今週はものすごい楽しかったですよ
2012年2月12日 日常書いてしまうととても嫌らしくなる事はわかっているけれど、でもそれでも未来の自分がちゃんと楽しかった日を思い出せるように、書きます。
なんていうか、今週はめちゃくちゃ充実していた、というか現在形で、いる。充実というのは勿論色々あって、沢山休んだって充実だし料理が楽しくても充実。今週の充実は外交とお食事面での充実です。金も沢山飛んだけどなー。
火曜。ちょっとご無沙汰だった?☆さんと。先週体調を崩していた事などもあってなんかいいもの食べてないなーと思ったんで設定しました。最近なんか良いものにちゃんとお金を払って食べるという事が減っている気がしてるんですよねーなんなんですかねとかって最近代官山でランチ食ったやんあれ全然安くなかったし…というのはまあランチだからノーカンなわけですよ。
なんなんだろ、6時間メンバーの減少の問題なんでしょうか。まあとにかく今回訪れたのは広尾駅横地下、魚がうまいという記事をそこここで見かけるイタリアン。前日から雨でまだ天気が微妙だったせいなのか?お客さんは僕たちだけで申し訳ないというか居たたまれないというかお前ら経営大丈夫ですかというか…いやでもおいしかったし接客もよかったし、運が悪かった(んだか良かったんだか)だけなのかもね。でも★さんと前行ったおおエリア的には偶然一緒だけどオーストラリア料理屋もノーゲストだったのでなんていうかこの僕が選ぶとダメなんでしょうか。いや料理が美味いから文句はいわれないんだけどさ。まーそんな僕たちはその他にゲストの居ない店でうしおととらがいかにマンガとして完成されてるかとかマリスミゼルの1stがいかに完成されていたかとか女優さん探してる話とか大層クールジャパン(最近超バズワード)な話を繰り広げていたのでした。店員さんたち苦笑いしてただろうなあ…。
水曜。芸道の旅、中間地点。友人の紹介で華道&茶器に詳しい方に引き合わせて頂き、色々教えていただく。ロシア料理です。久しぶりの訪問で相変わらず立地の癖に落ち着いた雰囲気でとてもよいんだけど、なんかすごい混んでた…そんな空間を悠々使ってるわけでもないのにここってなんかあまり狭苦しい感じがしないのはいいね。それにしてもどっかで紹介されたのかな。
食べたのは定番系の…ってあんま覚えてないな、ずっと結構店員さんの説明無視して喋ってたからね。とりあえずボルシチとマッシュルームのシチューにパイ生地のったようなのは食べた。んで食い散らかした後は盛り上がって二軒目に行くぞ~ということで新宿重ったるいバーシリーズの右翼(のクセ普通の雑居ビルの上だけど)へ。そこでも飲んだし結構気分がよくなっていたので正確に思い出せないんだけど、そこで思ったことを思い出せる限りつらつら書いておきましょう。議題自体はかなりいろんな所に飛んだ気がするしちゃんと思い出せない面もあるので、あくまでそれを消化して自分が翌日思った事ダイジェスト的な…これが今日のメインかな。
考えてみれば当たり前の話だけれど、活けた花はしばらくするとくたびれるし、数日経てば枯れてしまう。そして写真に収めたところで本来その花で表したかった事柄を写し取る事など全くできない。保存する事ができない芸術だと思う。反対に大枠でいう絵や彫刻などは「作る芸術」で、作ってしまえば残りつづける。本とかもそうだな。音楽や演劇はそのプロットや音符を書き出すところまでは作る芸術であり残っていくものだけど、そのホンなり楽譜を下敷きに演じる時に演奏者のとらえかたや解釈によって出来上がりが大きく変わる可能性を秘めている、という意味でその中間、というか組み合わせであるのかもしれない(あ、作曲家の中には譜面が芸術であって演じる事は既に芸術ではないと思う人もいるのかもね…)。その芸術の賞味期限(?)の話。
演じられるものとしての舞台芸術は基本的に再現性のないものだし、その中には抗えない流れとして時間軸があり、全ては一回性で演じる傍から同じ場所では次のことが起こり消えていってしまうというのが昔からの基本的な考え方だったはず。しかしそれは写真やビデオなどの記録媒体の登場によってきっと事情が変わって、勿論その場の全てを収める事は無理だったとはいえ、役者がどう動き、どのような音が鳴り、どのような事が起こったかの記録としては十分耐えるものをその芸術が消え去る前に残す事ができるようになってしまった。
甚だしきは全てを記録できない事を逆手にとることでレンズに写るものだけを世界と捉えて記録される事(カット割という考え方はこの考えをベースにしなければありえなかったはず)を前提にした舞台、つまりテレビドラマや映画みたいなもの…映像作品とくくるのがいいのかな…も生まれたし、それが人工的であると非難される事は(よく調べてないから断言するとまずいかもしれないけど)なかった。
