幸福感について / 表現の手段としての云々
2011年11月19日 感想文。
まあ、ジャケ買いです。昨日外出先ですごく時間が余ったので本屋でなんかないかなーと思ってうろうろしていて、西島大介が文庫本の表紙かーとかいう驚きと(まあでも小畑健とか純文復刻のとかやってるしねえ)、堂々と恋愛小説であることをうたい、ハッピーエンドがうんたらなんて帯に書いてあるなんかこうストレートな感じが気に入って買ったんですけどね。
いや、面白かった。ハッピーな恋愛小説という僕が読まないジャンル二段重ねというのでなんていうか大丈夫かなと思ってたんだけど。いつも読んでるのってこういうのと真逆の...陰鬱でひねくれてるのばっかだからなあ...。なんだろ、こういう害も毒もない感じ、いいなあ...と思ったのです、簡単な話。というか文字にするとはずかしいけど、こういうのもっと昔に読んでたらもっと恋とかにあこがれてたかもな!
これがハッピーな終わり方なのか、というのは正直疑問だけど(このエピソードの結末としてはハッピーでも主人公のこの後の人生がハッピーになるとはちょっと思えない...)それはおいとくとして、技術的には物語のたたみ方がとてもきれいだなと思いました。中盤以降まで延々展開がなくこれどうやって終わらすの?と思ってたんだけど(ただ冬目景の「イエスタデイ」みたいなもんで、展開がないのが心地よい部分もあるんだけど)終盤その短いページ数にも関わらず、とてもきれいにまとめあげてくれます。まあそのたたむ方法は推理なんかでやったら確実に邪道ていうかノックスの十戒でそのまんま駄目っていわれてなかったっけ(確認してない)みたいな方法だけど、雰囲気的にアリと思えるのも作者の作戦勝ちなのかな…。読みながらニヤニヤしました。最近ニヤニヤしてない人にはいいのかもしれません。あー恋してえ。具体的には身長170cm以上の黒髪肌がとても白い女子が希望ですけどね!
まあ個人的に彼女の素性正体が不明云々ってのは実体験(いやちゃんと付き合ってないけど)というか身につまされるというか事実は小説より以下省略というやつですよねーというそんな事情もあったのかもしれません。別に偽名ちゃんに関しては実は他の星からの使者でも驚かんもんね、とりあえず尻尾はなかった気はするけど。
違う話。NYよりなぜか管理人さんが一時帰国していて、こないだNYで会ったばかりで次は何年後?とか思ってたのにとかまあ色々考えながらランチをして、彼女はそのあと演劇を見て地元に帰ったんだけど、その演劇の感想を聞いて思ったこと。
具体名は避けるけど、その芝居は政治…というか時事的な話題(まあ放射能とかよ)を取り上げたものだったらしく、でも管理人さんいわく、見ていて作家の戸惑いが見えてあまり何を言いたいのか伝わってこなかったんだとか(あらっぽい要約だけど)。
多分アングラとか芝居小屋系の、って限定なんだろうけど演劇というのは僕のあまり深くない知識では、確か一時期新左翼と構成する人脈が重なっていたせいだからかなんなのか、政治的なメッセージを表現、啓蒙するツールとして使われていたイメージがある。だからこそ通常の芸術とは毛色が違う、というかエラい、というか。そして蛇足かもしれないけど、小劇場系の演劇の人口が減って高齢化しているのは新左翼の高齢化と歩調を合わせているのとそういうところでリンクしている気がする…。
まあそれこそ荒っぽく言うと教化の材料として芸術を使う、というのは中国や旧ソ連を見れば左翼(というかあらゆる思想・主義者に、なのかな)には共通の発想・行動なのかもしれないと思ったりするんだけど、それは今日の本題じゃなくて、果たしてその手法は現代でも生きるのだろうか、ということだった。
僕は個人的にそもそも音楽にしろ絵にしろ舞台にしろ芸術に芸術それ自身以外の要素が入ってくるのが嫌いな人なのでなおさらなんだけど、芸術を通じて何かを伝える、って確かにそれは「感情表現の手段」であるとすれば否定されるものじゃないはずなのに、なんでこんなに釈然としないんだろうなー、という話です。若干眠いので論旨が明快か心配だ。
