最近Chatpadで上海人に会って、MSNメッセンジャーに移行して交流が続いている。べらぼうに日本語がうまく、打鍵が早い。学部時代日本留学しただけらしいんだけど…。あ、でも僕の数少ない中国人知り合いの中でぬきんでて日本語がうまいアンさんとチャット上で共通の違和感(よく「ほおおおおおお」とか使う)があるのは面白いなと思う。発音(例えば韓国人は破裂音だっけ、がうまく発音できないとか)ってのは母国語にひきづられているという意味でとても自然だと思うんだけど、そういう言い回し?に特徴が出るってのもそういう所が元なのかな?・・・ってサンプル数2じゃ説得力ないですね。ちなみにハルビンの近く出身らしいですが。


 さて、その上海人と音楽の話をしていて、クラシックは全然しらないから一曲紹介しろといわれてチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を紹介したのです。んでしばらく聞かせたあとに「で、これのストーリーは何?」という質問をされた、というのが今日の話。
 音楽にストーリーって何意味ワカンネって聞いたら「例えば『梁山伯と祝英台』とかは言い伝えを元にしているから起承転結あるでしょ」って言われて(梁山伯と祝英台、通称梁祝は中国で一番有名な中国人作曲家の手によるヴァイオリン協奏曲)。梁祝なんてなんで知ってるねんというのはおいとくとして、あーなるほどーと思ったですよ。
 普段クラシックを聞かずポップスを主に聴いている人にとっては歌詞があるのが自然で、それがないというだけで結構聞きづらいと言ったりするのは認識してた(わざわざ「インスト」って呼ぶなよみたいな)。でもそれを一段掘り下げると歌詞がある歌ってのは要するにテーマというかいいたい事…振られて悲しいとか…があるってことなんだよ。だからそれに対する共感とか反感とか、何かしら軸に対しての態度のとり方ってのが比較的簡単に選べるのかも。
 翻っていわゆるクラシックっていうのは標題があるものだとしても、長ったらしいストーリーはないものが多い。「運命」って言ったところでじゃあ最初のノック(だだだだーん)以外のどこが運命なのよ?なんかある人が自分の宿命に立ち向かって病気とでも闘って弱ってでも跳ね返して最終的に勝利するって話なのかという話で(ちなみに一応wikipediaでは確認したけど「運命」についてはベートーヴェンがつけた名前ではないのでこれは「標題」とは言わない。誰かが勝手につけた「表題」だね)。あるとしたら交響詩はそういうものなのかな?あまり聞かないからよく知らないけど。例えばショパンの子犬のワルツだって別に物語があるわけじゃなくて、あのちょろちょろした…ってこれも多分「表題」だな…。
 
 そんなわけで、話を戻してヴァイオリン協奏曲は「音楽のための音楽」っていうことになるのか?と思うとそれって結構普通に考えてとっつきにくいよな…と思うわけです。何か芸術に接する時についついコンテクストから考えてしまうというのは慣れた人でもおちいりがち…というか特に「現代~」と呼ばれるある種の作品には批判の対象であったり何かしら外部の芸術や事象に依存していてコンテクストなしでは成り立たなかったり意味を成さなかったりする(例えばデュシャンの泉とか)場合すらもあるのは理解していつつも僕はそれがとても嫌いなんだけどまぁそれはおいとくとして、曲を聴く前、または聴きながらでも良いんだけど(さっき書いたことにも重複してるけど)何かを軸にそこから意味づけしていくというのは自分にとって意味づけがしやすいんだよねきっと。音楽を音楽として聴く、というのはある種のスキルなのかもしれないと思うわけ。

 とか言ってじゃあ自分がそのスキルを持ち合わせているかというと怪しくて、というか多分足りない。それが現われているのが比較的最近の交響曲が苦手、というところ。クラシックの交響曲というのは一般的に時代を下るにつれて縦にも(大編成)横にも(演奏時間)長くなってきている(理由はめんどいのではしょる)。
 縦に長いというのはヴァイオリンで出てきた主題がピッコロで出てきて、それを展開したものがオーボエで出てきた後にチェロに戻ってくる、みたいな事を意味するし、横に長いというのはその主題が随分後になって、時には楽章をまたいで帰ってくることを意味する。曲というのが基本的にはいくつかの主題とその展開をベースに作られていることが多いとするならば、その主題をちゃんと感じられるかどうかというのが「ひとつの曲を聞いているという感覚」を得るための重要な鍵であるわけ。メロディはでてこなくても同じコード進行だなーとか、コードまでわからなくても伴奏一緒だ、とか。それを統一された「曲」として感じるというのは、ひとつの聞くほうのスキルなんです多分。
 
 でもそうやって長大になった曲では、いくつもある主題なりモチーフがいやらしい形で忘れた頃に帰ってくることが多い。作るほうも単純に再現するだけでは芸がないと思うのか何度かずらしたり位なら良いけど例えばどっかの曲では主題をそのまま逆から(右から左へ、ってことねドレミーって主題ならミレドーって)弾く、みたいなことをやっていたりして甚だわかりづらい。しかも時代が下るとそのマニアック度合いがどんどんインフレしていってる(気がする)。だから僕はそういう曲を聞いても同じ楽章内であってもそれがひとつの曲だという確信がもてないことが多くて、「曲を聞いてる」のではなくてもっと短いフレーズ単位でしか耳に入ってこない。まったく全体が見えない、想像がつかない中で曲を聞くというのが非常な苦行なのです。

 ちょっとそれてる気もするけど、僕にとってはそういう音楽的な「お約束」に従った展開がある曲であれば最初を聞けばおおまかな展開がある程度想像できて(例えば知らない曲を早送りで2,3分ごとくらいにとめながら聴いても一番盛り上がってる部分は割合確信をもって拾える場合が多い。楽器の使い方とかでもわかる)、だから安心して曲を聞き続けられるし、逆にそれが想像できないほど複雑な曲は生理的に駄目って話。そして要するにそれってコンテクストだとか、ストーリーだとかと根は同じなのかもと思いましたということです。その場その場で流れて去っていく音楽を集中して聴いてその積み上げで全体像を把握するというのはもしかしたらとても難しくて、誰しも何かを手がかりに「自分は今全体のどこ(別に何楽章の何小節という意味じゃなく)を聞いている」というのを考えなきゃ不安なものなのかな、と。

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