ヤクザの文化人類学―ウラから見た日本 / ヤコブ・ラズ著
2005年1月18日 感想文。
読了しました。全然記憶していなかったけれど、この人はテルアビブ大学の東アジア学科長を前までやっていたようでちょろちょろ山森先生(http://www.geocities.jp/mikayamamori/)の日記に登場しています。いや、ちゃんとこの本が紹介されたトコで出てきたのは覚えてるんですが…。あ、よく出てくるあの人の事だったのね、と今更ながら合点。最近ヘブライ語で「アヒー(わが兄弟)、ヤクザ」ってのを書いて売れてるそうですが。
肝心の中身はといえば全くタイトルそのまんま。ただ異種の民族と自民族の差異から自民族の特徴を知る、というのが文化人類学の立場だったと思うのだけれど著者の語る言葉の中にはそういう明確な内容はない。「日本人」と「ヤクザ」という対比はあっても。
そして、この本は真面目な学術本なので半端な気持ちで手に取ると、寝ます(苦笑。
印象に残った文。
…つまり(ここからはこの本を読んでの僕の勝手な考えだけれど)、日本人や日本社会にとってヤクザは決して「異物」ではなく、それどころか日本人の思う「日本的である」という事の一つの象徴(例えば義侠心であるとかそういった事)とされている、という事。
この部分を読んでおととしだかに読んだ森孝一先生の『宗教からよむ「アメリカ」』という本に「モルモン教はアメリカ人よりアメリカ的であった事も政府によって危険視された原因の一つであった(これも記憶によるのでちょっと正確かどうか保障しかねるけれど)」というような記述があった事を思い出しました。
モルモン教が潰されたのは合衆国に合流する意思がなかったのが一番大きな原因だとは思いますが(一夫多妻制の容認など)。
そしてその山森先生の日記で片っ端から「ヤクザ」で過去ログを漁っていた時に見つけた学生の発言(この本を使って院で授業をしたときの話)、「イスラエル人とパレスチナ人のことを考えればいい。イスラエル人がいなければパレスチナ人はいなかったし、パレスチナ人がいるからイスラエル人のアイデンティティがある。そして両者は互いに離れられないぐらい絡まりあって、互いを反映して、だんだん似てくるのさ」
これも興味深いと思います。文中で述べられているヤクザとカタギとの関係とはちょっと違う気もするけれど。
これを読んで思い出すのは「相争う二つの陣営は対立するが故に互いに徐々に歩み寄り、構造が似ていく」という話。これはどこで読んだか忘れた。そしてとても思い出したい。たしかアメリカの二大政党制の話かなんかで出てきたんだけど…。
さらに話を進めていくと敵と戦う為に生まれた組織は戦いが長く続く内に組織自体にコミットする(という表現はどうだろう?あってんのかな)人間が多数出てきて組織それ自体を保つ為に敵が必要になってくる(パレスチナ人が一応組織としてPLOをやっていられるのは多分対イスラエルという目標があるからでしょうし、日本での例を挙げれば左翼から乗り換えたオウムが弱体化してきて存在価値がなくなって困ってる公安調査庁だとか)…という所までたどり着くような気もするけれど、これは完全に別の話になりますな。
人間が暮らしていくところにヤクザなりギャングなり呼称はなんでもアウトローという存在は発生するだろうけれど(これは後述)それは別に必要としてるから、というわけじゃなく自然に生まれる、という話だし。
いや、発生は望まれて発生するわけではないけれど常に進んで生贄になる役回りの人間というのは社会に望まれてるのか…(フレイザーの金枝篇にある「豊作を願って乞食を王として担ぎ、豊作であればもてなし、凶作であればこれを殺す」という話を思い出しました。あれ、乞食という人種(?)がいなかったら誰彼構わず生贄って事になって嫌だもんなぁ…)。ふむ。
そしてもう一つ、
という記述もまたふむふむ、と思わされる。社会の中では予め「社会の周辺の何%は犯罪者と見なす」という決定があって実はその周辺の住人が犯した「犯罪」の軽重はどうでもよく、ただその社会の構成員にその社会がどういう性質かを示す為(つまり、なんでも輪郭がはっきりしていた方がモノの形はつかみやすいといったような)、そして社会がその目指す方向に更に変化していく為(先ほどの修道院の例で言えば「更に善人になる」為)の…悪く言ってしまえば生贄にされている、ってことなのかな。
しかしそうすると必然的に一旦生まれた社会は延々と縮小の方向に向かっていく、って事になっちゃうのだけれど。きっと修道院の最後の一人は自分より少し善人ではない他者を排除した後自分の不完全さを呪って首を吊るでしょう。
なんか書いてる内に上下二つのトピックが重なってきましたね。つまりヤクザという人種は一種穢れ(ケガレ)を引き受ける存在だからこそ疎ましがられながらもカタギに必要とされていた、って事なんですか?