これは芸術の変化(進化じゃないよね)としては多分結構特殊な事で、うまく自分を取り巻く環境にあわせて分化…なのか適応なのか、したと言えるんだと思う。例えばCDの音質が良くなってSACDが生まれてもそれは結局生演奏の代替物としてどこまで生に近いかという、要するに永遠に生の響きには敵わない前提での虚しい軸で「君は代替物としてはよくがんばった」という評価してもらえないわけだから、そうやって自分を変化させ新しいもの、この場合は技術、と不可分になる事で新しい軸を生むというのは生存戦略としてはとても合理的。「ドラマは舞台のパチモン」とは誰も言わないよね。まーさらに映像の場合はマスメディアで流してどうの、という違う要素もあっていまや演劇や舞台より圧倒的に一般に普及してしまっているし。
じゃあ例えば音楽で記録されることを前提とした…というか録音でないと実現できない、と書いたほうが正しいのかな?…作品があるかというと、ああそうだ、ないと書こうと思ったけどミヒャエル・ナナサコフ(http://www.nanasawa.net/)なんかはある意味、それに近いかもしれない。七澤さんという人が人間じゃほとんど演奏できないような楽譜から書き取ったMIDIデータを打ち込み、架空のピアニストの録音という設定で売っている…って別にだましじゃなく「そういう設定です」って言ってるんだけどね。まあでも結構以前から活動してるようだしひょっとするとネットが普及する前とかは本当にそんな超絶ピアニストがいるとおもってた人もいるのかもしれない。僕はネットが普及する前はクラシック自体知りませんでしたが。
話を戻す。上記のナナサコフは当然、ライブで演奏する事で価値が変わる事は有り得ない。だってプログラムされたようにしか弾けないんだから。そういう意味で上の方で書いたように譜面という作る芸術があり、それを表現する消え物としての芸術があるという二重構造がここには存在せず、ナナサコフは忠実に譜面を再現するわけで。勿論一瞬で次の音が出てしまい、消えていくものとしての音は出るんだけど、同じものをいつでも再生できるのであればほしくなったら箪笥から出してくればいい、という意味でそれは絵や壷と一緒だよね。あーまあ厳密にはナナサコフが再現するのは譜面ではなく七澤さんが打ち込んだ一音一音に至るまでの音の解釈だから譜面に忠実に、ってのは表現を簡略化しすぎかもしれないね。七澤味が絶対入ってるし、それが正しい解釈かは作曲家本人にきかないとわからない…だって譜面ってあいまいだもん。とはいえ、それは人間が感じた気持ちを相手に伝えようとしたら基本的には言葉にしなければいけないのを「言葉にしちゃったら意味が変わっちゃう」とかいって拒否しても他に手段がないのと少し似ている気もする。事実そういうこともあるだろうけど、じゃあどうすんの、っていう。神は依り代なしでは託宣できないっすよー。
ま、とにかくこの例を追いかけていくとそうやって録音を内包した芸術(と呼びたくない人はたくさんいるんだろうけど)というのもなくもないけど、結局音楽の芸術としての良さや特徴である「芸術としての二重構造」を殺してしまっているという結論にここではなる。他にアプローチなんかあるかな…と考えた場合さっき書いた記録映像と映像作品の構造を読み替えて理屈で考えるならば、コラージュ的なものはありえるのかな、とは思う(面白いかは別の話)。
さっきカット割を記録映像には無い映像作品の特徴と書いたけど、正確にはカット割の有無というのは技術的(でいいのか?)な話で、重要なのは映像作品は生だったら当然縛られるはずの時間と場所の連続性から解放されているということなんだと思う。過去の回想とか場面変わって~とかを瞬時に出来るということね。じゃあそれを音楽に援用するならどうなるか…時間軸とか舞台転換とかってのはヒップホップで行われているサンプリングとかって話なのかなあ…音楽って視覚がない以上地理的な条件ってあんまりない事が多いので(どこかでしか演奏できない楽器ってのがあんまりなくて、結局移動しちゃえば済む…汎用品でいえば多分パイプオルガンくらいだよね、据え置きで動かせない楽器って…でも汎用だから別にどこのつかってもそんなに違いはないはずだし、それを言ったらピアノだって基本持ち運び不可か)からそれを飛び越えられるよ、ってのはあんまりぐっとこないし…。ううむ。まあこれキリ無い気がするからやめよう。
