簡単に。
読み終えて思ったのは、「これ全然赦しの物語なんかじゃない」ってこと。
http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20080704bk01.htm
ここで読んだ「神がいない現代の赦(ゆる)しの問題を考えながら書き進める中で」って一節がすごく気になってたんですが、これは全然主題ではありませんでした。
あとこの作品、「悪魔」と名乗った加害者を全然掘り込んでないです。典型的な「幸福な家庭で育たなかった人」としか描いていない。これはあえて理解がまったく及ばない「圧倒的に遠い他者」であることを逆に強調するために普通の人からそう遠くない存在として設定したのかそれとも書き込みが浅いのか、よくわかりません。
殺人を描くなら殺す側の動機(京極さんのように「動機は後付のものだ」って言っちゃうのでもいいけど)とか心情を書き込んでほしかったなぁと思うんです。
ただ文中かなり雑に見える設定は多々あるんで、その辺を見てしまうとそういうだけのことなのかなとも思えてしまいます。なぜ666の正体を思い込んだのか、とか。多分書きたい部分に紙幅を取って書き込んでそれ以外の部分は繋ぎだからぱっぱっぱ、って感じで書いたんだろうなぁ…みたいな邪推をしてしまうような(そして「書きたい部分」は必ずしも一冊を通してのひとつのテーマに結びつかなかったりして)。その書きたい部分にしても平凡な家庭生活をだらだら書いてたり衒学つうか本筋はどこ?状態で語りに入っちゃったり…。
文句ばっか書いてもしゃあないです(そしてこう書いてある割にはそんな読み終えて金の無駄したとかは思ってません)。好きだったのは前回の日記でもちょっと書いた「殺人は遺伝と環境」って悪魔の話、下巻の悪魔の幸せの話と最後に思いっきり室田さんに怒られてますが崇くんの赦しの話。
ただ幸せについては幸せは主観によって感じるものだから客観的な状態によって判断できないわけで、「幸せを目指すことを強制される」という状態は(他の状態を強制されるのとは違って)必ずしもひとつのゴールに向かって向かわされることではないという視点が抜け落ちているように感じます。貧者が金持ちより幸せであることは(定量的な測定は無理だけど)充分ありえるわけで。
で、一番気になっているのはなんで舞台が2002年なのに文中出てくるのがDSM-?かってこと(とっくにどっかで突っ込まれてるだろうけど)。「素人同士の世間話だから間違ってて当然」とか言っちゃうならそれはそれで構わないけど、知らないなら相当恥ずかしいですよ。?の発行年なんて知りませんが、ここ10年とかは?のはずです…。
上の上の幸せの話にしてもそうだしDSMの話にしてもそうだけど、こんな話を書いていると全然ジャンルは違うけど士郎正宗さんを思い出します。あの人はこういう話をわざと本文中で間違ったりして欄外でそれに「この人は〜だから本当のことを知らない」とか書き足してあったりするわけ(上の例だと「素人同士云々」みたいな)。それって現実世界では往々にして起こりうることだけど、物語の中の人物はそういう間違いを犯さない。まぁ小説は欄外に書き込むって裏技は使えないけど、正解(または物語上重大なミス)しか起こらない世界はうすっぺらいし、そうやって世界のブレを増やすことで彼の作品は厚みを増していたんだな、なんて思うんですね。
幸せの話にしても、悪魔がこの話をしたずーっとあとにでも作中人物に論破させるようなカタチをとってさらに深みのある理屈を提示できれば(自分が一旦納得したものを作中人物に壊されるという体験もあいまって)深みがぐっと増すのかなぁ。とかね。キチガイの理屈だから穴がありましたってのは話の流れ的にまったくおかしくないし。
あ、そうそうそう。「手を汚しながら読む」の話ですけど、どっちかっていうと「この本は自分が購入するまでにいろんな人の手をわたってきたんだな」というのがよくわかる仕組みでした。そうなるのわかってたから山の下の方からとったんだけど、やっぱり中には指紋がちらほら。
ていうか眠い。0時に帰ってきてこんなもの書いてる場合じゃないわ。
読み終えて思ったのは、「これ全然赦しの物語なんかじゃない」ってこと。