あれ?そうすると完全に民俗学ですね…。このパラグラフの内容は本文とは全く関係ないのですがつまりそうなるとヤクザの役回りというのは持衰(船が嵐に逢う事を避ける為の人柱)やもっとわかりやすく言えば霊能者たる巫女と同じだったと言う事なのかな?もっと過激に(ほぼノリだけで強引に)言えば人の罪を背負って天に召されたイエス=キリストといえなくもないでしょう(流石に強引すぎ…)。
思考が回転していきます。
考えれば考えるほど面白い、そんな材料を提供してくれる本でした。
ただ、P.299において「犯罪種別検挙者数に占める暴力団員の比率」(警察白書)を筆者は挙げて「殺人や強盗に関してはそれぞれ25%及び19%を占めているだけである」と述べているがこれはざっと読んだ限り初歩的な統計のトリックであるように思える。
つまり、ヤクザは全体でも4万4千(全国暴力追放運動推進センターより)人、対するカタギはその他の…まぁ不公平であるから幼児、それに多分ヤクザの構成員の数に女性は入っていないのだろうからそれを抜いたとしても物凄く荒く計算して軽く500倍の2000万くらいはいるわけでしょう。
要するに母集団の数が全く違う。500分の1しかいない人間が占める比率として果たして25%は低いのであろうか?という事。
あとところどころでヤクザの典型的な主張である「自分たちを締め付けると地下に潜るからもっとタチが悪くなる」とか「政治家や大企業はもっと悪い事をやっている」というのを取り上げてるのもどうかと思います。「あの子もやってるんだから」っていう理屈は小学校ですら通用しないような…。
ま、そんな感じ。
肝心の中身はといえば全くタイトルそのまんま。ただ異種の民族と自民族の差異から自民族の特徴を知る、というのが文化人類学の立場だったと思うのだけれど著者の語る言葉の中にはそういう明確な内容はない。「日本人」と「ヤクザ」という対比はあっても。
そして、この本は真面目な学術本なので半端な気持ちで手に取ると、寝ます(苦笑。
印象に残った文。
「ヤクザは日本人の中心的自我の一つの変形であり、逆もまた真なりといえる(P53)」
…つまり(ここからはこの本を読んでの僕の勝手な考えだけれど)、日本人や日本社会にとってヤクザは決して「異物」ではなく、それどころか日本人の思う「日本的である」という事の一つの象徴(例えば義侠心であるとかそういった事)とされている、という事。
この部分を読んでおととしだかに読んだ森孝一先生の『宗教からよむ「アメリカ」』という本に「モルモン教はアメリカ人よりアメリカ的であった事も政府によって危険視された原因の一つであった(これも記憶によるのでちょっと正確かどうか保障しかねるけれど)」というような記述があった事を思い出しました。
モルモン教が潰されたのは合衆国に合流する意思がなかったのが一番大きな原因だとは思いますが(一夫多妻制の容認など)。
そしてその山森先生の日記で片っ端から「ヤクザ」で過去ログを漁っていた時に見つけた学生の発言(この本を使って院で授業をしたときの話)、「イスラエル人とパレスチナ人のことを考えればいい。イスラエル人がいなければパレスチナ人はいなかったし、パレスチナ人がいるからイスラエル人のアイデンティティがある。そして両者は互いに離れられないぐらい絡まりあって、互いを反映して、だんだん似てくるのさ」
これも興味深いと思います。文中で述べられているヤクザとカタギとの関係とはちょっと違う気もするけれど。
これを読んで思い出すのは「相争う二つの陣営は対立するが故に互いに徐々に歩み寄り、構造が似ていく」という話。これはどこで読んだか忘れた。そしてとても思い出したい。たしかアメリカの二大政党制の話かなんかで出てきたんだけど…。
さらに話を進めていくと敵と戦う為に生まれた組織は戦いが長く続く内に組織自体にコミットする(という表現はどうだろう?あってんのかな)人間が多数出てきて組織それ自体を保つ為に敵が必要になってくる(パレスチナ人が一応組織としてPLOをやっていられるのは多分対イスラエルという目標があるからでしょうし、日本での例を挙げれば左翼から乗り換えたオウムが弱体化してきて存在価値がなくなって困ってる公安調査庁だとか)…という所までたどり着くような気もするけれど、これは完全に別の話になりますな。