大回りしたけど話を一番最初に戻すといけばなって枯れちゃうからひとつの作品を残せないし材料に左右されるから音楽以上に再現性が低い事を考えるとじゃあそれで食うってなんなんだろうな、ってなことを思ったんですよ。食うというよりどうやって金に換えるか、ということね。
まずまた繰り返しになるけど花は枯れちゃうから出来た作品を誰かにほいと渡してお幾ら、ということはあんまり成り立たない。やるなら定期的に新しいものを渡し続ける契約か、もしくは短時間のイベントの間だけに使われるようなものでないといけない。でも芸術作品である以上毎回同じものがでてくるわけじゃない、となると両方発注側にリスクがあるからあまり好まれない気がする…。そして後者についてはやっぱり継続性が無いから生活の支えにはならない。定番化させて「結婚式はやっぱり華がないと!」ってなれば話は別だろうけど…。
ということで、じゃあ残りは演奏会形式か展覧会形式。音楽と違って鑑賞に時間軸が必要ない(いきなり作品の全容がどかんと視界に入り、ずっと見ていても変化が無い)というのはより手軽かと思いきや逆に長い時間拘束できないから演奏会形式ってのは無理だ。近いのはライブペインティング的な過程を見せる形にして時間軸を無理矢理作ることなんだろうけど、まさにライブペインティングがそうであるように、ライブでやるために手法をはじめ沢山のものを犠牲にしなければならないと思うとそれは例外でしかありえない。まあ普通の創作と同じでうんうん唸ったりたまに全部白紙に戻したりという過程を見せられても普通の人は面白くもなんともないというか時間かかりすぎよね。2時間の上映時間ではむりです。
じゃ、展示会にしましょう。幸い音楽と違って作品と人間が一応切り離せるから本人がその場にいなくても据え置き展示の形で客を集める事はできるけど、でもやっぱりさっき書いたように鑑賞に必要な最低限の時間が限りなく一瞬に近いから(これは絵画とかと一緒ね)、点数をたくさん用意してそういう意味での時間軸を引き伸ばして全部見るのに時間かかるような仕組みにするしかないような気がする。
かといって活ける先から枯れ始めることを考えるとひとりで沢山作品を作って展示するのは現実的なのか?疑問だ。やっぱグループ展しかないのか。なんか作家集団みたいにして…ってそうなるとあれこれ一人でどう稼いで生きるって話なのに今の華道の流派制ってこういうところでも合理的ですねーって話になるのかもしや。
ま、そんな事を考えていくと作品を切り離しては値段がつかなくて、あくまで「芸術発生装置」としての作家の私を買ってもらうって形に近くなっていくのかなあと思えてくるのでした。要するに一番最初の案ね。作品自体に永続性がないのを逆手にとって私を買えば作品が安定供給されますよという…具体的にするとやっぱりホテルのロビーとかに活けさせてもらうとか…ああなんて夢の無い、というこんだけだらだら書いたのに結論はとても陳腐なのでした。空間プロデュースで緑を生かそう、とかってのに内包されるのはやっぱり嫌なのかなー。絶対量は少ないだろうけど乃村みたいな大きな会社なら何人か専従を食わせるくらいの仕事ありそうな気がするけど。いやすっげえ適当。でも作家性って話ではなくなっていくよね。
ああそうだ流派とする事と作家性が両立しないって話もしたなー。あと床の間が無くなったことの影響とかって話もしてあー生活の中に取り込むってそういうことなんだと思った気もする。音楽って別に生活とそういう面ではつながってないもんねえ。言葉尻だけではサティの「家具の音楽」とかが頭をよぎるけど意味合いとしては全く違うし。
はい、長い水曜終わり。
木曜はリハ。土曜日に迫った本番のために定時で抜けて(この週ほぼ毎日定時ダッシュだ)楽器を担いで。ああうちの会社ってこういう時に楽器持ってるとみんなの目がやさしくていいなあ、と思ったりはしましたよ。で、また全員そろわないながらに頑張ってリハして、その後そこら辺に居たOB後輩と現役後輩を取り混ぜて(といっても4人)ご飯。現役ちゃんとかほとんどお話した事ないのでほっこりしました。ところでほっこりって僕が一番嫌いな言葉です、って別にいやだったって意味じゃないけど。なんかこうガクセーがいく感じのよくわからん居酒屋で後輩たちの噂話を聞くという、まっこと大学生らしき。僕以外のOBたちはわりと現役の顔と名前も一致してるので話に加わってたけどあたしゃさすがに無理ですわ、8個とか下の後輩はさすがに…。後半なんか現役同士やらOBの恋話になっていってたけどそういやその場にいたOB後輩2人も昔付き合ってなかったっけ人の話暴露しまくって笑ってるけどどこでつっこめばいいんだ…とか焼酎にやられた頭で考えていましたがまあいいんじゃないかと思い何もしませんでした。
