「それ以上細分化できない最小単位」
2007年11月26日 考え事をなんと呼ぶのだろう、と思ったけど特に決まった言い方はないみたい。量子とか、色々その単位の対象によってあるみたいだけど。
テツガクの入門本、連休前くらいに読み終わってたんですが、今日はまたその関連です。ちなみに相当おおざっぱなのでその点ご留意を…
なんか読んでて(一番下で紹介されてるまとめもね)違和感を感じたのが「最近の哲学(というか僕が読んだ本では哲学ではなく「現代思想」と書いていたけど)は自分の意思というものを否定している」という部分。勿論僕は最近の思想界の潮流なんか知るわけもないのでそれが主流であること自体を否定しようがないし別に疑問もないのだけれど、それを受け入れるのが人間として…うーん。受け入れたくないところです。
例えばそれこそ前ちょっと書いたドゥルーズ=ガタリの機械の話だってそういう視点で見れば要するにそこに個はなくて人という要素がありさえすれば機械が動作してしまう=個々人の違いに意味はない…みたいな話にも見えたりもする。
でもそれを否定したいなって思ってたんです。多分ちょっとでもちゃんと勉強すれば誰かの理論を援用してあっさり否定されちゃったりするんでしょうけど、それを積み重ねなきゃ仕方ない、というかゴール付近からはじめることなんかできないわけで、千里の道も一歩から。
で、そんなことを踏まえながら。思ったんですけどこういうのはどうなんでしょうね。自分の存在(独自性というか自我?)を肯定することをタイトルどおり「最小単位」としてしまうというのは。つまりそれはもう自明として、否定してしまったら論が成り立ちませんキリもありませんしね、としてしまう。
そういった所から出発すれば例えば認識の話、「全ては私の意識の中にのみ存在し、私の意識を離れては何物も存在しない」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AC%E6%88%91%E8%AB%96
という独我論?を悲しいと思うこともなくなるのかなと。
ていうかこれってなんなの?よくわからん。自分の認識外のものが「ない」ことに問題意識を持つことが理解できないんですよ(違うの?)。だって自分の世界というものは認識されている範囲でしか認識できないわけで、それって同義反復?みたいな。
要するに「わからない部分がわからない」ことになんの不自由があるんだろう、って思うんです。いや上のウィキペディアだとこれは「一つの懐疑主義的仮説」として扱われてきたと書いてあるからきっと例としては不適当なんでしょうよ。「自己の精神以外は認めない」をひっくり返せば「自己の精神については認める」なわけだし。だからもう少し時代が進んだものを例とすればよかったのかな?
ああ考えているうちにわからなくなってきた。確かに「私」の存在に確信を持ったとしても私以外に何もいない世界では孤独であるという寂しさは確かにあるわけだし…。
うーん。だから一番下のまとめにある
こういうのが嫌なわけ。結果として神の操り人形であったとしても一番ダメなのはそうやって自分の外に原因押し出しちゃうというか…そういう態度。極論すれば犯罪とかで個人を罰することの意味ってなんなんだろう…とか言っちゃって。
そういうところからまた京極さんが顔を出します。別に彼の作品で魍魎の匣が一番いいとは思いませんが、というか圧倒的に絡新婦の理が好きなんですが、そんな話ありましたよね。
http://plaza.rakuten.co.jp/aviveyatpho/diary/200710300000/
もう分厚い本めくるの面倒なんでリンクですませますが、犯罪の動機についての話。動機はさかのぼって皆を納得させるために作られる神話だ、みたいな話。
あーまぁ結論のない話でしたよ。今日は早く帰れたのでちょっと長め。ちょっと作曲に戻ります。
明日は渋谷でうなぎ。
なんかパキスタンの報道弾圧?のニュースを見てて問題(というかポイント?)は民主化の至らなさではなくて、そんな国はたくさんあるんだし、それを不公平と思うようになってしまった教育水準のアンバランスな進み方なんだろうなぁと思ったのでした。それを当然だとみんなが思っていれば別に問題にゃならないでしょ。
関連まとめ(面白いっす。多分入門本読んだ今読み直したらもっと楽しい…かも):
http://urasoku.blog106.fc2.com/blog-entry-185.html
テツガクの入門本、連休前くらいに読み終わってたんですが、今日はまたその関連です。ちなみに相当おおざっぱなのでその点ご留意を…
