かったから知るの遅れた…。曲目は
ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ第1番 ニ長調 作品12−1
ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ第3番 ニ短調
ラヴェル:ヴァイオリン・ソナタ(遺作)
サン=サーンス:ヴァイオリン・ソナタ第1番 ニ短調 作品75


http://www.universal-music.co.jp/classics/artist/shion_minami/information.html
…またお友達が少なそうな選曲で…というような感想を失礼ながらに抱いていたりします。この年で、とか言われたくないだろうけどソナタばっかでしかもラヴェルの遺作とか…ねぇ。枯れてるよねぇ。まぁ相変わらず斜め上を行ってくれています。いや、ほめ言葉ですからね!でもこの人がチャイコフスキーのコンチェルトやっても別にそんなに興味が無いのも事実。暗くてじとーっとしたものをじとーっじとーっと弾いてくれるのを楽しみにしています。でもまた舞台であがっちゃったりしてつっぱしらないかは心配ですが(福岡だけの話だったらいいんですけど)。そんな感じです。
 ここ最近まで僕はまじめな本を読まない人間だった。今でも新聞は仕事以外では読まない。それは職種的にまったく感心されない態度だとこれは我ながら思っている。でも新聞の死んだ魚のような…って言ってたのは筒井康隆だっけ?まぁ兎に角大まかな事実についてはネットで拾えるわけで、でもネットに拾い上げられないけど自分の仕事には関係あるわけで、でもそんなものを拾い上げるために新聞を毎朝読むのは時間の無駄に思え…と思考がループしていたりするのですが、まぁどうでもいい話。

 そんなわけで、この人は名前しか知りませんでした。それでいてなんとなく読む気になったのは今時現実離れした破綻っぷりが売り(とは自分たちでは言わないだろうけど)の新本格(も既にはやらないのかな)でさえこんなテーマでは書かないだろうと思ったからでもあります、正直。あとは手を汚して読め、という装丁の話。それにきっと最近の自分の中での読書ブーム。

 本編の話ですが、さっき買ってきたのでまだ下巻の頭までしか読んでません。直接的な事件は上巻の最後まで起こらず、上巻はほとんど家族の話に終始します。そういう意味では最後まで読まないと僕なりの感想は生まれてこないのだろうなぁと…ってならなんでこんなこと書いてるんでしょうかね。
 ただひとつ思えるのは、これは僕が普段読む消費とその場の脳の緊張緩和のための物語ではなく、主張のための物語であろうということ。前者が悪いって話じゃないですよ。僕はそういうの好きだし。後者の極端な例はサルトルの嘔吐とかなのかな。登場人物は単なる伝達手段であって、そこで起こることはいわば雑な造形の人形劇みたいなものであまり意味は無く、本質は別にあったりして。

 「悪魔」が語る殺人の理論?における個という要素の不在はまるで…誰だ?思い出せないけどどっかの哲学者の弁のようでした。そして以前「やくざの文化人類学」だっけな、で語られていた秩序の話を思い出しましたよ。…自分の過去ログあさったら出てきました。

 そしてもう一つ、

「大規模な社会において逸脱のレッテルを貼ることは、一部の人々を社会的不適合者としてより分ける事によって、対照的に他の人々が社会秩序に『適合』している事を際立たせる事になり、したがって社会の統一を強める事になる(P.301)」

『聖人たちからなる社会を、つまり模範的な人々からなる修道院を思い浮かべてみてもらいたい。そこではいわゆる犯罪はありえないだろう。ところがそのような場ではふつうの人々には許す事のできる些細な過ちと思われることが、ふつうの社会でいわゆる犯罪が引き起こすであろうスキャンダルに等しい結果を生み出すのだ(ben-Yehuda 1985)(P.276)』


という記述もまたふむふむ、と思わされる。社会の中では予め「社会の周辺の何%は犯罪者と見なす」という決定があって実はその周辺の住人が犯した「犯罪」の軽重はどうでもよく、ただその社会の構成員にその社会がどういう性質かを示す為(つまり、なんでも輪郭がはっきりしていた方がモノの形はつかみやすいといったような)、そして社会がその目指す方向に更に変化していく為(先ほどの修道院の例で言えば「更に善人になる」為)の…悪く言ってしまえば生贄にされている、ってことなのかな。

 しかしそうすると必然的に一旦生まれた社会は延々と縮小の方向に向かっていく、って事になっちゃうのだけれど。きっと修道院の最後の一人は自分より少し善人ではない他者を排除した後自分の不完全さを呪って首を吊るでしょう。
http://diarynote.jp/d/42583/20050118.html


そら三年前じゃ思い出せないわなー。まぁともかく、この話。何が悪かは社会(集団)によって規定される、ってくだりね。

 まぁそんな感じです。今晩中には読み終えられないかも。期待とは違うものだったけどそこそこ面白い、って感じかな。まぁこりゃ勘違いした僕が悪い。最後まで読んでまたなんか書けたら書きます。

 そして昨日まで裸者と裸者(まぁ「消費するための物語」です思いっきり)を読んでいたんですが、やっぱありゃ名作です。いや名作ってのはもしかしたらあってないのかも。なんていうか、この心地よさはもっと個人的なものなのかもしれないな、とは思いました。でも少なくとも過去10年、大した数じゃないとはいえ読んだ本の中であそこまで心が動いたものはありませんでしたよ。

 体がものすごく疲れているようで、中途半端に昼寝などしていました。でも普通に寝れそうです。三連休でよかったわ、ホント。

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