金曜。次の日本番だし火曜からずっと定時で逃げてたからたまった仕事しよう!と思ってたんだけど、ちょうど定時前くらいに前職の先輩である番長様(女です)から「飲みに行くぞ」と召集。番長様は今までももしかしたら違う名前で出てきてるかも…地味な感じあまり目立たないんだけど仕事が堅実でレベルが高くて個人的にとても尊敬していた人。某超有名女子大卒業、英語もぺらぺらで立派なお姉さまかと思いきや酒が入ると(色んな意味で)キレまくるという。大人とは思えないキレっぷりです。面白いからいいけど。あと彼氏は職業差別は良くないにしろそれにしたって安居酒屋の店長…。ダメな部分と尊敬できる部分がこう絡み合ってる人なんだけどまあいいや、とりあえず召集通知がきて、年末から飲もう飲もうと言ってて実現してなかったってのもあり定時直前だった事もありよっしょ!となってしまい、結局下北沢で前職場にまだ居る爺&12月サシで飲んだ気がするミホさまと4人で打ちあがったのでした。あ、番長様はちょっと前に退職して同業他社で。
その場では何がトピックだったんだろう。とりあえず僕が仕事ぬるくてーとか言ったら番長様に「うちの職場に来い」って5回くらい言われたとかシンガポールってあんまニュースないよねとか僕の恋愛がなぜうまくいかないかとか経営コンサルうざいMECEってなんだよとかあとなんだろー。最後のほうはやっぱり番長様が壊れて「とんこつラーメンはないの!?」とかぶつぶつメニュー見ながら言い出して店員に絡みそうだったので取り上げたりしていました。いやにとんこつにこだわってたな…そしてまだ酒がほしいとか言うのを引き剥がして電車で帰るために会計して店の前で解散して僕だけ違う方面だったから脱出したら2時前くらいに爺から「めんどい。結局つかまって二軒目」という血を吐くような怨嗟メールが。タクシー詰めちゃえばよかったのにねえ。まあ先輩たちと飲むのはいつもとても楽しい。5から10こ上だもんね、みんな。
で、昨日土曜日は演奏会?というとなんか変な感じだけど飲みながらうえーって弾いて途中で落ちた人がいたので小節番号を適宜言ったりアドリブソロがあるのにそれを聞くのがみんな初めてだからソリストが「ここまで!」って終わり際で叫んだりまったくクラシックの曲の演奏とは思えない雰囲気でした。曲中でビール飲みだすし(俺。まー演奏の質はひどかったかもしれないけど楽しかったからいいんじゃないかな。
でも結局クインテットなのに5人であわせることが一度もできなかったってのが悔やまれるね。なんかやっぱり最初ってちょっと練習しただけですごい伸びていくから、それ以上は難しいにしろその練習の対時間効果が高い区間は通り過ぎておきたかったなーって思います…とか偉そうに書いておきながら多分一番下手だったの俺なんだけどね。他にヴァイオリンが居たからあまり楽譜読めなくても雰囲気でついていけちゃうだけで、あれ全く独立のパートだったら全然弾けなかった気がするもん。でももう一度、楽しかったからいいのです。でも他の団体の出演OB見てるとぜってー普段弾いてないだろ、って人たちもゴロゴロ居てそれってどうかなーとは思った。前OBオケに誘われた時断ったのもそういう理由だったけど結局練習でしか楽器ケースあけないとか普段弾かないってのを笑い話にして飲むための口実のために練習に現れるのってすごい嫌いなのよね僕。下手でもいいから真面目に向かい合えば良いのに…ってそこに「下手でも」っていうエクスキューズを入れるのは確かに自分が偉そうな事をいうだけの力量がないからってせいでもあるんだけどさ…結局うまけりゃなんでもいいわけだし。
まあそういう小難しい事はおいとく事にして、うちの団体は元々組んでる間柄でもないのにわりと幅広い年代から現役OB織り交ぜたメンバーで構成されてて、会の趣旨ともあってたし(飲みに行ったりとかする時間が無かったからそんなに仲良くなれなかったのは残念だけど)そういう意味でも面白かったですわ。ああ相変わらず背の高い2年生がぼくのツボをぎゅうぎゅう押していましたが特に話もできませんで、眼福以上のものではありませんでした残念。狙いすぎだよアレ…ていうか最近自分でも少なくとも外見についてはものすごく好みがはっきりしてきた気がして、ああ神様これが加齢ってことですかね。違うと良いんですけど。しかし服がダサダサな辺りはやっぱりうちのサークルの限界というかなんというかああ。
で、今日はこれからまたお久しぶり神保町方面。また芸道の情報収集系で、久しぶりに専務に会ってインサイダーじゃないと聞けないいろんな話を聞いてこようと思います。しかし飲みに行くのに4時集合ってのがすごいよな(彼が市場の後、ってことと赤ちゃんいるから早く帰りたいもんねーということで)。
