がっくし(又は幸せについての考察)
2005年4月23日 考え事 今日も今日とて説明会。シュウカツセイはつらいのです。ウソです。シュウカツセイとはいえません。恥ずかしくて。
会場は東京駅近くの某ホテル。エレベータで三階に上がると…なんと居ました、こないだの交流会?で会った子が。「いやー人全然居ないしがらがらだけどさ、適当に質問しちゃってよ」とかなんとか随分投げやり。っていうか先輩とか居ないのか…その説明はやばいんじゃないすかね。
まぁ適当に入社五年目とかいう人見つけたりして色々質問。そして時間になったので別の部屋で会社説明会。
僕の志望業界というのはとても狭い業界で、まともに力を持つ企業がせいぜい3つくらいしかありません。あ、国内独立系で3、それに外資系とかもあるけどね。まぁそんな感じでビッグ3の内なんとなく一個パス、一個は落ち、そして残ったのがココだったわけです。しかし駄目でした。いや、多分受けるけど、多分駄目でしょう。よもや上手く隠しきれて内定貰ったとしても正直不安です。
ま、原因はガチ日本風の社風ってのもあるんですが。
さて、PRという仕事は「ある商品の良さであるとかイベントであるとかそういったニュース価値がある(のに会社の名前が知られていないとかそういった副次的?な理由で紹介されにくい)素材を掘り起こす」仕事であると定義できると思います。
今日の会社が主眼を置いているのはその後の「媒体に載せてもらう」という事のようなんですね。上手く取り上げて貰える切り口を考えるという。時には自分の会社の…通信社的な役割というんでしょうか、「ウチがニュースだって言ってるんだから大丈夫」的な力も使いつつ。
僕はその考えには全く賛成できません。いじるのはそこじゃないと思うんです。PRは通信社じゃない。
僕は宗教をやる、といってたくらいの人間で結局人の心を動かす仕事がしたいと思っています。イイコト風に言うなら「人を幸せにしたい!」という事。
モノが溢れていても人は必ず幸せになれるワケじゃない事はモノが溢れた国で過ごしている自分は良くわかってるつもりです(自分自身は幸せだと思ってますが)。モノがなくて足りなさを感じるのは有ったモノが失われた時でしょう。
これは確か「影響力の武器」でも似たような事が論じられています。圧政状態で暴動の可能性が一番高いのは抑圧と不幸の状態が一番高い時ではなく、一時的に平和、というか緩んだ後だとかそんなような話。
確かにモノがあれば世界は確実に広がります。選択肢も広がります。医療技術が進歩すれば助かる人も増えます。
でもそんな事よりもっと簡単に幸せになる事が出来るのが心を変える事です。欲求が満たされる事が幸せならば、乱暴な話、欲求のレベルを下げてしまえばいいわけです。医療技術の話をするならば「不治の病」のランク?ってのは年々下がってるわけですよね。不治じゃなくなる病気は増えていくわけですから。だからといって昔の人がそれをそこまで無念に思ったんでしょうか。勿論死んでしまうことに対する悲しみはあるでしょうしそれによって家族や配偶者を失った医者が奮起して治療法を見つけたのかもしれませんが。
極端な話、死ぬような思いをした後は生きてる事を実感するとか本当に感謝するとか言うでしょう。そういう状態を人工的に作ったらどうですか。その人は生きる事に毎日感謝しながら幸せをかみ締めて生きていく事になるわけです。
だからといってみんなを死ぬほどの思いをさせようってのは乱暴ですよね。そんな事はわかってます。だけどこれは宗教の古典的な手口でもあるわけです。
ニーズがある所に商品をぶつけるんじゃなく商品に対してニーズを作り出す事に僕は意義があると思うんです。PRの。ああ、世界を変える話は書きましたね。まぁそんな話で。だから世論を変える手段として日本は大新聞の配達網が異常に整備されてるわけだしマスコミを使う事は全く構わないと思うんですよ。でもそれに飲まれてしまっては「パブ屋」、つまりパブリシティというのがまぁ記者さんに渡す資料なわけですが、それを書くだけとか記者の方を見るだけという風になってしまうのではないのかと僕は危惧するわけです。
まぁ現実水面下の行動の成果は雑誌とかメディアの露出で測るわけでそっちに向かってしまうのは仕方ないと思うんですよ。いい顔しちゃうのは。でも「日々の仕事の中でそうなって行ってしまう」のと「最初から彼らの方を向いて仕事をする」という事には天と地の開きがあるように思うんですよ。僕はね。
ま、幸せにする、というとおこがましいですよね。それこそ最近再読してる京極にでてくる堂島大佐みたいなもんでまぁその堂島さんは催眠術を極めていてまぁ指一本で被験者の望む世界を作り出す事が出来るわけですよ。まぁそれは完全にエゴというかそれが幸せか?というと微妙なところなんですが。
いや、倫理的には勿論アウトですよ。それに世界に人は一人ではなく主観だけでは生きられない以上、自分の見ている世界と周りの見ている世界が著しく整合性を欠いてしまえばそれもまたうまくないでしょう。でもその人個人にとってはどうでしょうか?周りから見て狂って居ようがなんだろうが自分にとっての幸せの世界に生きられるというのはどうなんでしょうか?勿論その決定権は本人以外にないわけだしそれで他人を操ろうとかいうのは問題なんですがね。