http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20080704bk01.htm
ここで読んだ「神がいない現代の赦(ゆる)しの問題を考えながら書き進める中で」って一節がすごく気になってたんですが、これは全然主題ではありませんでした。
あとこの作品、「悪魔」と名乗った加害者を全然掘り込んでないです。典型的な「幸福な家庭で育たなかった人」としか描いていない。これはあえて理解がまったく及ばない「圧倒的に遠い他者」であることを逆に強調するために普通の人からそう遠くない存在として設定したのかそれとも書き込みが浅いのか、よくわかりません。
殺人を描くなら殺す側の動機(京極さんのように「動機は後付のものだ」って言っちゃうのでもいいけど)とか心情を書き込んでほしかったなぁと思うんです。
ただ文中かなり雑に見える設定は多々あるんで、その辺を見てしまうとそういうだけのことなのかなとも思えてしまいます。なぜ666の正体を思い込んだのか、とか。多分書きたい部分に紙幅を取って書き込んでそれ以外の部分は繋ぎだからぱっぱっぱ、って感じで書いたんだろうなぁ…みたいな邪推をしてしまうような(そして「書きたい部分」は必ずしも一冊を通してのひとつのテーマに結びつかなかったりして)。その書きたい部分にしても平凡な家庭生活をだらだら書いてたり衒学つうか本筋はどこ?状態で語りに入っちゃったり…。
文句ばっか書いてもしゃあないです(そしてこう書いてある割にはそんな読み終えて金の無駄したとかは思ってません)。好きだったのは前回の日記でもちょっと書いた「殺人は遺伝と環境」って悪魔の話、下巻の悪魔の幸せの話と最後に思いっきり室田さんに怒られてますが崇くんの赦しの話。
ただ幸せについては幸せは主観によって感じるものだから客観的な状態によって判断できないわけで、「幸せを目指すことを強制される」という状態は(他の状態を強制されるのとは違って)必ずしもひとつのゴールに向かって向かわされることではないという視点が抜け落ちているように感じます。貧者が金持ちより幸せであることは(定量的な測定は無理だけど)充分ありえるわけで。
で、一番気になっているのはなんで舞台が2002年なのに文中出てくるのがDSM-?かってこと(とっくにどっかで突っ込まれてるだろうけど)。「素人同士の世間話だから間違ってて当然」とか言っちゃうならそれはそれで構わないけど、知らないなら相当恥ずかしいですよ。?の発行年なんて知りませんが、ここ10年とかは?のはずです…。
上の上の幸せの話にしてもそうだしDSMの話にしてもそうだけど、こんな話を書いていると全然ジャンルは違うけど士郎正宗さんを思い出します。あの人はこういう話をわざと本文中で間違ったりして欄外でそれに「この人は〜だから本当のことを知らない」とか書き足してあったりするわけ(上の例だと「素人同士云々」みたいな)。それって現実世界では往々にして起こりうることだけど、物語の中の人物はそういう間違いを犯さない。まぁ小説は欄外に書き込むって裏技は使えないけど、正解(または物語上重大なミス)しか起こらない世界はうすっぺらいし、そうやって世界のブレを増やすことで彼の作品は厚みを増していたんだな、なんて思うんですね。
幸せの話にしても、悪魔がこの話をしたずーっとあとにでも作中人物に論破させるようなカタチをとってさらに深みのある理屈を提示できれば(自分が一旦納得したものを作中人物に壊されるという体験もあいまって)深みがぐっと増すのかなぁ。とかね。キチガイの理屈だから穴がありましたってのは話の流れ的にまったくおかしくないし。
あ、そうそうそう。「手を汚しながら読む」の話ですけど、どっちかっていうと「この本は自分が購入するまでにいろんな人の手をわたってきたんだな」というのがよくわかる仕組みでした。そうなるのわかってたから山の下の方からとったんだけど、やっぱり中には指紋がちらほら。
ていうか眠い。0時に帰ってきてこんなもの書いてる場合じゃないわ。
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