人間が暮らしていくところにヤクザなりギャングなり呼称はなんでもアウトローという存在は発生するだろうけれど(これは後述)それは別に必要としてるから、というわけじゃなく自然に生まれる、という話だし。
いや、発生は望まれて発生するわけではないけれど常に進んで生贄になる役回りの人間というのは社会に望まれてるのか…(フレイザーの金枝篇にある「豊作を願って乞食を王として担ぎ、豊作であればもてなし、凶作であればこれを殺す」という話を思い出しました。あれ、乞食という人種(?)がいなかったら誰彼構わず生贄って事になって嫌だもんなぁ…)。ふむ。
そしてもう一つ、
「大規模な社会において逸脱のレッテルを貼ることは、一部の人々を社会的不適合者としてより分ける事によって、対照的に他の人々が社会秩序に『適合』している事を際立たせる事になり、したがって社会の統一を強める事になる(P.301)」
『聖人たちからなる社会を、つまり模範的な人々からなる修道院を思い浮かべてみてもらいたい。そこではいわゆる犯罪はありえないだろう。ところがそのような場ではふつうの人々には許す事のできる些細な過ちと思われることが、ふつうの社会でいわゆる犯罪が引き起こすであろうスキャンダルに等しい結果を生み出すのだ(ben-Yehuda 1985)(P.276)』
という記述もまたふむふむ、と思わされる。社会の中では予め「社会の周辺の何%は犯罪者と見なす」という決定があって実はその周辺の住人が犯した「犯罪」の軽重はどうでもよく、ただその社会の構成員にその社会がどういう性質かを示す為(つまり、なんでも輪郭がはっきりしていた方がモノの形はつかみやすいといったような)、そして社会がその目指す方向に更に変化していく為(先ほどの修道院の例で言えば「更に善人になる」為)の…悪く言ってしまえば生贄にされている、ってことなのかな。
しかしそうすると必然的に一旦生まれた社会は延々と縮小の方向に向かっていく、って事になっちゃうのだけれど。きっと修道院の最後の一人は自分より少し善人ではない他者を排除した後自分の不完全さを呪って首を吊るでしょう。
なんか書いてる内に上下二つのトピックが重なってきましたね。つまりヤクザという人種は一種穢れ(ケガレ)を引き受ける存在だからこそ疎ましがられながらもカタギに必要とされていた、って事なんですか?
あれ?そうすると完全に民俗学ですね…。このパラグラフの内容は本文とは全く関係ないのですがつまりそうなるとヤクザの役回りというのは持衰(船が嵐に逢う事を避ける為の人柱)やもっとわかりやすく言えば霊能者たる巫女と同じだったと言う事なのかな?もっと過激に(ほぼノリだけで強引に)言えば人の罪を背負って天に召されたイエス=キリストといえなくもないでしょう(流石に強引すぎ…)。
思考が回転していきます。
考えれば考えるほど面白い、そんな材料を提供してくれる本でした。
ただ、P.299において「犯罪種別検挙者数に占める暴力団員の比率」(警察白書)を筆者は挙げて「殺人や強盗に関してはそれぞれ25%及び19%を占めているだけである」と述べているがこれはざっと読んだ限り初歩的な統計のトリックであるように思える。
つまり、ヤクザは全体でも4万4千(全国暴力追放運動推進センターより)人、対するカタギはその他の…まぁ不公平であるから幼児、それに多分ヤクザの構成員の数に女性は入っていないのだろうからそれを抜いたとしても物凄く荒く計算して軽く500倍の2000万くらいはいるわけでしょう。
要するに母集団の数が全く違う。500分の1しかいない人間が占める比率として果たして25%は低いのであろうか?という事。
あとところどころでヤクザの典型的な主張である「自分たちを締め付けると地下に潜るからもっとタチが悪くなる」とか「政治家や大企業はもっと悪い事をやっている」というのを取り上げてるのもどうかと思います。「あの子もやってるんだから」っていう理屈は小学校ですら通用しないような…。
ま、そんな感じ。
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