ってかまぁ、自分でも意識がないような状態でこれを書いていたりする事はしょっちゅうなのでまぁ重複している事など歯牙にもかけない心持ちで居てくださいな。うん。
会場は東京駅近くの某ホテル。エレベータで三階に上がると…なんと居ました、こないだの交流会?で会った子が。「いやー人全然居ないしがらがらだけどさ、適当に質問しちゃってよ」とかなんとか随分投げやり。っていうか先輩とか居ないのか…その説明はやばいんじゃないすかね。
まぁ適当に入社五年目とかいう人見つけたりして色々質問。そして時間になったので別の部屋で会社説明会。
僕の志望業界というのはとても狭い業界で、まともに力を持つ企業がせいぜい3つくらいしかありません。あ、国内独立系で3、それに外資系とかもあるけどね。まぁそんな感じでビッグ3の内なんとなく一個パス、一個は落ち、そして残ったのがココだったわけです。しかし駄目でした。いや、多分受けるけど、多分駄目でしょう。よもや上手く隠しきれて内定貰ったとしても正直不安です。
ま、原因はガチ日本風の社風ってのもあるんですが。
さて、PRという仕事は「ある商品の良さであるとかイベントであるとかそういったニュース価値がある(のに会社の名前が知られていないとかそういった副次的?な理由で紹介されにくい)素材を掘り起こす」仕事であると定義できると思います。
今日の会社が主眼を置いているのはその後の「媒体に載せてもらう」という事のようなんですね。上手く取り上げて貰える切り口を考えるという。時には自分の会社の…通信社的な役割というんでしょうか、「ウチがニュースだって言ってるんだから大丈夫」的な力も使いつつ。
僕はその考えには全く賛成できません。いじるのはそこじゃないと思うんです。PRは通信社じゃない。
僕は宗教をやる、といってたくらいの人間で結局人の心を動かす仕事がしたいと思っています。イイコト風に言うなら「人を幸せにしたい!」という事。
モノが溢れていても人は必ず幸せになれるワケじゃない事はモノが溢れた国で過ごしている自分は良くわかってるつもりです(自分自身は幸せだと思ってますが)。モノがなくて足りなさを感じるのは有ったモノが失われた時でしょう。
これは確か「影響力の武器」でも似たような事が論じられています。圧政状態で暴動の可能性が一番高いのは抑圧と不幸の状態が一番高い時ではなく、一時的に平和、というか緩んだ後だとかそんなような話。
確かにモノがあれば世界は確実に広がります。選択肢も広がります。医療技術が進歩すれば助かる人も増えます。
でもそんな事よりもっと簡単に幸せになる事が出来るのが心を変える事です。欲求が満たされる事が幸せならば、乱暴な話、欲求のレベルを下げてしまえばいいわけです。医療技術の話をするならば「不治の病」のランク?ってのは年々下がってるわけですよね。不治じゃなくなる病気は増えていくわけですから。だからといって昔の人がそれをそこまで無念に思ったんでしょうか。勿論死んでしまうことに対する悲しみはあるでしょうしそれによって家族や配偶者を失った医者が奮起して治療法を見つけたのかもしれませんが。
極端な話、死ぬような思いをした後は生きてる事を実感するとか本当に感謝するとか言うでしょう。そういう状態を人工的に作ったらどうですか。その人は生きる事に毎日感謝しながら幸せをかみ締めて生きていく事になるわけです。
だからといってみんなを死ぬほどの思いをさせようってのは乱暴ですよね。そんな事はわかってます。だけどこれは宗教の古典的な手口でもあるわけです。
ニーズがある所に商品をぶつけるんじゃなく商品に対してニーズを作り出す事に僕は意義があると思うんです。PRの。ああ、世界を変える話は書きましたね。まぁそんな話で。だから世論を変える手段として日本は大新聞の配達網が異常に整備されてるわけだしマスコミを使う事は全く構わないと思うんですよ。でもそれに飲まれてしまっては「パブ屋」、つまりパブリシティというのがまぁ記者さんに渡す資料なわけですが、それを書くだけとか記者の方を見るだけという風になってしまうのではないのかと僕は危惧するわけです。
まぁ現実水面下の行動の成果は雑誌とかメディアの露出で測るわけでそっちに向かってしまうのは仕方ないと思うんですよ。いい顔しちゃうのは。でも「日々の仕事の中でそうなって行ってしまう」のと「最初から彼らの方を向いて仕事をする」という事には天と地の開きがあるように思うんですよ。僕はね。
ま、幸せにする、というとおこがましいですよね。それこそ最近再読してる京極にでてくる堂島大佐みたいなもんでまぁその堂島さんは催眠術を極めていてまぁ指一本で被験者の望む世界を作り出す事が出来るわけですよ。まぁそれは完全にエゴというかそれが幸せか?というと微妙なところなんですが。
いや、倫理的には勿論アウトですよ。それに世界に人は一人ではなく主観だけでは生きられない以上、自分の見ている世界と周りの見ている世界が著しく整合性を欠いてしまえばそれもまたうまくないでしょう。でもその人個人にとってはどうでしょうか?周りから見て狂って居ようがなんだろうが自分にとっての幸せの世界に生きられるというのはどうなんでしょうか?勿論その決定権は本人以外にないわけだしそれで他人を操ろうとかいうのは問題なんですがね。
ってかまぁ、自分でも意識がないような状態でこれを書いていたりする事はしょっちゅうなのでまぁ重複している事など歯牙にもかけない心持ちで居てくださいな。うん。