つうか火曜から金曜までほとんど終電間近やんね。まあ楽しかったからいいんだけど。
なんていうか、今週はめちゃくちゃ充実していた、というか現在形で、いる。充実というのは勿論色々あって、沢山休んだって充実だし料理が楽しくても充実。今週の充実は外交とお食事面での充実です。金も沢山飛んだけどなー。
火曜。ちょっとご無沙汰だった?☆さんと。先週体調を崩していた事などもあってなんかいいもの食べてないなーと思ったんで設定しました。最近なんか良いものにちゃんとお金を払って食べるという事が減っている気がしてるんですよねーなんなんですかねとかって最近代官山でランチ食ったやんあれ全然安くなかったし…というのはまあランチだからノーカンなわけですよ。
なんなんだろ、6時間メンバーの減少の問題なんでしょうか。まあとにかく今回訪れたのは広尾駅横地下、魚がうまいという記事をそこここで見かけるイタリアン。前日から雨でまだ天気が微妙だったせいなのか?お客さんは僕たちだけで申し訳ないというか居たたまれないというかお前ら経営大丈夫ですかというか…いやでもおいしかったし接客もよかったし、運が悪かった(んだか良かったんだか)だけなのかもね。でも★さんと前行ったおおエリア的には偶然一緒だけどオーストラリア料理屋もノーゲストだったのでなんていうかこの僕が選ぶとダメなんでしょうか。いや料理が美味いから文句はいわれないんだけどさ。まーそんな僕たちはその他にゲストの居ない店でうしおととらがいかにマンガとして完成されてるかとかマリスミゼルの1stがいかに完成されていたかとか女優さん探してる話とか大層クールジャパン(最近超バズワード)な話を繰り広げていたのでした。店員さんたち苦笑いしてただろうなあ…。
水曜。芸道の旅、中間地点。友人の紹介で華道&茶器に詳しい方に引き合わせて頂き、色々教えていただく。ロシア料理です。久しぶりの訪問で相変わらず立地の癖に落ち着いた雰囲気でとてもよいんだけど、なんかすごい混んでた…そんな空間を悠々使ってるわけでもないのにここってなんかあまり狭苦しい感じがしないのはいいね。それにしてもどっかで紹介されたのかな。
食べたのは定番系の…ってあんま覚えてないな、ずっと結構店員さんの説明無視して喋ってたからね。とりあえずボルシチとマッシュルームのシチューにパイ生地のったようなのは食べた。んで食い散らかした後は盛り上がって二軒目に行くぞ~ということで新宿重ったるいバーシリーズの右翼(のクセ普通の雑居ビルの上だけど)へ。そこでも飲んだし結構気分がよくなっていたので正確に思い出せないんだけど、そこで思ったことを思い出せる限りつらつら書いておきましょう。議題自体はかなりいろんな所に飛んだ気がするしちゃんと思い出せない面もあるので、あくまでそれを消化して自分が翌日思った事ダイジェスト的な…これが今日のメインかな。
考えてみれば当たり前の話だけれど、活けた花はしばらくするとくたびれるし、数日経てば枯れてしまう。そして写真に収めたところで本来その花で表したかった事柄を写し取る事など全くできない。保存する事ができない芸術だと思う。反対に大枠でいう絵や彫刻などは「作る芸術」で、作ってしまえば残りつづける。本とかもそうだな。音楽や演劇はそのプロットや音符を書き出すところまでは作る芸術であり残っていくものだけど、そのホンなり楽譜を下敷きに演じる時に演奏者のとらえかたや解釈によって出来上がりが大きく変わる可能性を秘めている、という意味でその中間、というか組み合わせであるのかもしれない(あ、作曲家の中には譜面が芸術であって演じる事は既に芸術ではないと思う人もいるのかもね…)。その芸術の賞味期限(?)の話。
演じられるものとしての舞台芸術は基本的に再現性のないものだし、その中には抗えない流れとして時間軸があり、全ては一回性で演じる傍から同じ場所では次のことが起こり消えていってしまうというのが昔からの基本的な考え方だったはず。しかしそれは写真やビデオなどの記録媒体の登場によってきっと事情が変わって、勿論その場の全てを収める事は無理だったとはいえ、役者がどう動き、どのような音が鳴り、どのような事が起こったかの記録としては十分耐えるものをその芸術が消え去る前に残す事ができるようになってしまった。
甚だしきは全てを記録できない事を逆手にとることでレンズに写るものだけを世界と捉えて記録される事(カット割という考え方はこの考えをベースにしなければありえなかったはず)を前提にした舞台、つまりテレビドラマや映画みたいなもの…映像作品とくくるのがいいのかな…も生まれたし、それが人工的であると非難される事は(よく調べてないから断言するとまずいかもしれないけど)なかった。
