何度か書いているように、僕は他人から「べき」だ、と言われる事を結構強く嫌う傾向にある。「あなたはそれをするべき」という言葉は、相手なりの事情や考えがある事を認めず、自分の正しさのみを押し付けられると感じるから。また、そういった事を他人に要求する輩は大概、自分が押し付けているルールや考え方を心底理解しているわけでもなんでもなく、盲目的に従っているか、それが楽だからそうしているに過ぎないことが多い。逆に、たまに本当に納得した上で覚悟を決めている人がいて、そういう人は(お節介だなあと思うことはあるけど)尊敬する。
でもそれでも、「そうあるべきだ」と思うことはたまにある。そのひとつが、仕事や研究などは全て自分が生きる上での哲学や思想、信念に回収されるべきだ、というものだ。ただ、「結果としてそうある/なる」なのか「そうする/なるよう働きかけるべき」なのかはまだよくわかっていない。自分が過去に行ってきた事を俯瞰してそこにある程度の整合性を見出すとき、それが結果論に過ぎない…つまり、自分が何か信念に従って何かを行っていた事とまったく関係なく蓄積された事実からひとつの「筋」が見えてきて、「ああおれはこれのために人生を費やしてきたのか」と納得するような事はこうやって書いてしまえば間抜けに響くけど、実際にはありそうな話じゃないですか。
まあとにかく、僕はそんな事を考えていて、自分が新しい事を始めたしばらくあとには少し振り返って、その事柄が自分の信念のどこに組み込まれているのか、という事を考える瞬間を持つようにしている。まあ、そんなに意識的なものでもないので、「そういうことを考えながら振り返る事が多い」という方が正しいのかも。
しかし書きながら思ったけど上の話を突き詰めれば、何かをはじめる時点でそれが自分の「道」に資するかどうかという事を考えたほうがいいと言う事になるのか…理屈の上ではそうなるけど、なんか物事を始めるって言うときはそういうちょっと後ろ向き(ネガティブという意味ではなく、非生産的という意味で)なことはなるべく考えないほうがいい気もするので、まあ今のままが良いのでしょう。あーっていうか「信念」とか「哲学」って言葉にすると大仰だよね、別にそこまでの話じゃないんだけどな~。
なんでそんな事をわざわざ書く気になったかというと、今目の前に2つほど、ちょっと考えただけではその自分の「道」にはまらないものがあるから。というかそれ以前に今やっている仕事がその道にはまってないだろ、というツッコミが自分から入りっぱなしなのですが...でもまあ、これはいまの解釈では緊急避難的な「有給」であって深い意味はない…逆に言うと人生を無駄遣いしているということなので、そういうことなんですよ(どういうこっちゃ)。
で話を戻すと、ひとつは中国。なんでそんなに頻繁に行ってるの?しごと?ばかなの?って相変わらず訊かれるし、客観的に言って確かにちょっと多すぎる気はするし自分でも理由がよくわからん。ただ中国も好きといえば好きだけど、結局上海が好きなだけな気もするのが微妙な所…上海って、平均的な中国とは随分違うからね(あんなでかい国の「平均」という表現がそもそも…というのは面倒なので考えないでください)。
今本格的にあちらにトランスファーできないかを模索中だけど、どちらかというとこれは将来的な自分の売値を上げるキャリア構築的な意味合いが強くて、あちらでのビジネスに挑戦したい!というのはサブの理由にしか過ぎない。まあ定員が決まったビジネスなんて人口多いほうが絶対に有利だろ母数が多いんだから(最低でも不利になる理由が思いつかない…まあ競合がいる可能性があるっちゃあるか)、という気はするし、あちらはまだ成長の可能性が残されているという点で日本にいるよりは面白いという気は単純にするけどね。まーちょっと情勢が思ったより悪くなりすぎて自分にとっては向かい風ぴゅーぴゅーで困ってますが…。こういう事のタイミングってなかなか自分では動かせなくて、「その時」に材料がそろってないとなんともなんだよね…歯がゆい。前職辞める時、上海へのオファーがあったんだけどそれで行っておけばよかったかな?とかも時々考えるけど、あの時点では中国全然興味なかったし、第一過ぎた事を考えてもしかたないですよね。