ちなみに僕がそういうのを嫌いな理由は…どっかで書いてる気がするけど、まず外部に依存しているという点でその作品は脆弱である、ということ。観客にある共通の知識を求めたりする作品は、時代が過ぎてその知識が流されてしまえば作品としての寿命もあわせて流されてしまう。極端な例を出すなら要するにCMや時事ネタのパロディなんかそうよね。パロディはあくまでオリジナルあってのものであって、結局は影にしか過ぎないし、批判していることが多いのに、その批判対象が権威や知名度を失ったら自分自身の首が絞まる。
あとは上の段で書いたことと矛盾するかもしれないけど、結局やっぱり芸術が手段として扱われることに抵抗がある、ということもあるのかもね。ああこれ一歩間違えると自分の昔の商売批判してる感じになるし自分でも峻別が難しいんだけど…。
僕の大好きな打海文三の絶筆「覇者と覇者」という作品の中で、とある歌手を指して「あの人の歌は何かに向けて人々を煽り立てるという事を注意深く避けている」というような一節があって、それと似たようなことなのかな。何かを見たり聞いたりして人々が何かの感情を抱く事はまったく自然だし、それが行動に繋がるのは否定されるべきではないとおもうんだけれども、それと「こういう気持ちを抱かせたい」という気持ちを作り手があらかじめ計画してそのような作品を作る事は、現出するものが例え同じであるように見えたとしても全く違うものである、というような…ううん、なんか歯切れ悪いのかな。
話を戻すと、そうやって戯曲化して届ける、というある種のパッケージ戦略?がこれだけ生の情報がネットで拾える時代に有効なのかな…というのが疑問だったわけ。テレビのニュースがその「ネットの時代」でも有効なのは原因は色々あるにせよそのフィルタリング機能によるわけだけど、そうやって芸術作品にまでする抽象化によって得られるものは何なんだろう。事象に対する批評は言葉によって例えばマスメディアなり、そこに力をふるえないならブログなどデジタルメディアでされればよくて、小さな、物理的に伝達出来る人数が限られた場所で行っても影響力は限られてる、というのが「一般的」な考え方じゃないかと思う。そうしたスタイル自体がかっこよかったり進んでいると思ってもらえる環境があれば、そこに誰かを呼んだりすることでその誰かがどっかの媒体に書いて…と続いていくかもしれないけど、もはやそんな神通力は失せたというか逆に正直胡散臭いイメージがとても強い演劇という方法が自分の政治的なメッセージや主張を伝えるという目的に対してどうなのか…ということです。
いや否定するというより本当にじゃあどうすりゃいいんだろうね、ということを書きたいだけなんだけど…なんか否定してるみたいな文章だな。あーあと台詞という具体的なものを持ってしまっているだけに、というかそのせいで?というか、クラシックみたいなインスト音楽よりもメッセージ性を簡単に持たせることが出来てしまう演劇というものはなんかその可能性を持っているだけに逆にそれに縛られるというか絶えず意識しなきゃいけないというか、そういう側面もあるのかなあ…と思ったりしています。
クラシックで政治やら時事批評というのはせいぜい状況に対応した表題の曲を演奏するってくらい(例えば今年の9月10日にマーラーの「復活」をニューヨークで演奏していたような)で、もう少し踏み込んだ他の例といえば…ハイドンがお休みほしくて書いた「告別」…最後の楽章で自分のパートを演奏し終えた団員が次々に楽器をしまって出て行き、確か最後はコンサートマスターだけが舞台に残って曲を弾き終える…とかって程度だもんなあ…。いや知らないだけであるのかな?歌詞がないとやっぱり直接「ばーか」っていえなくて、となるとその批判・批評を理解するだけの能力が相手にも必要になるから、やっぱ技法的にも難しいよね。
ぬぬぬ。
いや、面白かった。ハッピーな恋愛小説という僕が読まないジャンル二段重ねというのでなんていうか大丈夫かなと思ってたんだけど。いつも読んでるのってこういうのと真逆の...陰鬱でひねくれてるのばっかだからなあ...。なんだろ、こういう害も毒もない感じ、いいなあ...と思ったのです、簡単な話。というか文字にするとはずかしいけど、こういうのもっと昔に読んでたらもっと恋とかにあこがれてたかもな!
