我々の動物化について
2015年8月1日 考え事 何人かの友人とやりとりしていて考えたことがあったのでメモ。まだまとまってない(最近結構多いね)。
■ デモ?社会運動?のような何か。
最近、明らかに目立ってきている。筆頭はきっと、SEALDsという団体?だろうと思う。こうした人たちがメディアに乗り、特に関心を持たない僕のところまで発言が流れてくる(彼らの、であったり、彼を否定する人の、であったり)のは、なんか気持ち悪いというのが正直な気持ち。
一応否定しておきたいのは、彼ら自身やこうした運動が気持ち悪いというのではないということ。繰り返しになるけど僕はこういうことに一切興味がないけど、こうした人たちの発言に光が当たるということは、ある程度以上の支持者がいる、もしくは(或いはそれに加えて)運動自体の正当性・必要性がある程度他者から認められているという事なんだと思う。いまはまだ木端っぽいけど、こういう事に敏感な政治家がこれに触れ始めているのがなんとも不愉快。
ちなみに彼らの末路ですが、何回かやって全然法律を変えたりすることに対する影響力発揮できない辺りでイライラし始めて内部で路線闘争が始まるのを見て大多数が「うへえ」と思って放棄、残った血の気の多い人たちが「武力革命!」とか言い出してテロやろうとして、でも今実質ちゃんとテロなんか教えてくれるところなんてないからすっごい稚拙であっという間に公安に捕まって、思う存分「これだからこういう団体は危険」というプロパガンダの為のおもちゃにされるんだと予想。
■ 左右の人たち
なんかこう気持ち悪いのは、特定秘密保護法案あたりから右も左も極端にワンフレーズに頼るようになってきたというか、お互いへの期待値といえばいいのかな…が極端に下がっている気がします。「戦争法案」とか言ってる人って、じゃあその法案を進めている人は人を殺したくてうずうずしてるキチガイだって思ってるんですかね、っていう話。首相をヒトラーになぞらえてるプラカードとか見るとそうなんだろうなあと思っちゃうけど。逆に進めている人側の説明の雑さは「お前らに説明してもどうせわかんないから」感がスケスケです。
やりたい方もそれなりの理由があり、やりたくない方も同様なはずだけど、それぞれがお互いを動物と思って説明を放棄している雰囲気がとてもする。
ただ、話して理解したり納得したりするためには、ある程度共通の知識と言う基盤が必要なんだろうと思うんだけど、それがないよなあというのがね…なんといえばいいのか。
あと、お互いに「動物にわからせるためなら」ということなのかなんなのか、異常な単純化や時にはそれ以上に「嘘でもインパクトありゃいい」みたいになってる気がするのも嫌なんだよね(とかいって具体的な例がぱっと出てこないけど)。
「社会が危険な方向に」と言うと「安倍政権による悪」を想定する人が多いんだけど、僕はむしろそれを通して見える論争の相手に対する期待値の低さみたいなものこそが危険の兆候だと感じている、ということです。
これとつながるというか、もしかしたら裏返しのことなのかもしれないけど、僕は「完璧な人・集団による独裁」が意思決定にもっともよいやりかただと思っていて、そもそも多数決を基盤とする意思決定が正しいとあんまり思っていません。
ひとつには、政府のやる事というのは「少数を泣かせてでも大多数のためになることをやる」とか「理屈でいえば正しいけど短期的には損に見える事を大局的な目線でやり通す」ということだと思っていて、これは必ずしも「民意」とは一致しないような気がしていて。
だから権力に対するチェック機能は強くあるべきと思いながら、逆に個別の事案に対する決定については大局観と意思と専門性を持った集団なり個人に任せる方が正しい結果になるのではと思うんです。これだけ問題が複雑になってきている中で、自分も含めた素人が正しい知識を持って正しく判断を下せると、なんで思うんだろうっていう。
で、さっきクソ媒体であるしらべえを読んでいたんですが、やまもといちろうによる下記のような文章が。
とてもなんというか、腹に落ちたのでした。かといってこれを読んだからどうすればいいのかわかる、というわけでもないんですけど、なんとかなんないんすかね、これ。
■ デモ?社会運動?のような何か。
最近、明らかに目立ってきている。筆頭はきっと、SEALDsという団体?だろうと思う。こうした人たちがメディアに乗り、特に関心を持たない僕のところまで発言が流れてくる(彼らの、であったり、彼を否定する人の、であったり)のは、なんか気持ち悪いというのが正直な気持ち。
