僕とテツガク

2007年11月20日 日常
 明日はイベントです。その割りに今日は早かったのですが昨日は久しぶりに本気遅くてやってられませんでした(ま、代理店基準で言えば普通?終電にはならんかったし)。何つーか集客がやばかったんですがその辺はピラフがメディアを脅したり(笑)してどうにかしてくれて。いやホント今回はミッションが難しかったです…。ってまぁ結局PRって水物で他社の大きな会見に当たったりしたら一瞬で吹っ飛ばされるし雨でも来ないし出席なんて当日までよくわからない。なんかそのドキドキって本当に「運」だからあんまり気持ちのいいものではないんですよね。別に正直予想よりたくさんきてもうれしくないし(いや成果って意味ではうれしいんですが基本的には「意外」ってだけなんすよ。)、逆に少なくても「しゃあないんじゃない」って思っちゃう。それがいいと思うかは全然別の話なんですが。

 
 あと仕事が変わって今後一年?朝新聞の切り抜き(つうてもオンライン)やったりしなきゃいけない状況にされたので出社がやたら早くなって無茶できないです…定時の1時間前とかだしな出社。


 さてタイトル。まだ全然途中なんですが、今テツガクの初歩みたいな本を読んでいます。近現代の思想家を一冊で解説、みたいな結構簡単な本。きっかけはこないだ書いた論文だったんですが、その論文の中でちょっと哲学用語的なものを使った時に色々調べてたら結構他の学問で言われていることが書かれてるってのがわかったんですね。
 
 その中でドゥルーズ=ガタリの「機械」ってのが今気になっています。僕の理解は絶対にまだ足りないのだけれど(なんてったって入門書だから一人4ページとかで説明するのよ、ニーチェとかを)最初その機械…とその前に機械をその本で挙げられてた例で説明すると


機械は道具の進化したものではない。たとえば、馬、弓、人間、ステップ地域という別々の要素が組み合わされ、遊牧民の戦争機械が誕生する


みたいな表現がされている。

 話を戻すと僕の理解ではその「機械」というのって、「要素に還元しても原因にたどり着かず、本当の原因は関係性にある」ってやつとすごく似てる気がして。上の例で言えば個々の要素(馬とか弓)には戦争を起こす要素はなくて、あくまで特定の要素が集まった時点で1+1+1+1が4ではなく▲(延長線上になく、まったく違う次元のものになるってニュアンス!)になるってこと。

 あとはアフォーダンスにもちょっと関わる気がして。アフォーダンス(「アフォードしてる」って動詞なら)は「役割を説明無しの自明で理解させることが出来る形やデザイン」ってような理解を僕はしているのだけれど、それもなんていうか…うーん複雑系ほど近くはないけど椅子なら椅子自体に性質があるのではなくて、それもなんか周囲に配置されているものとの関係性とかその辺なのかな?

 まぁそんなことが気になっているのです。あとボードリヤールの記号論も気になってます。商品がその差異によってしか区別されなくなり、人々もまたその差異を消費するのみになってしまう、ってやつ。確かに(日本のような異常な「先進国」では)お金ってあまり意味がないんですよね。
 あーなんていうのかな、正直恵まれている自分の実感だけど、持ってるお金って分配のために悩むものではあるけれどそれ以上のものではない、って書けばいいのかな。服で差をつけたければそこに金をかければいいし、趣味でも飯でも、昔のRPGであったみたいな感じでさいころ振って出た数だけ「強さ」とか「速さ」とか「守り」とか自分の好きなパラメータに振り分けられる。そんな感じ。

 ただそうはいっても金は有限だし、誰もが好きな時に宝石を買えるわけではない。だからこそ僕は広告とかコミュニケーションを使って、有限の金で無限(まぁ現実的には最大限)の幸せを得られるような仕事をしたいな、とか思ったりしてるのです。究極的には「金で買えない価値」とやらを自在に作り出せる魔法使いになりたいんですよ(まぁ大体購買に関する幸福感って買った瞬間というか多分買う寸前がピークでそっからものすごい急降下なんだろうけどね。それを長持ちさせたいというか)。

 だから「差異を消費するだけが現代人の欲望のうんたらかんたら」ってのは僕にとっては別に悲観的な話ではないのです。

 まぁ正直ちょっと前まで「ボードリヤールって悪の華?」とか思ってた程度の人間のたわごとですがね。

 明日もはーやーい!最近恵比寿に飲みにいってません。

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