これがハッピーな終わり方なのか、というのは正直疑問だけど(このエピソードの結末としてはハッピーでも主人公のこの後の人生がハッピーになるとはちょっと思えない...)それはおいとくとして、技術的には物語のたたみ方がとてもきれいだなと思いました。中盤以降まで延々展開がなくこれどうやって終わらすの?と思ってたんだけど(ただ冬目景の「イエスタデイ」みたいなもんで、展開がないのが心地よい部分もあるんだけど)終盤その短いページ数にも関わらず、とてもきれいにまとめあげてくれます。まあそのたたむ方法は推理なんかでやったら確実に邪道ていうかノックスの十戒でそのまんま駄目っていわれてなかったっけ(確認してない)みたいな方法だけど、雰囲気的にアリと思えるのも作者の作戦勝ちなのかな…。読みながらニヤニヤしました。最近ニヤニヤしてない人にはいいのかもしれません。あー恋してえ。具体的には身長170cm以上の黒髪肌がとても白い女子が希望ですけどね!
まあ個人的に彼女の素性正体が不明云々ってのは実体験(いやちゃんと付き合ってないけど)というか身につまされるというか事実は小説より以下省略というやつですよねーというそんな事情もあったのかもしれません。別に偽名ちゃんに関しては実は他の星からの使者でも驚かんもんね、とりあえず尻尾はなかった気はするけど。
違う話。NYよりなぜか管理人さんが一時帰国していて、こないだNYで会ったばかりで次は何年後?とか思ってたのにとかまあ色々考えながらランチをして、彼女はそのあと演劇を見て地元に帰ったんだけど、その演劇の感想を聞いて思ったこと。
具体名は避けるけど、その芝居は政治…というか時事的な話題(まあ放射能とかよ)を取り上げたものだったらしく、でも管理人さんいわく、見ていて作家の戸惑いが見えてあまり何を言いたいのか伝わってこなかったんだとか(あらっぽい要約だけど)。
多分アングラとか芝居小屋系の、って限定なんだろうけど演劇というのは僕のあまり深くない知識では、確か一時期新左翼と構成する人脈が重なっていたせいだからかなんなのか、政治的なメッセージを表現、啓蒙するツールとして使われていたイメージがある。だからこそ通常の芸術とは毛色が違う、というかエラい、というか。そして蛇足かもしれないけど、小劇場系の演劇の人口が減って高齢化しているのは新左翼の高齢化と歩調を合わせているのとそういうところでリンクしている気がする…。
まあそれこそ荒っぽく言うと教化の材料として芸術を使う、というのは中国や旧ソ連を見れば左翼(というかあらゆる思想・主義者に、なのかな)には共通の発想・行動なのかもしれないと思ったりするんだけど、それは今日の本題じゃなくて、果たしてその手法は現代でも生きるのだろうか、ということだった。
僕は個人的にそもそも音楽にしろ絵にしろ舞台にしろ芸術に芸術それ自身以外の要素が入ってくるのが嫌いな人なのでなおさらなんだけど、芸術を通じて何かを伝える、って確かにそれは「感情表現の手段」であるとすれば否定されるものじゃないはずなのに、なんでこんなに釈然としないんだろうなー、という話です。若干眠いので論旨が明快か心配だ。
ちなみに僕がそういうのを嫌いな理由は…どっかで書いてる気がするけど、まず外部に依存しているという点でその作品は脆弱である、ということ。観客にある共通の知識を求めたりする作品は、時代が過ぎてその知識が流されてしまえば作品としての寿命もあわせて流されてしまう。極端な例を出すなら要するにCMや時事ネタのパロディなんかそうよね。パロディはあくまでオリジナルあってのものであって、結局は影にしか過ぎないし、批判していることが多いのに、その批判対象が権威や知名度を失ったら自分自身の首が絞まる。