これは芸術の変化(進化じゃないよね)としては多分結構特殊な事で、うまく自分を取り巻く環境にあわせて分化…なのか適応なのか、したと言えるんだと思う。例えばCDの音質が良くなってSACDが生まれてもそれは結局生演奏の代替物としてどこまで生に近いかという、要するに永遠に生の響きには敵わない前提での虚しい軸で「君は代替物としてはよくがんばった」という評価してもらえないわけだから、そうやって自分を変化させ新しいもの、この場合は技術、と不可分になる事で新しい軸を生むというのは生存戦略としてはとても合理的。「ドラマは舞台のパチモン」とは誰も言わないよね。まーさらに映像の場合はマスメディアで流してどうの、という違う要素もあっていまや演劇や舞台より圧倒的に一般に普及してしまっているし。
じゃあ例えば音楽で記録されることを前提とした…というか録音でないと実現できない、と書いたほうが正しいのかな?…作品があるかというと、ああそうだ、ないと書こうと思ったけどミヒャエル・ナナサコフ(http://www.nanasawa.net/)なんかはある意味、それに近いかもしれない。七澤さんという人が人間じゃほとんど演奏できないような楽譜から書き取ったMIDIデータを打ち込み、架空のピアニストの録音という設定で売っている…って別にだましじゃなく「そういう設定です」って言ってるんだけどね。まあでも結構以前から活動してるようだしひょっとするとネットが普及する前とかは本当にそんな超絶ピアニストがいるとおもってた人もいるのかもしれない。僕はネットが普及する前はクラシック自体知りませんでしたが。
話を戻す。上記のナナサコフは当然、ライブで演奏する事で価値が変わる事は有り得ない。だってプログラムされたようにしか弾けないんだから。そういう意味で上の方で書いたように譜面という作る芸術があり、それを表現する消え物としての芸術があるという二重構造がここには存在せず、ナナサコフは忠実に譜面を再現するわけで。勿論一瞬で次の音が出てしまい、消えていくものとしての音は出るんだけど、同じものをいつでも再生できるのであればほしくなったら箪笥から出してくればいい、という意味でそれは絵や壷と一緒だよね。あーまあ厳密にはナナサコフが再現するのは譜面ではなく七澤さんが打ち込んだ一音一音に至るまでの音の解釈だから譜面に忠実に、ってのは表現を簡略化しすぎかもしれないね。七澤味が絶対入ってるし、それが正しい解釈かは作曲家本人にきかないとわからない…だって譜面ってあいまいだもん。とはいえ、それは人間が感じた気持ちを相手に伝えようとしたら基本的には言葉にしなければいけないのを「言葉にしちゃったら意味が変わっちゃう」とかいって拒否しても他に手段がないのと少し似ている気もする。事実そういうこともあるだろうけど、じゃあどうすんの、っていう。神は依り代なしでは託宣できないっすよー。
ま、とにかくこの例を追いかけていくとそうやって録音を内包した芸術(と呼びたくない人はたくさんいるんだろうけど)というのもなくもないけど、結局音楽の芸術としての良さや特徴である「芸術としての二重構造」を殺してしまっているという結論にここではなる。他にアプローチなんかあるかな…と考えた場合さっき書いた記録映像と映像作品の構造を読み替えて理屈で考えるならば、コラージュ的なものはありえるのかな、とは思う(面白いかは別の話)。
さっきカット割を記録映像には無い映像作品の特徴と書いたけど、正確にはカット割の有無というのは技術的(でいいのか?)な話で、重要なのは映像作品は生だったら当然縛られるはずの時間と場所の連続性から解放されているということなんだと思う。過去の回想とか場面変わって~とかを瞬時に出来るということね。じゃあそれを音楽に援用するならどうなるか…時間軸とか舞台転換とかってのはヒップホップで行われているサンプリングとかって話なのかなあ…音楽って視覚がない以上地理的な条件ってあんまりない事が多いので(どこかでしか演奏できない楽器ってのがあんまりなくて、結局移動しちゃえば済む…汎用品でいえば多分パイプオルガンくらいだよね、据え置きで動かせない楽器って…でも汎用だから別にどこのつかってもそんなに違いはないはずだし、それを言ったらピアノだって基本持ち運び不可か)からそれを飛び越えられるよ、ってのはあんまりぐっとこないし…。ううむ。まあこれキリ無い気がするからやめよう。
大回りしたけど話を一番最初に戻すといけばなって枯れちゃうからひとつの作品を残せないし材料に左右されるから音楽以上に再現性が低い事を考えるとじゃあそれで食うってなんなんだろうな、ってなことを思ったんですよ。食うというよりどうやって金に換えるか、ということね。