一応否定しておきたいのは、彼ら自身やこうした運動が気持ち悪いというのではないということ。繰り返しになるけど僕はこういうことに一切興味がないけど、こうした人たちの発言に光が当たるということは、ある程度以上の支持者がいる、もしくは(或いはそれに加えて)運動自体の正当性・必要性がある程度他者から認められているという事なんだと思う。いまはまだ木端っぽいけど、こういう事に敏感な政治家がこれに触れ始めているのがなんとも不愉快。
ちなみに彼らの末路ですが、何回かやって全然法律を変えたりすることに対する影響力発揮できない辺りでイライラし始めて内部で路線闘争が始まるのを見て大多数が「うへえ」と思って放棄、残った血の気の多い人たちが「武力革命!」とか言い出してテロやろうとして、でも今実質ちゃんとテロなんか教えてくれるところなんてないからすっごい稚拙であっという間に公安に捕まって、思う存分「これだからこういう団体は危険」というプロパガンダの為のおもちゃにされるんだと予想。
■ 左右の人たち
なんかこう気持ち悪いのは、特定秘密保護法案あたりから右も左も極端にワンフレーズに頼るようになってきたというか、お互いへの期待値といえばいいのかな…が極端に下がっている気がします。「戦争法案」とか言ってる人って、じゃあその法案を進めている人は人を殺したくてうずうずしてるキチガイだって思ってるんですかね、っていう話。首相をヒトラーになぞらえてるプラカードとか見るとそうなんだろうなあと思っちゃうけど。逆に進めている人側の説明の雑さは「お前らに説明してもどうせわかんないから」感がスケスケです。
やりたい方もそれなりの理由があり、やりたくない方も同様なはずだけど、それぞれがお互いを動物と思って説明を放棄している雰囲気がとてもする。
ただ、話して理解したり納得したりするためには、ある程度共通の知識と言う基盤が必要なんだろうと思うんだけど、それがないよなあというのがね…なんといえばいいのか。
あと、お互いに「動物にわからせるためなら」ということなのかなんなのか、異常な単純化や時にはそれ以上に「嘘でもインパクトありゃいい」みたいになってる気がするのも嫌なんだよね(とかいって具体的な例がぱっと出てこないけど)。
「社会が危険な方向に」と言うと「安倍政権による悪」を想定する人が多いんだけど、僕はむしろそれを通して見える論争の相手に対する期待値の低さみたいなものこそが危険の兆候だと感じている、ということです。
これとつながるというか、もしかしたら裏返しのことなのかもしれないけど、僕は「完璧な人・集団による独裁」が意思決定にもっともよいやりかただと思っていて、そもそも多数決を基盤とする意思決定が正しいとあんまり思っていません。
ひとつには、政府のやる事というのは「少数を泣かせてでも大多数のためになることをやる」とか「理屈でいえば正しいけど短期的には損に見える事を大局的な目線でやり通す」ということだと思っていて、これは必ずしも「民意」とは一致しないような気がしていて。
だから権力に対するチェック機能は強くあるべきと思いながら、逆に個別の事案に対する決定については大局観と意思と専門性を持った集団なり個人に任せる方が正しい結果になるのではと思うんです。これだけ問題が複雑になってきている中で、自分も含めた素人が正しい知識を持って正しく判断を下せると、なんで思うんだろうっていう。
で、さっきクソ媒体であるしらべえを読んでいたんですが、やまもといちろうによる下記のような文章が。
現代社会というのはこの世で解決しなければいけない問題が多岐に渡り過ぎています。人間一人が問題を認識し把握し理解して、解決に力を注ごうとするのと、誰かが問題だと騒ぎ、報じ、それに対する態度を第三者として決めるのとでは、問題にコミットする度合いも覚悟も知識もまったく違うということです。
大事な問題だけれどもややこしくて分からないということは、決して恥でもないし、それを国民に伝え、知らしめることのできるメディアの機能というのはそこまで実は重要なものなのだということは、改めて理解できると思うんですよね。
その分、プロパガンダやちょっとした事件で世論がだーっと動いていくことについて、私たちはより敏感にならなければならないし、物事について慎重に考えて判断していく癖をつけるべきだと考えるわけです。
どうもこれが私たちの情報化社会というものであり、その上に立脚した民主主義の真相なんでしょう。分かってなくても判断を強いられてしまう、この社会の仕組みというものは、果たして私たちにとって本当に過ごしやすいものなのでしょうか。
http://sirabee.com/2015/05/15/30968/
とてもなんというか、腹に落ちたのでした。かといってこれを読んだからどうすればいいのかわかる、というわけでもないんですけど、なんとかなんないんすかね、これ。
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