なんか読んでて(一番下で紹介されてるまとめもね)違和感を感じたのが「最近の哲学(というか僕が読んだ本では哲学ではなく「現代思想」と書いていたけど)は自分の意思というものを否定している」という部分。勿論僕は最近の思想界の潮流なんか知るわけもないのでそれが主流であること自体を否定しようがないし別に疑問もないのだけれど、それを受け入れるのが人間として…うーん。受け入れたくないところです。
例えばそれこそ前ちょっと書いたドゥルーズ=ガタリの機械の話だってそういう視点で見れば要するにそこに個はなくて人という要素がありさえすれば機械が動作してしまう=個々人の違いに意味はない…みたいな話にも見えたりもする。
でもそれを否定したいなって思ってたんです。多分ちょっとでもちゃんと勉強すれば誰かの理論を援用してあっさり否定されちゃったりするんでしょうけど、それを積み重ねなきゃ仕方ない、というかゴール付近からはじめることなんかできないわけで、千里の道も一歩から。
で、そんなことを踏まえながら。思ったんですけどこういうのはどうなんでしょうね。自分の存在(独自性というか自我?)を肯定することをタイトルどおり「最小単位」としてしまうというのは。つまりそれはもう自明として、否定してしまったら論が成り立ちませんキリもありませんしね、としてしまう。
そういった所から出発すれば例えば認識の話、「全ては私の意識の中にのみ存在し、私の意識を離れては何物も存在しない」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AC%E6%88%91%E8%AB%96
という独我論?を悲しいと思うこともなくなるのかなと。
ていうかこれってなんなの?よくわからん。自分の認識外のものが「ない」ことに問題意識を持つことが理解できないんですよ(違うの?)。だって自分の世界というものは認識されている範囲でしか認識できないわけで、それって同義反復?みたいな。
要するに「わからない部分がわからない」ことになんの不自由があるんだろう、って思うんです。いや上のウィキペディアだとこれは「一つの懐疑主義的仮説」として扱われてきたと書いてあるからきっと例としては不適当なんでしょうよ。「自己の精神以外は認めない」をひっくり返せば「自己の精神については認める」なわけだし。だからもう少し時代が進んだものを例とすればよかったのかな?
ああ考えているうちにわからなくなってきた。確かに「私」の存在に確信を持ったとしても私以外に何もいない世界では孤独であるという寂しさは確かにあるわけだし…。
うーん。だから一番下のまとめにある
77 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。:2007/07/25(水) 17:32:16.34 ID:fySEz3EZ0
難しいけど要は自分すら観察対象つまりは客体に
なってしまうよってこと?
関係ないけど、人には自由意志なんてないと思ってるんだ。
生まれ持っての性質+後の生活環境で人なんて
決まってしまうから。
人が選択できることなんて実際ないんじゃない?
>>77
その理解でほぼ完全だと思う。
自己など存在しない、自由意志などないってのが現代的だよね。
でもさ、俺こういうの大嫌いなんだよなぁ。
根が実存主義者だから。
こういうのが嫌なわけ。結果として神の操り人形であったとしても一番ダメなのはそうやって自分の外に原因押し出しちゃうというか…そういう態度。極論すれば犯罪とかで個人を罰することの意味ってなんなんだろう…とか言っちゃって。
そういうところからまた京極さんが顔を出します。別に彼の作品で魍魎の匣が一番いいとは思いませんが、というか圧倒的に絡新婦の理が好きなんですが、そんな話ありましたよね。
http://plaza.rakuten.co.jp/aviveyatpho/diary/200710300000/
もう分厚い本めくるの面倒なんでリンクですませますが、犯罪の動機についての話。動機はさかのぼって皆を納得させるために作られる神話だ、みたいな話。
あーまぁ結論のない話でしたよ。今日は早く帰れたのでちょっと長め。ちょっと作曲に戻ります。
明日は渋谷でうなぎ。
なんかパキスタンの報道弾圧?のニュースを見てて問題(というかポイント?)は民主化の至らなさではなくて、そんな国はたくさんあるんだし、それを不公平と思うようになってしまった教育水準のアンバランスな進み方なんだろうなぁと思ったのでした。それを当然だとみんなが思っていれば別に問題にゃならないでしょ。
関連まとめ(面白いっす。多分入門本読んだ今読み直したらもっと楽しい…かも):
http://urasoku.blog106.fc2.com/blog-entry-185.html
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