まずまた繰り返しになるけど花は枯れちゃうから出来た作品を誰かにほいと渡してお幾ら、ということはあんまり成り立たない。やるなら定期的に新しいものを渡し続ける契約か、もしくは短時間のイベントの間だけに使われるようなものでないといけない。でも芸術作品である以上毎回同じものがでてくるわけじゃない、となると両方発注側にリスクがあるからあまり好まれない気がする…。そして後者についてはやっぱり継続性が無いから生活の支えにはならない。定番化させて「結婚式はやっぱり華がないと!」ってなれば話は別だろうけど…。
ということで、じゃあ残りは演奏会形式か展覧会形式。音楽と違って鑑賞に時間軸が必要ない(いきなり作品の全容がどかんと視界に入り、ずっと見ていても変化が無い)というのはより手軽かと思いきや逆に長い時間拘束できないから演奏会形式ってのは無理だ。近いのはライブペインティング的な過程を見せる形にして時間軸を無理矢理作ることなんだろうけど、まさにライブペインティングがそうであるように、ライブでやるために手法をはじめ沢山のものを犠牲にしなければならないと思うとそれは例外でしかありえない。まあ普通の創作と同じでうんうん唸ったりたまに全部白紙に戻したりという過程を見せられても普通の人は面白くもなんともないというか時間かかりすぎよね。2時間の上映時間ではむりです。
じゃ、展示会にしましょう。幸い音楽と違って作品と人間が一応切り離せるから本人がその場にいなくても据え置き展示の形で客を集める事はできるけど、でもやっぱりさっき書いたように鑑賞に必要な最低限の時間が限りなく一瞬に近いから(これは絵画とかと一緒ね)、点数をたくさん用意してそういう意味での時間軸を引き伸ばして全部見るのに時間かかるような仕組みにするしかないような気がする。
かといって活ける先から枯れ始めることを考えるとひとりで沢山作品を作って展示するのは現実的なのか?疑問だ。やっぱグループ展しかないのか。なんか作家集団みたいにして…ってそうなるとあれこれ一人でどう稼いで生きるって話なのに今の華道の流派制ってこういうところでも合理的ですねーって話になるのかもしや。
ま、そんな事を考えていくと作品を切り離しては値段がつかなくて、あくまで「芸術発生装置」としての作家の私を買ってもらうって形に近くなっていくのかなあと思えてくるのでした。要するに一番最初の案ね。作品自体に永続性がないのを逆手にとって私を買えば作品が安定供給されますよという…具体的にするとやっぱりホテルのロビーとかに活けさせてもらうとか…ああなんて夢の無い、というこんだけだらだら書いたのに結論はとても陳腐なのでした。空間プロデュースで緑を生かそう、とかってのに内包されるのはやっぱり嫌なのかなー。絶対量は少ないだろうけど乃村みたいな大きな会社なら何人か専従を食わせるくらいの仕事ありそうな気がするけど。いやすっげえ適当。でも作家性って話ではなくなっていくよね。
ああそうだ流派とする事と作家性が両立しないって話もしたなー。あと床の間が無くなったことの影響とかって話もしてあー生活の中に取り込むってそういうことなんだと思った気もする。音楽って別に生活とそういう面ではつながってないもんねえ。言葉尻だけではサティの「家具の音楽」とかが頭をよぎるけど意味合いとしては全く違うし。
はい、長い水曜終わり。
木曜はリハ。土曜日に迫った本番のために定時で抜けて(この週ほぼ毎日定時ダッシュだ)楽器を担いで。ああうちの会社ってこういう時に楽器持ってるとみんなの目がやさしくていいなあ、と思ったりはしましたよ。で、また全員そろわないながらに頑張ってリハして、その後そこら辺に居たOB後輩と現役後輩を取り混ぜて(といっても4人)ご飯。現役ちゃんとかほとんどお話した事ないのでほっこりしました。ところでほっこりって僕が一番嫌いな言葉です、って別にいやだったって意味じゃないけど。なんかこうガクセーがいく感じのよくわからん居酒屋で後輩たちの噂話を聞くという、まっこと大学生らしき。僕以外のOBたちはわりと現役の顔と名前も一致してるので話に加わってたけどあたしゃさすがに無理ですわ、8個とか下の後輩はさすがに…。後半なんか現役同士やらOBの恋話になっていってたけどそういやその場にいたOB後輩2人も昔付き合ってなかったっけ人の話暴露しまくって笑ってるけどどこでつっこめばいいんだ…とか焼酎にやられた頭で考えていましたがまあいいんじゃないかと思い何もしませんでした。