もうひとつは、ナショナリズム。こちらは中国の話と違って何か多分自分にも見えていない道筋があって後々合流する気はするんだけど、今のところなんでこんなものに興味を持ったのかよくわからない。今年の3月に「ナショナリズムの名著50」について書いたけど(http://42583.diarynote.jp/201203240137242747/ )、この辺りからなのかな、流れは。
今、最近知り合った朝鮮族の中国人に教えてもらった中国の少数民族政策についての本を読んでいるんだけど、これはナショナリズムとは自分の中で関連付けていなかったけど結局少数民族の統治ってnation in nationみたいな話(でいいのか?)で、思いっきりナショナリズムなわけです。あ、日本語の本ね。考えてみれば当たり前の話ナショナリズムにとっては「国家に対する誇り」ではなく「民族に対する誇り」というのも大きいわけで。
その朝鮮族の人は日本でそういう研究をしていた人(検索するとこれだけの材料でも個人名出てくるんじゃないかなあと思えるくらいニッチな分野ですよね)で、日本語で自分の民族を事例にした論文を書いてるっぽい。アブストらしきものがネットで読める。話がちょっと逸れるというか最初に戻るけど、これなんてまさに自分の背景と研究が溶け合っている例だと思うんだよね。必然性といっていいのかわからないけど。「つながっている」感じ。
で、翻って僕は特にエスニックアイデンティティを自覚する、させられるような環境には生きていない。自民族に対する周辺からのプレッシャーを感じているわけでもない。なのになぜこんなことに興味を持つのか、自分でも若干イミフ。でも楽しみでもある。自分の路線、人のこころについてとかそういった事にこの問題がどう介入してきて、自分の考え方を変えてくれるんでしょうね。
ああ蛇足というか本論とは関係ないかもしれないし、もしかしたら読み終われば最後のほうに出てくるかもしれないけど、今の所その少数民族政策研究本では通常民族の定義としてよく出てくる「宗教」の要素がほぼ無視されているように感じる。無視というか重要視されていないというほうが正しいかな。逆に回族というイスラムの民族が地理的・血統的に拡散していたり特有の言語を持たないなど共通の要素が薄いよねーと言った事を書いたりしている(非イスラムなのに回族、という人が増えているのでという事も書いてあるけどね)。勿論これは社会主義国中国という、宗教一般にとって極端に不利な土壌が故だとは思うけど…なんか興味深いなと思いました。
でもそれでも、「そうあるべきだ」と思うことはたまにある。そのひとつが、仕事や研究などは全て自分が生きる上での哲学や思想、信念に回収されるべきだ、というものだ。ただ、「結果としてそうある/なる」なのか「そうする/なるよう働きかけるべき」なのかはまだよくわかっていない。自分が過去に行ってきた事を俯瞰してそこにある程度の整合性を見出すとき、それが結果論に過ぎない…つまり、自分が何か信念に従って何かを行っていた事とまったく関係なく蓄積された事実からひとつの「筋」が見えてきて、「ああおれはこれのために人生を費やしてきたのか」と納得するような事はこうやって書いてしまえば間抜けに響くけど、実際にはありそうな話じゃないですか。
まあとにかく、僕はそんな事を考えていて、自分が新しい事を始めたしばらくあとには少し振り返って、その事柄が自分の信念のどこに組み込まれているのか、という事を考える瞬間を持つようにしている。まあ、そんなに意識的なものでもないので、「そういうことを考えながら振り返る事が多い」という方が正しいのかも。
しかし書きながら思ったけど上の話を突き詰めれば、何かをはじめる時点でそれが自分の「道」に資するかどうかという事を考えたほうがいいと言う事になるのか…理屈の上ではそうなるけど、なんか物事を始めるって言うときはそういうちょっと後ろ向き(ネガティブという意味ではなく、非生産的という意味で)なことはなるべく考えないほうがいい気もするので、まあ今のままが良いのでしょう。あーっていうか「信念」とか「哲学」って言葉にすると大仰だよね、別にそこまでの話じゃないんだけどな~。
なんでそんな事をわざわざ書く気になったかというと、今目の前に2つほど、ちょっと考えただけではその自分の「道」にはまらないものがあるから。というかそれ以前に今やっている仕事がその道にはまってないだろ、というツッコミが自分から入りっぱなしなのですが...でもまあ、これはいまの解釈では緊急避難的な「有給」であって深い意味はない…逆に言うと人生を無駄遣いしているということなので、そういうことなんですよ(どういうこっちゃ)。