あとは上の段で書いたことと矛盾するかもしれないけど、結局やっぱり芸術が手段として扱われることに抵抗がある、ということもあるのかもね。ああこれ一歩間違えると自分の昔の商売批判してる感じになるし自分でも峻別が難しいんだけど…。
僕の大好きな打海文三の絶筆「覇者と覇者」という作品の中で、とある歌手を指して「あの人の歌は何かに向けて人々を煽り立てるという事を注意深く避けている」というような一節があって、それと似たようなことなのかな。何かを見たり聞いたりして人々が何かの感情を抱く事はまったく自然だし、それが行動に繋がるのは否定されるべきではないとおもうんだけれども、それと「こういう気持ちを抱かせたい」という気持ちを作り手があらかじめ計画してそのような作品を作る事は、現出するものが例え同じであるように見えたとしても全く違うものである、というような…ううん、なんか歯切れ悪いのかな。
話を戻すと、そうやって戯曲化して届ける、というある種のパッケージ戦略?がこれだけ生の情報がネットで拾える時代に有効なのかな…というのが疑問だったわけ。テレビのニュースがその「ネットの時代」でも有効なのは原因は色々あるにせよそのフィルタリング機能によるわけだけど、そうやって芸術作品にまでする抽象化によって得られるものは何なんだろう。事象に対する批評は言葉によって例えばマスメディアなり、そこに力をふるえないならブログなどデジタルメディアでされればよくて、小さな、物理的に伝達出来る人数が限られた場所で行っても影響力は限られてる、というのが「一般的」な考え方じゃないかと思う。そうしたスタイル自体がかっこよかったり進んでいると思ってもらえる環境があれば、そこに誰かを呼んだりすることでその誰かがどっかの媒体に書いて…と続いていくかもしれないけど、もはやそんな神通力は失せたというか逆に正直胡散臭いイメージがとても強い演劇という方法が自分の政治的なメッセージや主張を伝えるという目的に対してどうなのか…ということです。
いや否定するというより本当にじゃあどうすりゃいいんだろうね、ということを書きたいだけなんだけど…なんか否定してるみたいな文章だな。あーあと台詞という具体的なものを持ってしまっているだけに、というかそのせいで?というか、クラシックみたいなインスト音楽よりもメッセージ性を簡単に持たせることが出来てしまう演劇というものはなんかその可能性を持っているだけに逆にそれに縛られるというか絶えず意識しなきゃいけないというか、そういう側面もあるのかなあ…と思ったりしています。
クラシックで政治やら時事批評というのはせいぜい状況に対応した表題の曲を演奏するってくらい(例えば今年の9月10日にマーラーの「復活」をニューヨークで演奏していたような)で、もう少し踏み込んだ他の例といえば…ハイドンがお休みほしくて書いた「告別」…最後の楽章で自分のパートを演奏し終えた団員が次々に楽器をしまって出て行き、確か最後はコンサートマスターだけが舞台に残って曲を弾き終える…とかって程度だもんなあ…。いや知らないだけであるのかな?歌詞がないとやっぱり直接「ばーか」っていえなくて、となるとその批判・批評を理解するだけの能力が相手にも必要になるから、やっぱ技法的にも難しいよね。
ぬぬぬ。
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