金曜。次の日本番だし火曜からずっと定時で逃げてたからたまった仕事しよう!と思ってたんだけど、ちょうど定時前くらいに前職の先輩である番長様(女です)から「飲みに行くぞ」と召集。番長様は今までももしかしたら違う名前で出てきてるかも…地味な感じあまり目立たないんだけど仕事が堅実でレベルが高くて個人的にとても尊敬していた人。某超有名女子大卒業、英語もぺらぺらで立派なお姉さまかと思いきや酒が入ると(色んな意味で)キレまくるという。大人とは思えないキレっぷりです。面白いからいいけど。あと彼氏は職業差別は良くないにしろそれにしたって安居酒屋の店長…。ダメな部分と尊敬できる部分がこう絡み合ってる人なんだけどまあいいや、とりあえず召集通知がきて、年末から飲もう飲もうと言ってて実現してなかったってのもあり定時直前だった事もありよっしょ!となってしまい、結局下北沢で前職場にまだ居る爺&12月サシで飲んだ気がするミホさまと4人で打ちあがったのでした。あ、番長様はちょっと前に退職して同業他社で。
その場では何がトピックだったんだろう。とりあえず僕が仕事ぬるくてーとか言ったら番長様に「うちの職場に来い」って5回くらい言われたとかシンガポールってあんまニュースないよねとか僕の恋愛がなぜうまくいかないかとか経営コンサルうざいMECEってなんだよとかあとなんだろー。最後のほうはやっぱり番長様が壊れて「とんこつラーメンはないの!?」とかぶつぶつメニュー見ながら言い出して店員に絡みそうだったので取り上げたりしていました。いやにとんこつにこだわってたな…そしてまだ酒がほしいとか言うのを引き剥がして電車で帰るために会計して店の前で解散して僕だけ違う方面だったから脱出したら2時前くらいに爺から「めんどい。結局つかまって二軒目」という血を吐くような怨嗟メールが。タクシー詰めちゃえばよかったのにねえ。まあ先輩たちと飲むのはいつもとても楽しい。5から10こ上だもんね、みんな。
で、昨日土曜日は演奏会?というとなんか変な感じだけど飲みながらうえーって弾いて途中で落ちた人がいたので小節番号を適宜言ったりアドリブソロがあるのにそれを聞くのがみんな初めてだからソリストが「ここまで!」って終わり際で叫んだりまったくクラシックの曲の演奏とは思えない雰囲気でした。曲中でビール飲みだすし(俺。まー演奏の質はひどかったかもしれないけど楽しかったからいいんじゃないかな。
でも結局クインテットなのに5人であわせることが一度もできなかったってのが悔やまれるね。なんかやっぱり最初ってちょっと練習しただけですごい伸びていくから、それ以上は難しいにしろその練習の対時間効果が高い区間は通り過ぎておきたかったなーって思います…とか偉そうに書いておきながら多分一番下手だったの俺なんだけどね。他にヴァイオリンが居たからあまり楽譜読めなくても雰囲気でついていけちゃうだけで、あれ全く独立のパートだったら全然弾けなかった気がするもん。でももう一度、楽しかったからいいのです。でも他の団体の出演OB見てるとぜってー普段弾いてないだろ、って人たちもゴロゴロ居てそれってどうかなーとは思った。前OBオケに誘われた時断ったのもそういう理由だったけど結局練習でしか楽器ケースあけないとか普段弾かないってのを笑い話にして飲むための口実のために練習に現れるのってすごい嫌いなのよね僕。下手でもいいから真面目に向かい合えば良いのに…ってそこに「下手でも」っていうエクスキューズを入れるのは確かに自分が偉そうな事をいうだけの力量がないからってせいでもあるんだけどさ…結局うまけりゃなんでもいいわけだし。
まあそういう小難しい事はおいとく事にして、うちの団体は元々組んでる間柄でもないのにわりと幅広い年代から現役OB織り交ぜたメンバーで構成されてて、会の趣旨ともあってたし(飲みに行ったりとかする時間が無かったからそんなに仲良くなれなかったのは残念だけど)そういう意味でも面白かったですわ。ああ相変わらず背の高い2年生がぼくのツボをぎゅうぎゅう押していましたが特に話もできませんで、眼福以上のものではありませんでした残念。狙いすぎだよアレ…ていうか最近自分でも少なくとも外見についてはものすごく好みがはっきりしてきた気がして、ああ神様これが加齢ってことですかね。違うと良いんですけど。しかし服がダサダサな辺りはやっぱりうちのサークルの限界というかなんというかああ。
で、今日はこれからまたお久しぶり神保町方面。また芸道の情報収集系で、久しぶりに専務に会ってインサイダーじゃないと聞けないいろんな話を聞いてこようと思います。しかし飲みに行くのに4時集合ってのがすごいよな(彼が市場の後、ってことと赤ちゃんいるから早く帰りたいもんねーということで)。
つうか火曜から金曜までほとんど終電間近やんね。まあ楽しかったからいいんだけど。
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