で話を戻すと、ひとつは中国。なんでそんなに頻繁に行ってるの?しごと?ばかなの?って相変わらず訊かれるし、客観的に言って確かにちょっと多すぎる気はするし自分でも理由がよくわからん。ただ中国も好きといえば好きだけど、結局上海が好きなだけな気もするのが微妙な所…上海って、平均的な中国とは随分違うからね(あんなでかい国の「平均」という表現がそもそも…というのは面倒なので考えないでください)。
今本格的にあちらにトランスファーできないかを模索中だけど、どちらかというとこれは将来的な自分の売値を上げるキャリア構築的な意味合いが強くて、あちらでのビジネスに挑戦したい!というのはサブの理由にしか過ぎない。まあ定員が決まったビジネスなんて人口多いほうが絶対に有利だろ母数が多いんだから(最低でも不利になる理由が思いつかない…まあ競合がいる可能性があるっちゃあるか)、という気はするし、あちらはまだ成長の可能性が残されているという点で日本にいるよりは面白いという気は単純にするけどね。まーちょっと情勢が思ったより悪くなりすぎて自分にとっては向かい風ぴゅーぴゅーで困ってますが…。こういう事のタイミングってなかなか自分では動かせなくて、「その時」に材料がそろってないとなんともなんだよね…歯がゆい。前職辞める時、上海へのオファーがあったんだけどそれで行っておけばよかったかな?とかも時々考えるけど、あの時点では中国全然興味なかったし、第一過ぎた事を考えてもしかたないですよね。
もうひとつは、ナショナリズム。こちらは中国の話と違って何か多分自分にも見えていない道筋があって後々合流する気はするんだけど、今のところなんでこんなものに興味を持ったのかよくわからない。今年の3月に「ナショナリズムの名著50」について書いたけど(http://42583.diarynote.jp/201203240137242747/ )、この辺りからなのかな、流れは。
今、最近知り合った朝鮮族の中国人に教えてもらった中国の少数民族政策についての本を読んでいるんだけど、これはナショナリズムとは自分の中で関連付けていなかったけど結局少数民族の統治ってnation in nationみたいな話(でいいのか?)で、思いっきりナショナリズムなわけです。あ、日本語の本ね。考えてみれば当たり前の話ナショナリズムにとっては「国家に対する誇り」ではなく「民族に対する誇り」というのも大きいわけで。
その朝鮮族の人は日本でそういう研究をしていた人(検索するとこれだけの材料でも個人名出てくるんじゃないかなあと思えるくらいニッチな分野ですよね)で、日本語で自分の民族を事例にした論文を書いてるっぽい。アブストらしきものがネットで読める。話がちょっと逸れるというか最初に戻るけど、これなんてまさに自分の背景と研究が溶け合っている例だと思うんだよね。必然性といっていいのかわからないけど。「つながっている」感じ。
で、翻って僕は特にエスニックアイデンティティを自覚する、させられるような環境には生きていない。自民族に対する周辺からのプレッシャーを感じているわけでもない。なのになぜこんなことに興味を持つのか、自分でも若干イミフ。でも楽しみでもある。自分の路線、人のこころについてとかそういった事にこの問題がどう介入してきて、自分の考え方を変えてくれるんでしょうね。
ああ蛇足というか本論とは関係ないかもしれないし、もしかしたら読み終われば最後のほうに出てくるかもしれないけど、今の所その少数民族政策研究本では通常民族の定義としてよく出てくる「宗教」の要素がほぼ無視されているように感じる。無視というか重要視されていないというほうが正しいかな。逆に回族というイスラムの民族が地理的・血統的に拡散していたり特有の言語を持たないなど共通の要素が薄いよねーと言った事を書いたりしている(非イスラムなのに回族、という人が増えているのでという事も書いてあるけどね)。勿論これは社会主義国中国という、宗教一般にとって極端に不利な土壌が故だとは思うけど…なんか興味深いなと思いました。
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